誤算
冷たい石の感触が頬に触れていた。
エルネスタがゆっくりと瞼を持ち上げると、見知らぬ天井が広がっている。
罅割れた石壁、崩れかけた梁。
かつては祈りの場だったのだろう、剥がれた壁画の跡が、うっすらと残っていた。
両の手首には、淡く光る枷がはめられている。
魔力を封じる類のものだと、聖女である彼女にはすぐに分かった。
(ここは……どこなのでしょう)
薄れゆく記憶を、もう追えなくなる前に辿る。
神殿が襲われ、逃げ惑う信者たち。
そして——イスタロテだ。
意識が途切れる寸前に抱え上げられた感覚があり、それが最後だった。
身を起こそうとして、力が入らないことに気づく。
枷のせいだけではない。身体の芯に、鉛のような重さが居座っていた。
どこか遠くから、幾人もの女の声が重なって聞こえてくる。
祈りにしては抑揚が歪であり、言葉の一つ一つに、隠しきれない熱と欲がこびりついている。
メルン教のものではない。
イスタロテ派の、彼女たち独自の「祈り」なのだろう。
(メルン様……どうか、お声を……)
いつもなら、祈ればすぐに応えてくれる温かな気配。
だが、今は何の反応もない。
もう一度、もう一度と祈りを重ねても、返ってくるのは静寂ばかりだ。
生まれてこの方、こんなにも神を遠く感じたことはなかった。
その代わりに、頭の奥の深い場所で、何かがゆっくりと目を開ける気配がした。
『 』
声、と呼ぶには冷たすぎた。
抑揚もなく、温度もない。
祈りでも慈しみでもなく、ただそこに「在る」だけの気配。
近頃、よく感じるようになったものだ。
神託の最中、ふとした瞬間に混ざり込む、自分のものではない何か。
(あなたは……誰、なのですか?)
問いかけても答えはない。
ただその気配は少しずつ、彼女の輪郭を内側から押し広げようとしていた。
「——お目覚めかい、聖女様」
声のした方へ視線を向けると、祭壇の前にイスタロテが立っていた。
ボディスーツ姿で、腕を組んでこちらを見下ろしている。
「乱暴な連れ出し方をして悪かったね。だが、こうでもしないと、あんたは頷いてくれないだろう?」
「……何を、するつもりなのですか?」
エルネスタの声は、自分でも驚くほど掠れていた。
「言っただろう。あんたが要るのさ」
イスタロテは祭壇の縁を指でなぞりながら、うっとりと語り出す。
「男は貴重だ。だが、この世に生まれてくる男は、揃いも揃って貧弱ときてる。それを、あんたの力で作り変える」
「作り変える……?」
「あぁ。神の力っていうのは器を選ぶらしいけど、エルネスタのそれは規格外だ。匿った男たちに注ぎ込めば、最強の男が出来上がる。そうすれば——」
彼女の瞳が恍惚に濡れた。
「私たち全員が、平等に孕める。誰も奪い合わなくていい。男を巡って血を流すことも、飼い殺しにすることもなくなる。争いのない、優しい世界さ」
その理屈は、あまりにも身勝手だ。
世界は繁栄するかもしれない。女は幸せを感じられるかもしれない。
だが、男は?
結局のところ、彼らが搾取されるという現実は変わらないのに。
しかし、本人は本気だった。
だからこそ恐ろしいのだ。
そして、エルネスタはようやく合点がいってしまった。
近頃、神託を歪ませていた、もう一つの声。
時に処理しきれないほどに溢れてくる、身に覚えのない言葉の奔流。
あれは、神が与えたものではなかったのではないか。
エルネスタの内側で膨れ続ける、「力」そのものだったのではないか。
「……お断り、します」
枷に繋がれたまま、それでもエルネスタは睨み返す。
「わたくしの力は、メルン様からお預かりしたもの。誰かを歪めるために、使わせはいたしません」
「歪める、とは人聞きが悪いな。より善くするんだよ」
「同じことではないですか…!」
イスタロテは小さく息を吐くと、いつの間にか背後にいた信者たちへ手を掲げた。
それを合図に、祭壇を囲む女たちの手へ、淡い光の紋様が浮かび上がる。
光の魔術だ。床へ環を描くように、幾つもの術式が連なっていく。
歪な祈りの声が、少しずつ大きくなっていった。
「準備は整いつつある。あんたが頷こうが頷くまいが、力をいただくことに変わりはない」
枷が魔力を封じ、抗うことすらできない。
迫りくる光の環を前にして、エルネスタの脳裏には、一人の男の顔が浮かんでいた。
(バージル様……)
初めて、神ではなく人の温もりに心を委ねてしまった相手。
縋るように、その名を思い浮かべた瞬間。
内側のソレが大きく蠢いた。
身体の奥から、熱ではない何かがせり上がってくる。
枷の光が、じじ、と音を立てて明滅した。
「……っ、な、なに……これ……」
自分の意思とは無関係に指先が痙攣する。
視界の端が白く霞み、思考が引き剥がされていくような感覚。
『——見つけた』
温度のない声が、はっきりと内側に響いた。
その一言に、エルネスタの心臓が凍りつく。
問い返す間もなく、部屋の空気がビリビリと震え出した。
祭壇の燭台が倒れ、壁の破片が弾け飛ぶ。
組み上げた術式が次々と砕けていく。
「お、おい……なんだ、この気配は!?」
「イスタロテ様、力が……聖女様の力が、勝手にっ……!」
さすがのイスタロテ派も、顔色を変えて後ずさる。
彼女たちが求めた“力”そのものが、器を無視して溢れ出そうとしているのだ。
「まだだ……まだ、器を馴染ませる準備が……くっ、早すぎるっ……!」
イスタロテの余裕が崩れ落ちる。
信者の何人かは、立っていられずに膝をついてしまう。
(だめ……わたくしが、わたくしでなくなってしまう……)
エルネスタは薄れゆく意識の中で、ただ見ていることしかできなかった。
(——バージル様……っ)
最後にもう一度、その名を呼んで、エルネスタの意識は白い奔流の中へと呑み込まれていった。




