驚き
王都に戻ってから二日が過ぎた。
マリエルから与えられた休息は、思っていたよりもずっと穏やかだった。
朝は鳥の声で目を覚まし、セラフィーネの作った朝食を食べ、リーネットと他愛のない話をする。
神殿にいた頃のような張り詰めた空気はどこにもない。
あの重たい神気も、甘すぎた香も、今はもう遠い記憶のようだった。
「バージル、口の端にパンくずがついているぞ」
「え? あぁ、すみません」
向かいのセラフィーネが当然のように手を伸ばしてくる。
指先が頬をかすめて、俺は反射的に身を引いた。
彼女は少しだけ不満そうに眉を寄せたが、すぐにいつもの涼しい顔へ戻る。
「逃げるな。妻が夫の世話を焼くのは自然なことだろう」
「ま、まだ返事はしてませんよ……その話」
「時間の問題だろう?」
澄ました顔で言い切られると、こちらは苦笑するしかない。
その隣では、リーネットが焼きたてのパンをちぎりながら、呆れたように肩をすくめていた。
「セラフィーネさん、最近ますます遠慮がなくなってませんか?」
「遠慮していては何も手に入らないからな。お前も学ぶといい」
「わ、私はそういうのは……ゆっくりでいいんです」
顔をほんのり赤くしてリーネットが視線を落とす。
誰かに命を狙われることもなく、無理に気を張ることもない。
こんな時間を過ごしていいのかと、時々不安になるくらいには平和だった。
だが——それも今日までだった。
玄関の扉が乱暴に叩かれた。
朝の空気を裂くような余裕のない音。
俺たちは同時に顔を上げる。
「……この叩き方は、穏やかじゃないな」
セラフィーネがすっと立ち上がり、腰の剣に手をかけた。
俺も席を立って扉へ向かうと、彼女が先に出て、警戒しながら扉を開ける。
そこに立っていたのは、見覚えのある女騎士だった。
「クラリスさん……?」
神殿に向かう前、王城の門で俺たちを迎えてくれた騎士だ。
隙のない立ち姿をしていた彼女が、今は肩で息をしている。
額には汗が滲み、鎧のあちこちに土埃がついていた。
「セラフィーネ様、バージル殿。火急の報告です」
膝をつくのも忘れて、彼女は早口で告げた。
「昨夜遅く、メルン神殿が襲撃を受けました。イスタロテ派です」
「……なんだと?」
セラフィーネの声が一段低くなる。
「信者数名が負傷。幸い、命に別状のある者はおりません。ですが——」
クラリスは一度言葉を切り、それから俺を見た。
「聖女エルネスタ様が、連れ去られました」
その言葉が、頭の中で遅れて響く。
エルネスタが連れ去られた。
「あ、諦めたんじゃ、なかったのか……」
思わず、そう口にしていた。
イスタロテ派は俺に負けて引き下がった。
手ぶらで帰ると言って、部下を連れて去っていったはずだった。
(……いや、あいつは何て言ってた?)
記憶を手繰る。イスタロテは「負けは負けだ」と笑って、それでも「今日のところは」と付け加えていた。
あれが諦めの言葉ではなく、仕切り直すという宣言なのは理解できる。
しかし、まさかこれほど早くに動き出すとは。
そして、どうしても思い出してしまう。
眠れない夜に、部屋を訪ねてきたエルネスタのことを。
神の声は大きすぎて逃げ場がないと、すがるように俺の胸へ顔を埋めた彼女。あの時、彼女は確かに怯えていた。
聖女なんていう大層な肩書きの奥で、一人の人間として、何かに追い詰められていたのだ。
あの手を、振り払わなくてよかったと思っていた。
今度は、こっちから手を伸ばす番だ。
「……行きましょう。エルネスタさんを、取り返しに」
俺がそう言うと、セラフィーネは静かに頷いた。
「そう言うと思っていたよ。だが、バージル」
彼女は剣から手を離し、腕を組む。
「これは、お前の私情だけで動いていい話じゃない」
「……どういう意味ですか?」
「聖女はメルン教の象徴だ。国の信仰の要と言ってもいい。その聖女が拐われたとなれば、これはもう一人の女性の問題ではなく、国家の問題になる」
冷静な声だった。感情がないわけじゃない。
むしろ、抑えているのが伝わってくる。
「勝手に飛び出せば、私たちはただの跳ねっ返りだ。だが陛下の名の下に動けば……」
「セラフィーネさんもバージルさんも、堂々と剣を抜けるわけですね」
「そういうことだ。故に、まずはマリエル様に話を通す」
「なるほど……」
この世界の理屈は、未だに俺の肌には馴染まない。
そもそも国の長と関わる機会なんてなかったからな。
それでも、セラフィーネが筋を通そうとしているのは分かる。
力任せに突っ込むだけが正解じゃないと、彼女は誰よりも知っているのだ。
そこへ、リーネットがすっと顔を上げた。
「……あの。なら私、できることがあるかもしれません」
「リーネットさん?」
「イスタロテ派の足取りです。あれだけの人数で神殿を襲って、聖女様を連れて逃げたなら、痕跡は必ず残ってます。都市の外へ出るにしても、通れる道は限られてますし」
その口調には、いつもの気弱さがなかった。
俺の背中に隠れて震えていた案内人ではない。
「王直属の調査補佐って肩書き、こういう時にこそ使えると思うんです。都市案内人の頃の伝手も、まだ生きてますからっ!」
胸を張るリーネットに、セラフィーネがふっと笑う。
「頼もしいな。昇進した甲斐があったじゃないか」
「も、もう……茶化さないでください!」
顔を赤くしながらも、リーネットの目は真剣だ。
この短い間に、彼女も確かに変わっている。
「決まりだな。私は陛下に上申して正式な許可を得る。リーネットは足取りを追え。バージルは——」
「俺は、いつでも動けるようにしておきます」
「あぁ。お前の拳と大剣、お前自身が一番の切り札だからな」
セラフィーネは剣を鞘へ収め直すと、扉の外へ目をやった。
空はよく晴れている。
「行くぞ。時間との勝負だ」
俺たちは頷き合い、家を出た。
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