敵の規則
カレントの敗北から半年後、ケルネリア王国では軍令の改定が始まった。
王都の官僚たちは、フェルセインを交えて新しい規則を検討した。
しかし、議論は容易には進まなかった。
「確認を省けるようにすれば、偽の命令で兵を動かされる危険がある」
法務官が言った。フェルセインは首を横に振った。 「すべて省けとは言っていない。カレントでは、わしが出した命令を南方の指揮官が受け取ったかどうか、その返事を待たされたのだ」
「受け取っていない命令に従って兵が動けば、軍は混乱します」
「それは分かる。だが、敵が川を渡ろうとしているときに、使者の往復を待っていては間に合わん」
「では、確認が取れないまま兵を動かすのですか」
「それを認める場合と、認めない場合を決める必要があると言っている」
法務官は机に広げた軍令を見下ろした。
「どこで線を引くかが問題ですな」
「だから、こうして集まっているんだろう」
フェルセインが言うと、軍務官の一人が小さく笑った。
セヴェルも会議に参加していた。
彼はポルタ事件以来、命令制度の改革に関わっていたが、カレントの敗北によって、自分たちが作った仕組みの問題を思い知らされていた。
ポルタ事件の後、王国では、官吏が退任したり死亡したりした場合、その者の権限を失効させ、記録にも反映させるための法律が制定されていた。
レヴォカ法と呼ばれるこの法律は、かつて正当な権限を持っていた者の名義で、新たな命令が発せられることを防ぐためのものだった。
だが、カレントの戦いでフェルセインが出した命令は、失効した権限によるものではなかった。
正当な軍令に従って確認を受けようとした結果、必要なときに兵を動かせなかったのである。
「戦場で命令を出すたびに確認するのではなく、あらかじめ指揮官に認める権限を決めておく方法があります」
セヴェルが言った。フェルセインは顔を上げた。 「どういう意味だ」
「たとえば、国境を守る将軍には、戦役の期間中、配下の各部隊を必要に応じて移動させる権限を与えます。どの部隊を動かせるか、どこまで指揮できるかを事前に定め、関係する指揮官にも知らせておくのです」
「そうすれば、南方の指揮官から返事が来なくても、兵を戻せるのか」
「命令が確かに将軍から出されたものだと確認できれば、引き渡しの記録が届く前でも移動を始められます。記録はあとから照合します」
フェルセインは地図の上で指を動かした。
「それなら、あのときも間に合ったかもしれん」
法務官は納得しなかった。
「将軍の名を騙る者が現れたらどうします。ポルタでは、正式な書類が悪用されたのですぞ」
「権限を与える際に、その範囲と有効期間を記録します。命令そのものについても、誰が発したかを確かめる手段は残します。ただし、兵を移すたびに一から承認を取り直すことはしません」
「権限を持つ将軍が裏切った場合は?」
「その危険は残ります。だからこそ、与える権限を必要な範囲に限り、期間が終われば失効させるのです」
フェルセインは考え込んだ。
「それなら、戦場でも使えるかもしれん」
軍務官が口を挟んだ。
「しかし、敵にその範囲を知られれば、そこを突かれるかもしれません」
セヴェルは頷いた。
「その危険もあります。権限の範囲を決めれば、敵にもこちらの行動を予測する手がかりを与えることになります」
「結局、完全な制度は作れないということか」
フェルセインが言った。
「おそらく」
セヴェルは答えた。
「ですが、完全でないからといって、何もしないわけにはいきません」
*
同じころ、エスロディアでも軍制改革が進められていた。
スプーフェンはカレントの勝利によって名声を得たが、彼自身は戦いの結果に満足していなかった。
敵軍の主力を取り逃がしたことが、次の戦争で大きな問題になると考えていたからである。
彼は部下たちを集め、ケルネリア軍の撤退について検討した。
「南から北へ兵を戻すのが遅れた。あれが敵の敗因だったな」
スプーフェンが言った。
「はい。南方への陽動が功を奏しました」
副官が答えた。
「だが、フェルセインは北で橋を架けていることに気づいていた。それでも予備隊が戻らなかったのはなぜだ」
「命令の確認に手間取ったと聞いております。ケルネリアでは、昨年の軍需物資の事件以来、軍令の手続きが厳しくなったそうです」
「それなら、北へ送られた騎兵二百はどう説明する?」
副官は少し考えた。
「別の命令で動いたのでしょうか」
「おそらくな。だが、同じ将軍が命じたのに、動かせる兵と動かせない兵がいた。その違いを知りたい」
スプーフェンは地図を広げた。
「それに、フェルセインは最後には軍を退かせた。王都から渡河地点を守るよう命じられていたはずなのに、橋を捨てて西へ退いた」
「敗走する軍に、王都の許可を待つ余裕はありません」
「もちろんだ。だが、予備隊を戻すときには確認が必要で、撤退するときには必要なかったのか。それとも、あの男が命令に背いたのか」
将校たちは顔を見合わせた。
「われわれは敵の予備隊が遅れたおかげで勝った。しかし、なぜ遅れたのか、どこまでなら敵が自由に動けるのか、まだよく分かっていない。次も同じように動くと思って攻めれば、今度はこちらが不意を突かれる」
若い将校が尋ねた。
「では、次の戦いでも陽動を仕掛けるのですか」 「それを決める前に、調べることがある」
スプーフェンは地図を畳んだ。
「ケルネリアの軍令を手に入れろ。どの命令に確認が必要で、どの命令なら現地で出せるのか。王都の命令に背いた将軍がどう扱われるのかも知りたい」
「敵の規則を学ぶのですか」
「そうだ」
「われわれには、われわれの軍令があります」
「われわれの軍令を読んで、ケルネリアの将軍がどう動くか分かるのか」
将校は答えなかった。
「敵が何を守ろうとしているのかを知らなければ、敵が何を捨てられるのかも分からん」
*
スプーフェンの命令を受けた将校が最初に訪ねたのは、エスロディアの国境監察所だった。
そこには交易路を行き来する商人の通行証や荷送り状が集められ、ケルネリアの官吏の異動や新しい法令についても、商人たちから情報が寄せられていた。
監察所の奥には、そうした情報を扱う小さな組織があった。
正式な軍の諜報機関ではなく、交易路の安全を調べるという名目で、商人組合から資金を受け取って活動していた。
ケルネリアの役所に出入りする者や、国境を越えて荷を運ぶ者にも協力者がいた。
将校が軍令の写しを求めると、組織の長は棚から数冊の帳面を取り出した。
「カレントの戦いの前に施行されたものなら、ここにあります。新しい改定については、まだ十分に集まっていません」
「軍の命令書まで手に入るのか」
「商人にも軍需品を運ぶ仕事があります。軍の書式をまったく知らずに済むわけではありません」
将校は帳面をめくった。退任した官吏の権限を失効させるレヴォカ法についても、簡単な記録があった。
「ずいぶん詳しいな」
「ケルネリアでは、昨年から書類の扱いが大きく変わりました。商人たちも困っています」
組織の長は別の帳面を開いた。
そこには、ポルタの南倉庫から搬出された鉄の数量と、フォルケン城砦への到着日が記されていた。
将校はその記録に目を留めた。
「これは、戦争の発端になった鉄ではないか」
「そうです」
「なぜ、こちらに受領の日付まで分かる」
組織の長はすぐには答えなかった。
「荷を運んだ商人から聞き取ったものです」
「その商人は、ケルネリアの役所に調べられているはずだ」
「商人は一人ではありません。荷を運ぶ者も、買い取る者もいます」
将校はそれ以上尋ねなかった。軍令の写しを受け取ると、スプーフェンのもとへ戻った。
その日の夕方、組織の長は部下を呼んだ。
「ポルタの仲介人について、何か分かったか」
「まだです。最後に使った宿は分かりましたが、そこを出てからの足取りが途絶えています」
「もう探すな」
「しかし、あの男が捕まれば、命令書のことを話すかもしれません」
「だから、こちらから近づくなと言っている」
部下はうなずいた。
組織の長は、将校に見せた帳面とは別の薄い冊子を机に置いた。
そこには、ポルタの文書役所で使われていた登録番号の扱いと、差し戻された申請書の再提出手続きが記されていた。
最初の申請を無害な内容で受理させ、修正を求められた後に命令の本文を入れ替える方法についても、短い覚書が残っていた。
「このやり方は、もう使えないのか」
組織の長が尋ねた。
「ケルネリアでは、再提出の際に内容を確認し直すようになりました。退任者の名義も照合されます」
「ならば、同じことを繰り返しても無駄だな」
部下は冊子を閉じた。
「しかし、結果として戦争になりました。鉄を動かしただけで、あれほど大きな騒ぎになるとは」
「われわれが命じたのは、鉄を運び出すことだけだ。フォルケンの領主がどう答えるかも、ケルネリアの王が軍を出すかも、分かるはずがなかった」
組織の長は窓の外を見た。監察所の門では、東へ向かう商人たちが通行証の確認を受けていた。
「それに、戦争になったからといって、われわれの仕事が成功したとは限らん。ケルネリアは以前より書類を厳しく調べるようになった。国境を越える商人から情報を集めるのも、難しくなるだろう」
「では、これからは」
「新しい規則を調べる。あの国が何を変えたのか、まずそれを知らなければならん」
部下が退出すると、組織の長は薄い冊子を引き出しにしまった。
エスロディアの宮廷が、この組織の活動をどこまで知っていたかは明らかではなかった。
商人組合を通じた資金の流れは複雑で、軍や宮廷の役人の中にも、組織から情報を受け取っている者がいた。
しかし、ポルタの不正な搬出命令が王命によって作られたことを示す記録は残っていなかった。
*
翌年も両国の国境では小規模な戦闘が続いた。しかし、カレントのような大きな会戦は起きなかった。
ケルネリア軍は、命令の発行者とその権限を確認する一方、現地の指揮官にはあらかじめ一定の裁量を与え、その範囲内であれば王都の確認を待たずに行動できる仕組みを整えた。
この新しい仕組みは、ヴァリデン制度と名づけられた。
カレントの戦いで軍の行動を遅らせた確認手続きを見直し、命令の正当性と迅速な実行を両立させようとするものだった。
一方、エスロディア軍も、ケルネリアの軍令を研究するうちに、権限の範囲を明確にすることの利点に気づいていた。
スプーフェンの勝利は指揮官の判断に負うところが大きかったが、別の指揮官が同じように行動できる保証はなかった。
そこで、現地の指揮官に認める権限を明文化し、その範囲を定期的に確認する仕組みを取り入れた。
両国は互いに敵対しながら、相手の方法を取り入れていった。
やがて、ケルネリアの新しい軍令とエスロディアの軍令には、よく似た条項が現れるようになった。
両国の役人たちは、それぞれ自国の制度が優れていると主張した。
しかし、実際には、互いの失敗と成功を見ながら、同じ問題に対する似た答えを見つけていたのである。




