倉庫の鍵
南倉庫の管理人オスカーは、翌朝、帳簿を見て首をかしげた。
前日に搬出された鉄製品の量が、予定より多かったのである。
彼は倉庫の鍵を預かって十七年になる。帳簿の数字を間違えることは滅多になかったし、仮に間違えたとしても、翌朝には必ず気づいた。
ところが、その日の帳簿には、鉄の棒二百本、鋤の刃百五十枚、馬具の金具三箱が搬出されたと記されていた。
いずれも王国軍へ納める予定の品で、今週中に西の軍営へ送る手はずになっていたものだった。
「昨日の午後、誰が荷を出した」
オスカーが尋ねると、若い倉庫番は帳簿を覗き込み、少し緊張した顔で答えた。
「私です。市庁舎からの命令書がありましたので」
「見せてくれ」
倉庫番は書類の束から一枚を抜き出した。オスカーは印章を確かめ、発行者の名前を読んだところで眉をひそめた。
「この人は、三年前に辞めているぞ」
「え?」
「今は北の村に住んでいるはずだ。どうしてこの人の名前で命令が出るんだ」
倉庫番は青ざめたが、すぐに机の引き出しから別の紙片を取り出した。
「文書室で確認しました。発行済みの命令書に間違いないと、返事をもらっています」
オスカーは紙片を受け取った。照合済みの印が押され、命令書と同じ文書番号が記されている。
「誰が確認に行った」
「うちの使いの少年です。昼過ぎに戻ってきました」
「命令書を持ってきたのは」
「東方から来た鉄商人です。灰色の外套を着ていました」
オスカーは顔を上げた。
「名前は」
「ルーデン、と」
彼は命令書を机に置いた。
「西門へ行くぞ」
*
マティアスは、オスカーの説明を聞き終えると、昨日の帳簿を取り出した。
「通行証は本物だった。商業特許の相続記録もあった」
「それは聞いた。だが、倉庫から荷を出す権利まであったわけじゃないだろう」
「もちろんだ」
「だったら、そこを調べなければならん」
オスカーは命令書と照合票を机に並べた。
「見ろ。昨日の朝に発行されたことになっている。発行者は三年前に辞めた役人だ。ところが、文書室はこれを正式な命令書だと認めている」
マティアスは照合票を見た。
「文書番号は?」
「帳簿にあるそうだ」
「なら、文書室の人間が関わっているのか」
「分からん。少なくとも、あそこに記録があるのは確かだ」
二人は市庁舎へ向かった。
文書室は建物の北側にあり、夏でもひんやりとしていた。棚には羊皮紙を束ねた紐が幾重にも垂れ、書記たちが長机に向かって筆を走らせている。
文書官は、命令書を見るなり嫌な顔をした。
「朝から三人目ですよ。その件で来るのは」
「ほかにも何かあったのか」
「北の城砦から、兵糧の搬出命令を確認してくれと使いが来ました。王都の監督官からも問い合わせが来ています」
オスカーはマティアスを見た。
「その命令書も、退職した役人の名前なのか」
「いいえ。北のものは現職の補佐官です。ただ、本人は命令を出した覚えがないと」
文書官は棚から厚い帳簿を下ろした。
「こちらが昨日の発行記録です。南倉庫の命令書は、確かに載っています」
マティアスは記録を確かめた。日付、番号、搬出する物資の種類、受領先。すべて命令書と一致している。
「誰が書き込んだ」
「昨日の当番は二人です。どちらも自分では書いていないと言っています」
「そんなことがあるか」
「私だって、そう思いますよ」
文書官は苛立たしげに答えた。
「しかし、帳簿はここにある。印章もなくなっていない。昨日の午後、帳簿を確認したときには、この記録がありました」
マティアスは帳簿を閉じかけて、手を止めた。
「昨日の午後?」
「ええ」
「倉庫へ照合票を出したのは、昼過ぎだったな」
「そうです」
「なら、そのときにはもう記録があったわけだ」
「もちろんです。記録がなければ、照合済みとは答えられません」
オスカーが口を挟んだ。
「すると、命令書だけが偽造されたんじゃない。発行記録まで作られている」
文書官は頷いた。
「そういうことになります」
三人はしばらく帳簿を見つめていた。
その日のうちに、北方の二つの城砦からも同様の報告が届いた。
どちらでも、正式な命令書と照合記録に基づいて兵糧が搬出されていたが、命令を出したはずの役人は関与を否定していた。
持ち出された物資の行方は分からなかった。
ポルタ市の参事会は臨時会議を開き、王国から派遣されていた監督官セヴェルに調査を委ねた。
*
セヴェルは翌朝、文書室の記録を一冊ずつ調べ始めた。
彼はまだ三十歳になったばかりだったが、王都の法学校では優秀な学生として知られていた。
ポルタへ赴任してからは、商人組合との交渉で何度も衝突していた。
市の古い慣行を尊重しないというのが商人たちの不満であり、セヴェルの方では、法律にない慣行をいつまでも認めることこそ問題だと考えていた。
その日の午後、彼はマティアスとオスカーを呼んだ。
「南倉庫の命令書について、発行記録と照合票を調べました」
セヴェルは机の上に三枚の紙を並べた。
「書かれている内容は、すべて一致しています。文書番号も日付も、受領先もです」
「だから、正式な命令書だと判断されたんだろう」
オスカーが言った。
「ええ。ただし、発行した人間がいません」
「退職した役人の名を使ったんだ」
「それだけなら、命令書を偽造した者がいるという話で済みます。問題は、文書室の記録も同じ内容になっていることです」
マティアスは腕を組んだ。
「文書室の誰かが手を貸したのでは?」
「その可能性はあります。しかし、北の城砦では別の文書室が使われています。三か所すべてで同じことが起きたとなると、協力者が複数いることになります」
「組織的な犯行だと?」
「少なくとも、一人の商人が思いつきでやったことではないでしょう」
セヴェルは紙を一枚持ち上げた。
「私は、ルーデンという男がどうやって通行証を手に入れたのかよりも、彼がどうやって正式な命令書を発行できたのかを知りたい」
マティアスは少しむっとした。
「通行証の問題も重要です。あの男は死んだ商人の名前を使っていた」
「重要です。しかし、通行証は門を通るためのものです。倉庫から軍需物資を持ち出す権利は与えません」
「それは分かっている」
「では、二つの問題を分けましょう。門を通れた理由と、命令書を使えた理由です」
オスカーが頷いた。
「その方が調べやすいな」
セヴェルは窓の外を見た。市庁舎の前の広場では、商人たちが荷車を並べ、翌日の大市の準備をしていた。
「私は、門を閉じるべきだと思っています」
マティアスが顔を上げた。
「全部か?」
「少なくとも、調査が終わるまでは」
「それでは市が止まる」
「軍需物資が盗まれているんです」
「だからといって、何百人もの商人を足止めするのか」
セヴェルはしばらく考えた。
「では、古い通行証を持つ者だけでも、再確認を義務づけましょう」
「それならできる。ただし、文書庫の人手が足りん」
「王都から応援を呼びます」
オスカーが口を挟んだ。
「倉庫の命令書も、当面は発行者本人に確認するようにしたい。照合票だけでは信用できん」
「そうしてください」
セヴェルは頷いた。
「ただし、急ぎの軍需輸送が止まらないよう、例外の手続きも必要です」
マティアスは苦笑した。
「結局、例外ができるのか」
「必要な例外は残さなければなりません」
「その例外を、また誰かが使うかもしれんぞ」
セヴェルは答えなかった。
その日の夕方、ポルタの城門には新しい検査手続きが掲示された。
古い通行証を持つ商人は、市の文書庫で身元を再確認しなければならなくなり、倉庫の搬出命令には発行者本人の署名が求められた。
翌朝から門の前には長い列ができ、商人組合は抗議した。市長はセヴェルを呼び、交易を止めるつもりかと問い詰めたが、セヴェルは命令を撤回しなかった。
しかし、その三日後、王都から新しい報告が届いた。
ポルタと同じ形式の命令書が、王国の別の都市でも使われていたのである。
発行記録も照合票も一致していた。しかも、今度は古い通行証を使った者がいなかった。
セヴェルは報告書を読み終えると、長いあいだ机の前に座っていた。
マティアスが様子を見に来たとき、彼はようやく口を開いた。
「門を改めただけでは、足りなかったようです」
*
翌朝、セヴェルは再び文書室へ向かった。
前日の報告を読んでから、彼は南倉庫の命令書について、発行台帳だけでなく、受付の記録も調べ直すよう命じていた。
文書官は机の上に三冊の帳簿を積み、疲れた顔で待っていた。
「同じ番号が二度出てきます」
文書官は一冊目を開いた。
「最初は、軍の補給品の数量を問い合わせる書類です。記載に不備があり、差し戻されています」
「いつのことですか」
「搬出命令が発行される三日前です」
「そのとき、発行者の確認は」
「済んでいます。こちらに確認の印があります」
セヴェルは指で印を押さえた。
「三年前に退職した補給官ですね」
「はい。古い名簿には、その役職で載っていました。退職の記録は別の帳簿にあります」
「確認した書記は、退職の記録を調べなかったのですか」
「通常の受付では、そこまで調べません。名簿に載っているかを確かめます」
文書官は二冊目を開いた。
「こちらが再提出の記録です。同じ番号ですが、書類の内容が変わっています」
「どの程度」
「最初は補給品の数量の問い合わせでした。再提出されたものは、南倉庫から鉄を搬出する命令です」
セヴェルは顔を上げた。
「問い合わせが、搬出命令に変わったのですか」 「そうです」
「それで、発行者の確認は」
「やり直していません。最初の受付で済んでいますから」
「本文が変わっていても?」
「訂正して再提出された書類は、同じ番号で扱う決まりです」
セヴェルは三冊目の帳簿を開いた。そこには、正式な発行記録があった。
「この記録は、誰が書いたのですか」
「発行を担当した書記が記入したものです」
「昨日は、当番の二人とも書いていないと言っていましたね」
「ええ。発行台帳に直接書き込んだ覚えはない、と。再提出された書類を受け付けた者と、発行済みの書類を整理した者が別だったので、誰がこの命令を扱ったか分からなかったのです。受付記録を調べて、ようやく分かりました」
セヴェルは命令書と三冊の帳簿を並べた。
「つまり、誰かが発行台帳に忍び込んで書き足したのではない」
「少なくとも、この命令書については、そうではないようです」
「最初に書類を受け付けさせ、わざと差し戻させてから、内容を替えて提出する。文書室は、最初の確認記録をそのまま使い、正式な命令として発行する」
「そのようなことをする者がいるとは、考えていませんでした」
セヴェルはしばらく黙っていた。
「実際に確かめましょう」
文書官は眉をひそめた。
「何をですか」
「同じ手続きで、別の命令書が発行できるかどうかです」
その日の午後、文書官の立会いのもと、セヴェルは試験用の書類を提出させた。
最初の書類には実在する役人の名と正規の署名を用い、数量の記載を一か所だけ空白にしておいた。
受付の書記は署名と名簿を照合し、書類に番号を与えたあと、不備を指摘して差し戻した。
しばらくして、同じ番号の書類が再提出された。今度は、補給品の問い合わせではなく、別の倉庫から物資を搬出する命令に変えられていた。
再提出を受け付けた書記は、番号と最初の確認印を確かめ、書類を次の机へ回した。
発行を担当する役人が印章を手に取ったところで、セヴェルが止めた。
「ここまでで結構です」
役人は不思議そうに顔を上げた。
「何か不備がありましたか」
「最初に提出された書類と、いま印章を押そうとした書類は、内容が違います」
「訂正されたのでしょう」
「発行者に確認しましたか」
「受付で確認済みとあります」
「それは、最初の書類についてです」
役人は二枚を見比べ、ようやく手を止めた。
文書官は黙ってその様子を見ていた。
「誰も規則を破っていませんね」
セヴェルが言った。
文書官は答えなかった。
「それでも、別の命令書が発行されるところでした」
セヴェルは試験に使った二枚の書類を重ねた。
「差し戻された書類を再提出するときは、発行者の資格と本文を改めて確認してください。少なくとも、軍需物資に関する命令については、今日からです」
「人手が足りません」
「承知しています。王都にも報告します」
「ほかの文書室でも、同じ手続きです」
「それも報告します」
文書官は三冊の帳簿を閉じた。
「では、南倉庫の命令書を持ってきた商人が、これを仕組んだのですか」
「まだ分かりません。ルーデンは命令書を持っていただけかもしれません。最初の書類を提出した取次人も、再提出した者も、名前は残っていますが、本人の所在が確認できていません」
セヴェルは窓の外を見た。市庁舎の前では、通行証の再確認を待つ商人たちが列を作っていた。
「少なくとも、誰かがこの手続きを知っていたことは確かです」
*
セヴェルが王都へ提出した報告書は、従来の通行制度に重大な欠陥があると指摘していた。
その制度の起源は、王国建国のころにさかのぼる。
初代国王エドリクは、諸領邦を統一した際、各地の通行税と商業特許を整理し、王国全土で通用する共通の通行制度を設けた。
従来の領邦や自治都市が発行した証文も、一定の条件を満たすものは引き続き有効とされた。
後世に「第一の門法」と呼ばれるこの制度は、交易の発展に大きく貢献した。
しかし、古い証文を認める仕組みは、同時に弱点を抱えていた。
証文そのものが正当であっても、それを持っている人物が正当な権利者であるとは限らない。
さらに、王国の行政機構には、文書の発行手続きそのものに欠陥があった。
最初の受付で確認された発行者の資格が、書類の差戻しと再提出を経ても有効なものとして扱われ、本文が変更されても改めて確認されないことがあった。
このため、正式な印章と発行記録がそろっていても、命令の発行者が本当にその内容を承認したとは限らなかった。
セヴェルは、これらの問題とポルタで行った再現調査の結果を一つの報告書にまとめ、王都へ送った。
その報告書を読んだのが、第二代国王アルベリク一世である。




