西門の書記
ポルタの西門で、死者の通行証が見つかったのは、建国紀元二十三年、麦の刈り入れが始まる少し前のことだった。
その日、門の前には朝から長い列ができていた。前夜の雨で東の街道がぬかるみ、荷車が一台、橋の手前で車輪を折ったためである。
ようやく道が通れるようになったころには、羊を追う農夫、麻布を積んだ商人、近郊の村から市へ野菜を売りに来た女たちが、門から半里ほども続いていた。
書記のマティアスは、通行証を調べる机の前で、朝から三度目のあくびを噛み殺した。
「次」
若い門番が声を張り上げると、灰色の外套を着た男が進み出た。
三十代の半ばほどに見える男で、日に焼けた顔には短く刈り込んだ髭があり、右の眉の上に小さな傷があった。後ろには鉄製品を積んだ荷車が二台、御者と護衛が三人ずつついている。
「名前と商売を」
「ルーデン。鉄を扱っています」
「どこから来た」
「東の丘陵から。荷は鋤の刃と釘、馬具の金具です。市の南にある倉庫へ納めることになっています」
男は革袋から折り畳んだ羊皮紙を取り出し、机に置いた。マティアスはそれを開き、印章を確かめた。
古い証文だった。
羊皮紙の端は黒ずみ、折り目には幾度も修繕した跡があったが、市の印章ははっきり残っている。
文字は三十年ほど前まで使われていた書体で、記載された商業特許の形式にも不審な点はなかった。
マティアスは、いつものように証文の名前を読み上げようとして、口を閉じた。
「どうしました」
男が尋ねた。
マティアスは答えず、証文を窓際へ持っていった。陽に透かしてみても、名前の部分を書き直した跡はない。
「ルーデンというのは、おまえさんの名前かね」
「そう申し上げましたが」
「父親の名ではなく?」
「父はヨナスといいました」
「祖父は」
「知りません。私が生まれる前に死んだそうですから」
マティアスは証文を机に戻した。
「この通行証を、どこで手に入れた」
「父から受け継ぎました」
「父親はヨナスだと言ったな」
「ええ」
「ここに書いてあるのはルーデンだ」
「父は商売をするとき、その名を使っていました。父の父が持っていた特許状だからです」
マティアスは男の顔を見た。
「そのルーデンという人間は、三十年前に死んでいる」
男は少しも驚かなかった。
「祖父のことでしょう」
「いや」
マティアスは椅子から立ち上がった。
「わしはその男を知っている」
後ろで待っていた商人が舌打ちした。若い門番は、マティアスがまた昔話を始めたと思ったのか、困った顔をして列の方を振り返った。
「マティアスさん、後が詰まっています」
「この男を詰所へ連れていけ」
「何か問題でも?」
「いいから」
ルーデンと名乗った商人は、門番の顔を見てからマティアスに向き直った。
「私の証文に不備があるのですか」
「調べる必要がある」
「それなら、荷だけ先に通していただけませんか。今日は市で取引があります。鉄は濡らしたくない」
「荷も待たせる」
「困りますね」
男はそう言ったが、声を荒らげることはなかった。むしろ、面倒な手続きに巻き込まれた商人らしい、諦めを含んだ微笑を浮かべていた。
その顔を見たとき、マティアスは初めて、自分が何を恐れているのか分からなくなった。
三十年前に死んだルーデンは、確かに彼の知人だった。
だが、目の前の男はそのルーデンに似ていない。顔立ちも、声も、背格好も違う。何より、年齢が合わない。
同じ名前を使っているだけの、見知らぬ商人にすぎないのかもしれなかった。
それでも、証文を見た瞬間に覚えた胸騒ぎが消えなかった。
マティアスは門番に荷車を脇へ寄せるよう命じ、自分も詰所へ向かった。
その背中に、列の後ろから怒鳴り声が飛んできた。
「いつまで待たせるんだ! 日が暮れちまうぞ!」
マティアスは振り返らなかった。
*
三十年前、ポルタはまだ王国の一都市ではなかった。
市の周囲には小さな領邦がいくつもあり、それぞれが勝手に通行税を取り立てていた。
東から来る商人は山道で税を払い、市の門でまた税を払い、川を渡れば対岸の領主に別の税を払わなければならなかった。
ポルタの商人組合は、近隣の領主たちと個別に協定を結び、できる限り通行を妨げられないよう努めていた。
当時、マティアスは市の文書庫で働き始めたばかりの若い書記だった。
ルーデンという商人を知ったのも、そのころである。
男は鉄を扱っていた。東方から運ばれてくる鉄の棒や農具を買い付け、西方の農村へ売っていた。裕福というほどではなかったが、商売は堅実で、約束した日に必ず荷を届けることで知られていた。
マティアスは何度も彼の特許状を写した。
ある冬、ルーデンは東方への旅から戻った直後に病に倒れた。
最初はただの熱だと思われていたが、三日目に意識を失い、七日目の朝に死んだ。
マティアスは葬儀に参列した。
棺を運ぶ男手が足りず、商人組合の書記たちも手伝いに駆り出されたからである。
ルーデンの棺は重く、雨で濡れた墓地の坂道を登るのに難儀した。マティアスは足を滑らせ、泥の中に膝をついたことまで覚えている。
あのとき、ルーデンには幼い息子がいたはずだった。
名前は何といったか。
マティアスは詰所の椅子に座り、向かいの男を見た。
「おまえさんの父親は、何年に亡くなった」
「六年前です」
「その前は、どこで商売をしていた」
「東の町です。父が死んでから、私が荷を運ぶようになりました」
「ポルタへ来たのは初めてか」
「いいえ。三度目です」
「以前は、どの門を通った」
「北門です。二度とも」
マティアスは、男が質問に淀みなく答えることに苛立ちを覚えた。
嘘をついているようには見えない。少なくとも、急に問い詰められて困っている様子はなかった。
「その証文は、おまえさんの祖父が持っていたものだと言ったな」
「そうです」
「祖父の名前もルーデンか」
「ええ」
「父親の名前はヨナス」
「そうです」
「それなら、どうしておまえさんもルーデンと名乗る」
男は不思議そうな顔をした。
「祖父の名前をもらったからですが」
マティアスは黙った。
ありふれた話だった。祖父の名前を孫につける家など、いくらでもある。
「祖父のことを、父親から聞いたことはあるか」
「多少は」
「どんな人だった」
「商売に厳しい人だったそうです。帳簿の数字が一つ合わないだけで、夜中まで調べていたとか」
マティアスは思わず笑いそうになった。
それは彼の知るルーデンそのものだった。
「ほかには」
「東方へ行くときは、必ず同じ道を通ったそうです。山の南を回る道は遠いけれど、安全だからと」
「そうだ。北の峠は盗賊が出た」
「ご存じなんですか」
「知っているとも」
男はそこで初めて、相手に興味を持ったようだった。
「祖父を知っていらしたんですか」
「葬儀にも出た」
「それは……」
男は少し姿勢を正した。
「祖父がお世話になりました」
マティアスは返事に困った。
あまりにも自然だった。
目の前の男が詐欺師だとすれば、よほどよく準備している。そうでなければ、本当にあのルーデンの孫なのだろう。
「悪かったな。古い名前を見て、驚いたんだ」
「構いません。祖父をご存じの方に会えるとは思っていませんでした」
「証文は本物のようだ。ただし、古い特許状だから、市の記録と照合しなければならない」
「どれくらいかかりますか」
「昼までには済ませる」
男は少し考えた。
「では、荷を見ていてもらえますか。御者たちに昼食を取らせたいので」
「構わんが、荷は動かすなよ」
「もちろんです」
マティアスは若い門番を呼び、商人を外へ案内させた。
詰所に一人になると、彼は机の上に残された通行証をもう一度開いた。
印章は本物だった。
それだけは、間違いない。
問題は、印章が本物であることと、その証文を持っている人間が正当な持ち主であることが、同じではないという点だった。
マティアスは窓の外を見た。
灰色の外套を着た男が、御者たちに何か話している。御者の一人が笑い、男も笑った。
何の変哲もない商人だった。
それでもマティアスは、市の文書庫へ使いを出すことにした。
三十年前のルーデンの記録を持ってくるように、と。
*
昼過ぎ、文書庫から古い帳簿が届いた。
マティアスは、埃を払って革の表紙を開いた。
そこには確かに、ルーデンという商人の名前があった。鉄製品の取引許可、東方への通行権、商人組合への加入記録。いずれも彼の記憶と一致している。
そして、死亡の記録もあった。
建国紀元前四年、冬。
マティアスは、その下に書かれた相続人の名前を読んだ。
ヨナス。
男の話と合っている。
さらに帳簿をめくると、ヨナスが父の商業特許を相続したことが記されていた。相続は正式に認められており、特許状の原本も引き渡されている。
マティアスは椅子にもたれた。
これで話は終わりだった。
彼は門番を呼び、商人を通すよう命じた。
若い門番は安堵した顔をした。
「よかったですね。朝からずっと待っていましたから」
「荷の検査は済んだか」
「ええ。鋤の刃と釘、それに馬具の金具です。申告どおりでした」
「なら、通してやれ」
門番が出ていったあと、マティアスは帳簿を閉じた。
しばらくして、窓の外を二台の荷車が通り過ぎた。
灰色の外套を着た男が、こちらを見上げた。
マティアスが軽く手を挙げると、男は帽子を取って会釈した。
そのまま荷車は市内へ消えていった。
マティアスは、ほっとしたような、少し寂しいような気持ちになった。
三十年前に知っていた商人の孫が、同じ商売をしている。
それだけのことだった。
年を取ると、こういう出来事が妙に胸に残る。
彼は帳簿を棚へ戻し、午後の仕事に取りかかった。
その日の夕方、ポルタ市の南倉庫から、王国軍に納める予定だった鉄製品が持ち出された。
搬出命令には、市の正式な印章が押されていた。
命令書を持参したのは、灰色の外套を着た商人だったという。




