魔法のレシピ
「さて⸺葵。今夜の献立は決まってるのかな?」
帰りのバスの中。シーゴが葵に語りかける。葵はごくごく小さな声で「決まってない…あの人、手が込んだもの食べたいって言ってたけど…。」と呟く。
「ふむ…。そうか…手の込んだもの…」
シーゴはしばらく逡巡すると何やら思いついたのか葵に耳打ちした。
(お酢はお家にある…?手羽先と大根、茄子、そして空芯菜。それから生姜を買って帰ろうか…?)
シーゴの言うとおり、手羽先と大根、茄子、空芯菜に生姜を買って帰宅した葵は琢磨のオムツをチェックしてから支度に取り掛かる。
シーゴは冷蔵庫の野菜室を開けると人参や椎茸を取り出して、葵に手渡す。
「これも使っちゃおう。さて、葵。手羽大根は作れるよね?」
その問いかけに葵は少し頬を膨らませて答える。
「基本の料理くらいなら…一通りはできますけど?」
そんな葵を見てシーゴは少し目尻を下げて微笑むと、ゆっくりと葵の腰に手を回してこう言った。
「ごめんごめん。日本の主婦のスキルは高いもんね。聞いた俺が野暮だった。じゃあ基本のレシピで葵は手羽大根を。人参と椎茸も使ってね。俺はこっちの茄子と空芯菜を…ちょちょっとやっつけちゃうから。」
コトコトと醤油と砂糖の香りが立って手羽先が煮えてゆく。大根もほんのりと色づいて⸺箸で刺すとすんなりと通るほどになった。シーゴはそれを見ると葵に、
「ストップ。あとは予熱で。で、ほら…見て?」とキッチンに置かれたタッパーを見せる。
そこにはほんのりとごま油の香りのする煮汁につけられたふやふやの茄子と、卵と共に炒められた空芯菜が色鮮やかに置かれていた。
「すごい…!これ、シーゴが…?」
葵が目を丸くして尋ねると、シーゴはウインクをして一言。
「たいしたもんじゃないけど…こうして常備菜があるだけで、少し楽になるだろう?さて、それよりも手羽大根…うん、しみてるね…。葵、生姜を1cmほどすりおろしてくれる?」
言われたままに生姜をすりおろすとシーゴはそれを手羽大根の鍋にひょいと入れて、お酢の瓶を手に取り、さっと一回しした。
「これでOK。あとは旦那様の帰宅を待とう。」
総司が帰宅したのは19:30を少し回った頃。
「へとへとだ…飯、何?」
ネクタイを緩めながらそう尋ねる総司に葵は、
「手の込んだもの、食べたいって言ってたから…」と順に皿を並べてゆく。
すっかりと茶色に染みた大根が手羽と共にほかほかと湯気を立てている。副菜にはシーゴが作った茄子の煮浸しと空芯菜の卵炒めを。
「なんか…全体的に茶色い…」
総司がそう呟くと葵はまた俯いてしまった。
シーゴはゆっくりと葵に近づくとこう言った。
「そんなこと言ってられるのも今のうち…さぁ、葵。旦那様が口に運ぶのを見届けてごらん…?」
総司がまず手羽大根の手羽に齧り付くと⸺そのままはぐはぐと夢中になって軟骨までしゃぶっている。そしてそのまま大根に箸を入れると、ハフハフと熱さに耐えながらも夢中で食いついている。
「なんだこれ…ほんのり酸味があってうまい…!!」
シーゴはそんな総司を見るとクスリと笑い、葵に囁く。
「暑さでやられた体にはお酢が効くんだよ…さぁ葵も食べてごらん…。」
言われるがままに葵も箸をつける。まず、大根を一口。
「⸺!!!」
仄かな酸味が口内を駆け巡り、芳醇な醤油の香りとのハーモニーがたまらない。
「美味しい…。」
その一言を聞いたシーゴはふ、と笑うと眠る琢磨の元へ。
「葵。おかわり。」
総司が茶碗を差し出す。
結局のところ、葵が作った手羽大根は八割がた総司が平らげてしまった。
「ああ、食った食った…。じゃあ俺、風呂入ってくるから。」
そう言って総司はリビングを後にする。
食器類を片付けながら葵はふと、自分の頬に当たる髪の毛にハッとして⸺また目を伏せてしまった。
ほんのりと桃の香りが残る艶のある髪。それをあの人は⸺気づきもしなかった。
せっかく勇気をだしてサロンに行ったのに…。
シーゴはそんな葵にゆっくりと近づくと、艶を取り戻した髪をそっと撫でて⸺こう言った。
「目の前に常に宝石があると…人はそれが当たり前だと思ってしまう。葵は何も悪くない。それに…君が綺麗になったところはちゃんとこの俺が見届けたから…ね…?」
その言葉に涙がこみ上げてきそうになったが⸺葵はそれを抑えて悲しげに微笑んだ。
「そう…そうよね…。シーゴがずっと見ててくれたもんね…それで充分。ありがとう…」
シンクの中の皿がカチャリ、と音を立てる。蛇口から垂れる水滴がまるで葵の涙のように悲しげに⸺ポタリ、ポタリと音を立てて排水口に流れていった。




