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魂の所在  作者: 杜 妃湖
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出会い

「翻訳のお仕事、されてるんですね。俺、出版社勤務なんです。なんだか…気が合いそうですね…」

3年前。

年の離れた姉の日向から勧められて行った婚活パーティー。そこで葵は総司と出会った。

日向が言った何気ない一言がきっかけだった。

「ねえ、葵。バリキャリもいいけど…子どもっていいよ?お姉ちゃんは早くあんたにも幸せ掴んでほしいんだけどな…。」

日向には小学生になる子どもの紗弥加がいる。紗弥加もまた葵に懐いていて⸺。

「葵お姉ちゃん、葵お姉ちゃんの赤ちゃんが出来たら…私いっぱい遊んであげる!!えへ…今から楽しみ…。」

そう言われて葵は戸惑いながらも婚活パーティーへと足を運んだのだ。


当時していた仕事⸺留学までして就いた夢の仕事、翻訳家。中学生の頃にダニエル・キイスの「アルジャーノンに花束を」を読んで⸺チャーリィの知能が急激に上がる描写、そしてまたもとに戻る描写に心打たれ、そこからはもう一直線に英語を学んだ。

ありとあらゆる海外の小説を原文で読む日々。

楽しかった。そして日本語訳と並べては⸺先達の技術に感心していた。

だからこそ本気で打ち込んでいた翻訳家としての仕事を、総司は結婚するや否や取り上げてしまった。

「葵には家で待っていてほしい。そこそこ稼いでくるからさ。」

そうして琢磨を授かり、今に至る。


総司がベッドルームへ行った後、葵は本棚から何冊かの本をスッと抜き取る。アガサ・クリスティの「アクロイド殺し」。ヘミングウェイの「老人と海」。

どちらも何回も何回も自分なりに翻訳の練習を重ねた、大切な本。

琢磨が落ち着いているのを確認して、葵はそっとページをめくる。

過去の自分が書き込んだ赤線や貼り付けられた付箋が色鮮やかに目に飛び込んでくる。


そんな葵のもとにシーゴはゆっくりと近づくと⸺「老人と海」を手にして葵に語りかけた。

「すごいじゃないか、葵。君、こんなにたくさん書き込んで…相当勉強したんだね…。名作中の名作だけど、なかなか読もうという気になる若者は…今のアメリカにはいないんじゃないかな…。」

葵はシーゴの方に向き直るとぽつりぽつりと話しだした。

「最初はね…あの人も優しかったの…。翻訳の仕事もたくさん褒めてくれた…。記念日には必ずケーキと花束。誕生日には無理してジュエリーなんかくれたりして…でもね、シーゴ。」

そこまで言うと葵は大きな溜息をついて続ける。

「琢磨を身篭ってから…私は仕事を取り上げてしまって…ああ、私の人生なんなんだろうな、って…。楽しかったのよ…アメリカ留学…。私にはこれしかないんだって…打ち込めて…。」


シーゴは葵のケアしたての髪をひと束そっと持ち上げると、悲しそうに笑う。

「でも、葵は琢磨を授かったこと、後悔はしていないんだろ?」

「それはもちろんそうだけど…琢磨は本当にかわいいし、私もまだあの人を愛してるし…でもね…。」

葵はそこまで言うと再び大きな溜息をついた。

「この子に向き合っているうちに、あの人に対する気持ちが…擦り減っていって…自分も擦り減っていって…。ただあの慌ただしい翻訳家としての日々が…懐かしくて…。それを思うと…少しだけ…虚しい…。」

シーゴは少し思案したあと口を開いた。

「だったら⸺趣味でやればいい。琢磨が寝ている間でも、ほんの15分程度でも。君がまだ出会ってない海外文学はたくさんあるはずだよ…どうだろう…?」


(それは…そうだけど…)

葵は心の中でそう呟くとそっと本を本棚に戻していく。

(あの、一つ一つの文脈を訳していく高揚感には…どうしたって届かない…。)

シーゴはその心の内を察したのか、そっと葵の額にキスをした。

「…シーゴ…!?あなた今、何を…!!」

たちまちに葵の顔が赤く染まる。

「何をって…キスだけど?向こうにいたときに挨拶程度にしただろ?今日の君はちょっと考えすぎて疲れてるから…その脳細胞の一つ一つに慈しみの挨拶をしただけだよ…。嫌だったなら⸺ごめん…。」

シーゴが悲しげな顔をしたのを見て葵は慌てて手を降る。

「ううん!!嫌とかじゃなくて…ちょっと驚いただけだから…その…だいじょぶ…だし…ありがとうね…、シーゴ…。」


「そうか、それなら良かった…」とシーゴが言った刹那⸺よく眠っていた琢磨がぐずり出した。

葵が琢磨の元へ駆け寄ろうとするのを手で制して、シーゴが琢磨のおむつをチェックする。

「おむつは大丈夫。さっきミルクも飲んだよね…。となると甘えん坊さんの時間かな…」

シーゴはそう言うと琢磨をぎゅっと抱きしめて子守唄を口ずさむ。

「Hush little baby,don't say a word...よしよし、いい子だ琢磨…俺が君のベッドになってあげるから…」

その様子を見た葵の目に涙が溜まる。

あの人が⸺総司が一度でもこうして琢磨を抱きしめて子守唄を口ずさんだことがあっただろうか。

二人の愛の結晶なのに⸺ずっと自分に押し付けて…。


シーゴはそんな葵の頭をそっと撫でるとこう言った。

「溢れ出てきてしまうものはすべて出してしまうといい…。心が壊れてしまう前にね…」

たちまちに葵はしゃくりあげ⸺ボロボロと涙が溢れだす。

琢磨がシーゴの胸の中で眠ったあとも、葵は声を殺して⸺静かに泣いていた。

琢磨のためにつけた空気清浄機が水不足でカラカラと鳴っても、葵は泣き止むことがなかった。

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