シーゴとミルクティー・ブラウン
午前9時。
葵はCapricornusを伴ってベビーカーに琢磨をのせ、バスを待っていた。
初夏の日差しがジリジリと照りつけるのを遮るようにCapricornusは琢磨の前に立ってあやしつづけている。そのためか琢磨はずっとご機嫌だ。
隣に並ぶ老婦人に話しかけられる。
「あら…この暑いのに…。とてもご機嫌さんね…。」
葵はふふっと笑うと、
「そうですね…なんだか昨日からずっとご機嫌なんです。なにか見えないものでも見えてたりして。」と答えた。
バスに揺られて隣町へ。
託児所が隣接するサロン。
そこに葵とCapricornusは到着した。
「ねぇ…Capricornusって…呼びづらいんですけど…」
葵がぽそりと呟く。
Capricornusはしばし思案したあとこんな話をした。
「俺の名前の由来…Capricornusが山羊座を指すことくらいはわかるよね…?まぁ、開発者が山羊座だったからなんだけど…山羊座の神話を知ってる…?」
葵が首を横に振る。
Capricornusは苦笑いしながら続ける。
「むかーし、昔。ナイル川のほとりで神々が水遊びをしていました…。その中に山羊の頭を持つ牧神パーンという神様がいました…。みんなそれぞれ水遊びを楽しむ中、突如怪物テュポンが現れて…パニックになった牧神パーンは…上半身は山羊、下半身は水遊びをしていた魚のまま、ナイル川を泳いで逃げてゆきました…。その山羊魚の姿を面白がったゼウスは…そのままその姿を星座にしてしまいました…これが俺の由来。ちょっとおっちょこちょいな神様…はは…。」
それを聞いた葵は何か思案していたが…ブツブツと、
「シーゴート…シー…ゴー…うん。これからあなたのことシーゴって呼ぶ。いい?」と顔を上げた。
Capricornusは少しびっくりした様子だったが⸺柔らかく笑うと「名前をつけられたのなんてはじめてだ…うん、それでいい。それがいい。君の前ではシーゴ…改めてよろしくね」とベビーカーを押す葵の手に自分の手を重ねた。
サロンに入るとテキパキと席に案内される。琢磨はシーゴと共に託児スペースへ。
「あらら…だいぶ傷みが出てますね…ご出産後はどうしても髪が痩せるから…今日はトリートメントとカット、それからカラーで宜しいですか?」
人懐っこそうな男性美容師が葵の髪を触りながら話しかける。慣れない美容室。だけど⸺
葵は思い切って男性に告げた。
「全部おまかせで。カラーも…似合いそうなものを。」
まずはシャンプーから。桃のような香りのシャンプーが鼻孔をくすぐる。熟練の手つきで洗われていく髪。
(ああ…誰かに髪を洗ってもらうって…こんな気持ちなんだ…)葵はうっとりと頭皮に伝わる感触を堪能していた。
鋏が入る。特に傷んだ毛先がショキショキと小気味良い音を立てて切り落とされてゆく。
「トリートメントはカラーが終わってからにします。まずは…塗っていきますね」
そう言われて明るめのトーンのカラーリング剤が塗られてゆく。一通り済んで、「それでは15分位置きますから。もしお子さんが気になるようなら見に行かれても大丈夫ですよ」
そう言って、男性美容師が席を外したときだった。
「うわ…マジで…?あんな首も座ってないような赤ちゃん連れてくる…?」
葵の耳に飛び込んできたその声。鏡越しに目をやると若いスタッフがヒソヒソと…それでも聞こえるように陰口を叩いていた。
「チーフもチーフだよね…。ちょっと美人だからってさ…」
その声を聞いた葵は俯き⸺鼻にツンとしたものがこみ上げる。
(やっぱり…そう言われるよね…)
葵の目から涙が一筋溢れだしそうになった、その時だった。
いつの間にか託児スペースから出てきたシーゴが、口さがないスタッフたちに向かって、ふうっと息を吹きかけた瞬間。
スタッフたちの頭上にあったトリートメントやヘアオイルの瓶が音を立てて割れてゆく。
「きゃあっ…!!何!?何なの!?」
そこにチーフ⸺先程の男性も駆けつけて「どうした!」と声を上げる。
スタッフたちは「私達…何もしてません…いきなり瓶が割れて…」と説明するが、チーフはため息をつくと一言。
「地震でもないのにいきなり割れるわけがないだろう?これは君たちのお給料から天引きします。それと⸺」そこまで言うとチーフは声を小さくして一言。
「お客様の陰口は…お店の信用に関わる。わかるね…?」
葵が驚いているとシーゴが近寄ってきて声をかける。
「あは…驚いた?牧神パーンはね…昼寝を妨げられるととんでもない奇声を上げるんだ。それをちょっと音波にしただけ。どんな女性だって…ケアは必要。それをわからせてやっただけ…」
そこにチーフが駆け寄ってきて葵の髪の状態を見ながらこう告げる。
「大変申し訳ありませんでした…驚かれましたよね…迷惑料と言っては何ですが…本日50%引きでやらせていただくのと…これ…。髪にも手にも使えるオイル、差し上げます。さぁ、仕上げてしまいましょうか。」
再び髪を洗われてドライヤーを当てられ、丁寧にトリートメント剤が塗られてゆくと⸺傷んでバサバサだった黒髪がキラキラとしたミルクティー・ブラウンに大変身していた。
「素敵…。でも…申し訳ないです…。50%も引かれたら…儲けが出ないでしょう?」
葵がそう言うとチーフは笑って、「いいんです。その代わり…また来て下されば。」と答えた。
託児スペースから琢磨を引き取り、会計を済ませて外へ出ると葵の髪は日差しに映えてキラキラと輝いていた。
シーゴはそれを満足そうに眺めて一言。
「帰ろうか、葵」
(もう…幻でも何でもいいや…だって私…こんなにウキウキしてる…。)
葵はすやすやと眠る琢磨を乗せたベビーカーを押しながら行きとは違った軽やかな足取りでバス停を目指して歩き始めた。




