Capricornus
「⸺おい。起きろよ。おいったら。」
午前6時。葵は夫の総司に肩を揺すられて目覚めた。
あのままぐっすりと眠っていたようだ。
「ごめんなさい、疲れてしまって…急いで朝ごはんにするから…」
葵がそう言ってキッチンへと向かおうとすると、そこには昨夜の男、Capricornusが右手をひらひらと降って立っていた。
「あ…ああ…あなた…」
葵が震えながらキッチンの方角を指差す。
「なんだよ、虫でも出たか?」と総司がその方向を見るが⸺そこには何もない。というより、総司には見えていないのだ。
Capricornusはクスクスと笑うと静かに口を開く。
「言ったでしょ…葵。この姿は君と琢磨にしか見えない、って。ね?」
葵は戸惑い⸺面食らいながらもCapricornusの脇を抜け、キッチンへ。トースターにパンをセットし、目玉焼きを焼いていくが⸺その手は震えている。
(どうしよう、どうしよう、どうしよう…。こんな…幻覚がまだ見えてるなんて…私どうしちゃったのかしら…)
そんな葵を見るとCapricornusはそっと近づき、後ろから葵の腰に手を回す。
「残念ながら…夢でも幻覚でもないよ、葵。いい匂いだね…。サニーサイドエッグ…。僕は食べられないけど…」
その時、油がパチンと跳ねて葵の目をめがけて飛んできた。咄嗟に葵が目を瞑ったが⸺襲い掛かってくるであろう熱さは来ない。
不思議に思いゆっくりと目を開けると⸺Capricornusが手のひらでそれを遮っていた。
「危ない危ない。大丈夫?葵…」
Capricornusは微笑むとフライパンを指差す。
「ほら、焦げちゃうよ?愛しの旦那様に出さないと…」
フライパンの上の目玉焼きはジュウジュウと音を立てていた。葵は慌ててそれを皿に載せると、備え付けの簡単なサラダと共に総司に提供する。
「また目玉焼きか…たまには手の混んだ朝飯でも食べたいんだけどな…」文句を言いながらトーストをかじる総司の言葉が葵に突き刺さる。
(なによ…毎晩の苦労も知らないで…勝手なことばかり…!)
葵の目に涙が滲みそうになったときだった。
「ふえ…あー!」琢磨が目を覚まし泣き始めた。
それを見た葵は跳ねるように駆けつけて琢磨をあやす。
「よしよし…起きたのね…おっぱいかな…?おむつかな…?」葵がそう言うと総司は顔を顰めてこう言った。
「おい。飯食ってるんだ。あっちでやってくれよ。」
「⸺ッ!」葵は思わず反論しようとしたが⸺諦めてリビングから出て、ベッドルームへ。
琢磨のおむつはぱんぱんだった。
「ああ…可哀想に…キレイキレイしましょうね…」
葵が力なくお尻拭きを手にするといつの間についてきたのか、Capricornusがそれを制して琢磨のお尻を清めていく。そして手際よく新しいおむつを履かせると⸺寂しそうに微笑んだ。
「血を分けた子どもから出てくるものが汚いわけないだろうに…無理解とは悲しいね…。アメリカでは…どんなに人気なメジャーリーガーだって…自分の子供の誕生日には休みを取るというのに…」
その言葉を聞いた葵の目から涙が溢れ出す。
Capricornusはそれをそっと拭うと、家事と育児で荒れた葵の手にそっとキスをした。
「今日、君の旦那様が出かけたら⸺少し買い物に行こう。自分のケアも大切だよ、葵。」
琢磨を産んで3ヶ月。初めてかけられた優しい言葉。
おむつを替えてもらい気持ちが良くなったのか、キャッキャとはしゃぐ琢磨を見てCapricornusは優しく微笑むと、両手で顔を覆い涙する葵をそっと抱きしめた。
「おい。行ってくるぞ。」
総司の声がリビングから聞こえて、立ち上がろうとした葵の手をCapricornusは優しく握ると首をゆっくりと横に振る。
「いいよ。無関心には無関心で。そのままここにいればいい。君の旦那様は、君がこうして俺に抱きしめられて慰められていることなんて知らないんだ。もう少しこのまま…気持ちを吐き出してしまうといい…ね…?」
その言葉に葵の涙はとめどなく溢れ⸺エプロンに濃いシミがいくつもできる。
やがて玄関のドアをやや乱暴に締める音がして、総司は出勤していった。
(もう…夢でも幻でも…なんでもいい…)
葵はそのままCapricornusに肩を抱かれ、暫し涙の流れるまま座り込んでいた。
ご機嫌の琢磨の声だけが響くベッドルームは、小さなサンクチュアリのように⸺ゆっくりと時間が過ぎていった。




