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魂の所在  作者: 杜 妃湖
16/23

剥離

「⸺あなた…?どうしたのこんなところで…」

その声に総司はゆっくりと目を開けた。

朝日の差すキッチンの隅でうずくまる自分にブランケットを持った葵が薄っすらと微笑みかけている。

否。口元は確かに微笑みかけているが⸺その瞳の奥の色は計り知れないほどの漆黒に占められている。

総司は咄嗟に⸺掠れた声で返事をする。

「あ、ああ…頭痛くてさ…鎮痛剤飲みに来て…そのまま寝ちゃったみたいで…もう治ったから大丈夫…。」

その言葉を聞いた葵はしゃがみこんで総司の額に手を当てる。

「熱はなさそう…。疲れたのかしらね…。朝ごはん作るから…。何か疲れが飛ぶもの…だから待っていて?」

総司は一瞬躊躇い⸺覚悟を決めて葵に問いかける。

「なあ、葵…。ケーキ、美味かったか…?」

葵は薄ら笑いのまま振り返ると一言。

「ええ、とても。ごちそうさま」

そして冷蔵庫から卵とひき肉を取り出すと、手際よく朝餉の支度を始めた。


今朝のメニューはひき肉入りのオムレツ。ご丁寧にミックスベジタブルまで入って彩り豊かだ。プレートの隅にはパセリがそっとあしらわれている。それに、常備菜のレンコンのきんぴらと、粉末のコーンスープ。

(嘘…ついて…それでもここまで…用意したんだな…。)

総司はコーンスープを一口すする。

銘柄を変えたのかいつもより濃厚だ。クリーミーで暖かい液体が喉を通過していくのが心地よい。

「葵…これ、いつもの粉末スープ…じゃないよな?」

総司がそう訪ねると葵は短く「いいえ?」と一言。

そして自分もコーンスープを啜ってから答えた。

「お湯じゃなくて牛乳に溶いたの。そこにほんのひとつまみの塩コショウ。それだけ。」

それを聞いた総司は一瞬呆気に取られたが⸺ゆっくりと口を開いた。

「その…ごめん。俺今まで全部お前に押し付けて…琢磨のベビーベッド、寝室に置こう。もう一台買ってもいい。お前も…マットレスより寝室の方が休まるんじゃないか?夜泣きも…教えてくれたらミルク作るし…おむつ替えももうできるし…。」


葵は総司の目をじっと見てしばらく考えていたが、ゆっくりと口を開くとこう言った。

「いいえ。今まで通りで構わないわ。協力の申し出はありがたいけど…環境が変わると琢磨も慣れないかも知れないし…」

そう言ってベビーベッドの琢磨をチラ、と見る葵に総司は思い切ってその一言を口にした。

「なぁ、葵…。シーゴって…なんだ…?」

一瞬の間。葵の瞳が黒みを増してゆく。どこまでも深いブラックホールのように、何もかもを吸い込むように⸺漆黒が支配する瞳。

最早口元の笑みも消え、ただただ無感情に総司を見据えている。

総司の背中に冷たいものが走る。

触れてはいけない⸺パンドラの箱を開けたかのような罪悪感と焦燥感。

数分の沈黙の後、葵は口を開いた。

「シーゴ…って、なぁに?」


嘘。嘘だ。昨夜あれだけ艶を帯びた声で何度も何度も口にした言葉。総司は口を開きかけたが⸺葵の目は警戒と警告の色を灯していた。

「これ以上は踏み込むな」

その少し疲れた顔にはそう書かれている。

総司はやっとのことで言葉を絞り出す。

「いや…その…。鎮痛剤を飲みに来たときに…なんかそんな寝言が聞こえたような気がして…それよりも朝飯だな!せっかくこんなに手の込んだもの作ってくれたんだからさっさと食っちまおう。」

そういうと総司は朝餉の残りを一気に平らげて、慌ただしく着替える。出掛けに葵の胸に抱かれた琢磨を撫でようとしたが⸺葵は「いってらっしゃい」とごく事務的にいうと踵を返しリビングに戻ってしまった。


総司が出かけたあと。

葵は琢磨のおむつ、お腹の具合、ご機嫌をチェックして寝かしつけに入る。

シーゴがそばによってきて葵に尋ねる。

「いいのかい?せっかく旦那様の父性が目覚めかけてるっていうのに…」

その言葉に葵はクスリと笑うとこう答えた。

「父性…?今頃なんだっていうの…?ねえ、シーゴ…私がこの子を産むとき、本当はね…立会い出産だったのよ…?18時間かかってね…?この子は深夜に生まれたの。その時あの人がなにしてたか…わかる…?」

シーゴの答えを待たずして葵が言葉を続ける。

「あの人は…スクラブと衛生キャップをかぶったまま…産院のベンチでよく眠ってたわ…。立ち会う、って言ったのに…。ねえ、シーゴ…。この子は生まれる前から父親に裏切られて…。おむつ替え一つやったところで…何が父性だと言うの…?」


そこまで聞くとシーゴは葵の隣に座りその華奢な肩を抱きしめる。葵はうっとりとした表情でシーゴを見つめるとこう言った。

「ねえ…キスがほしい…それ以上は望まないから…だめ…?」

シーゴは葵を抱きしめる手に力を入れると、一気に唇を貪る。ふぅ、という色を帯びた声が出て吐息が荒くなる。一度唇を離したが、葵は貪欲に何度も何度もシーゴを求める。

幾度かのキスの後に葵はケタケタと⸺愉快そうに笑いだした。

「ああ…満たされてる…もうシーゴと琢磨以外なんにもいらない…」


シーゴはそんな葵の髪をなでながら、僅かに眉を下げてその様子を見つめていた。

梅雨の晴れ間の空の太陽が雲間から漏れる。

その光が葵の顔を照らし出したとき⸺そこには母でも妻でもない、一人の女が笑っていた。

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