深夜の痕跡
(頭…痛えな…)
深夜2時。総司は締め付けるような頭痛に目を覚ました。
「鎮痛剤…リビングか…」
そう独りごちながらフラフラと立ち上がる。
リビングには葵と琢磨がいるはず。総司は二人を起こさぬようゆっくりとスリッパも履かずに廊下を歩き出した。
リビングのドアを開ける。ベビーベッドには安らかな顔で眠る琢磨。そしてその横のマットレスにはきちんとパジャマを着て眠る葵が。
総司の胸がチクリと痛む。
自分の子であるのに。永遠を誓った妻であるのに。
どれだけ長い時間蔑ろにしてきたのかと⸺あまつさえ、麗華とのワンナイト。総司はその思考をかき消すように頭を振ると、冷蔵庫からミネラルウォーターを出して鎮痛剤を飲んだ。
ふと、冷蔵庫の中身に目が行く。
色とりどりの常備菜に、きっちりと揃えられた調味料。
先日の手羽大根に使ったであろう酢の瓶が手前に置かれている。そして⸺中段には、自らが買ってきたケーキ箱が。
総司は暫し逡巡して、ケーキ箱を手に取り開ける。
箱の中には一つの桃のケーキが、冷蔵庫の黄色い光に照らされて鎮座していた。
「そっか…食ってくれたんだな…」
総司はそう独りごちると、ケーキを取り出しフォークも使わずにかぶりつく。桃の爽やかな甘みに、周りに塗られた優しいシロップの滑らかさ。クリームと生地のキメも細かく、最後にはザクザクとしたパイ生地が口内で踊る。夕餉の夏野菜天ぷらのそうめんも美味かったが、スイーツというのはやはり別腹だ。夢中になってかぶりついて、空の箱を捨てようと生ゴミのゴミ箱のペダルを踏み箱を放り投げて⸺我に返った。
「あー…またやっちまった…分別…これ燃えるゴミだよな…」
総司はそう呟くと再び生ゴミ入れを開け、箱をつまみ出す。
と、そこには⸺手付かずの桃のケーキがまるごと捨てられていた。
「⸺え…?」
総司の背筋を冷たいものが走る。
(あとで食べるって…桃好きだって…)
いくつもの疑念が渦を巻いて湧き上がる。
許されないことをした。ワンナイトだけではない⸺琢磨が生まれてから3ヶ月もの間全てを葵に押し付けて、疲れ果てた顔も傷んだ髪も見ないふりを決め込んで何一つしてこなかった。ケーキひとつで癒えるものではない。総司はリビングで眠る葵と琢磨を見ると、ぽつりと呟いた。
「寝室、一緒にしような…俺、やるからさ…。おむつも…お前が眠たいときはミルクも…遅すぎるかもしれないけど…」
と、その時だった。
琢磨が目を開けて⸺何もない空間に向かって手を伸ばし、キャッキャと声をあげている。
再び総司の背中に冷たいものが走る。
よく、赤子や猫には見えないものが見えていると言う。その類なのだろうか。
鎮痛剤を飲んだはずの頭がまたズキズキと痛みだす。
固唾を飲んでその光景を見守っていたその時だった。
マザーズバッグのファスナーが勝手に開き、中からよだれ拭きのガーゼが音もなく琢磨の口元に置かれる。まるで誰かがそれを優しく拭っているような⸺そんな動きで、二度、三度と。
口元の不快感を取り去られた琢磨は更に声を上げて笑う。
総司は思わずキッチンにしゃがみこんだ。
頭の整理がつかない。幽霊や超常現象など⸺今まで一つも信じては来なかった。
だが今自分が目にしたものは⸺それ以外に説明のつかないこと。冷や汗があふれ、思わず生唾を飲み込んだ、その時だった。
「シーゴ…?あぁ、よだれ拭いてくれたんだ…ありがと…」そう言いながら葵が目を覚ました。
シーゴ?確かに妻はそう言った。総司は意を決するとリビングとキッチンのギリギリの境目まで音を立てずにジリジリと這ってゆく。
そこで目にしたものは、色を帯びて嗤う妻と、それに応じるように撫でられた跡のついてゆく髪。
葵が目を閉じる。そして、微かに「ん…。」と言う吐息を漏らす。葵は何かに導かれるように、二度、三度と頭の角度を変え、そのたびに甘い吐息が漏れる。
総司はゆっくりと這ったまま後退すると、台所の隅でガタガタと震え始めた。
琢磨を身篭ってからほとんどご無沙汰だった夫婦の営みのそれよりも、遥かに熱を帯びた瞳。濡れた唇には艶さえ宿っている。
葵はただクスクスと笑っている。
そして一言。
「琢磨…ママとシーゴがいれば、なぁんにもいらないわよね…?」
総司の頭の中を精神崩壊の4文字が駆け巡る。あまりにも大きな⸺大きすぎる代償。
そうして朝まで⸺総司はキッチンの隅に座り込んで過ごすことしかできなかった。




