初めての父性と踏み込めぬ一線
その日の夕方。
総司はあの後課長からも叱責にあい⸺最低限の業務だけ終わらせてとぼとぼと家路を歩いていた。
この時間に帰宅するのは珍しい。
まだ人通りの多い商店街を抜けてゆく。
⸺と。西日に照らされた通り道に「洋菓子・ラパン」の看板が目に入る。可愛らしいうさぎの形を模した小さな看板を見つめる事暫し⸺総司はふらふらと吸い込まれるようにその店に入っていった。
色とりどりの焼き菓子やケーキが並ぶ。
白髪混じりの店主は愛想よく「いらっしゃいませ」と声をかける。
総司がショーケースを物色していると、店主の妻だろうか。三角巾をつけた年配の女性が声をかけてきた。
「こちらは初めて?」
にこやかに声をかけられ総司は戸惑いながらも頷く。
するとその女性は「そうなの…ならおすすめがあるのだけど…」とショーケースの一角を指差す。
「桃をまるごと1個使った、季節限定のケーキ。底がパイ生地になってるから潰れる心配もないし…奥様とご一緒にどう?」と総司の左手の薬指に光る指輪を見ながら言う。
「桃をまるごと1個…そういえばあいつ、桃好きだったよな…」総司はそう呟くと店主に告げた。
「すいません。それじゃその桃のやつ…2つ下さい。」
総司はケーキの入れられた箱を大切そうに抱えながら家路を急ぐ。
頭の中は許されなくても、せめて労いを。その思いだけ。そして1日ぶりにマイホームの鍵を開けるとそこには⸺
西日に照らされベビーベッドで眠る琢磨を見つめる葵がいた。
その瞳は慈しみに溢れ、ただただ見つめているのが幸せだとでもいうかのように微笑んでいる。
ただいまの一言を言うのも躊躇われる中⸺葵が顔を上げた。
「おかえりなさい…早かったのね…。言ってくれたらお夕飯温めておいたのに…。」
無断の外泊を咎められるでもなく、淡々と発せられた言葉。
総司はそっと家に上がるとゆっくりと口を開いた。
「葵…その…怒っては、いない…?」
葵は薄く微笑むと琢磨に向けていた眼差しのままこう答える。
「怒る…?ああ、帰ってこなかったこと…?あれは…私も言い過ぎたし…お互い様でいいわ…」
西日を背景にしたその姿はまるで聖母マリアのような神々しさすら覚える。
総司は背中に冷たいものを覚えたが⸺気を取り直してケーキ箱を葵に手渡した。
「謝って済むことじゃないけど…お前、桃好きだったよな…?帰り道に洋菓子屋に寄ってさ!桃をまるごと1個使ったっていうケーキを買ってきたんだ!その…良ければだけど…」
おずおずと総司が箱を手渡す。
葵はその箱を受け取ると中を見ることもなく冷蔵庫へと仕舞い、こう言った。
「お夕飯のあとでいただきましょうね?…その安物のシャツとネクタイ、洗濯に出してしまったら?」
総司がバスルームから出ると、葵は鼻歌交じりでキッチンで作業をしていた。時折クスクスと笑いながら⸺油の匂いが部屋に満ちてゆく。
葵は総司に気がつくと、チラと目線だけ向けて一言。
「夏野菜の天ぷら揚げてる…。あんまり暑いからおそうめんにしたのだけど、それじゃあ味気ないでしょ?直ぐに揚がるから少し…待っていてね。」
そう言うと微笑みながらまた作業に戻る。
何かが、おかしい。
昨晩あれだけヒステリックに喚き立てて⸺どうしてそんなにご機嫌でいられるんだ?
総司の頭の中にいくつもの疑問が浮かんだ時だった。それまでベビーベッドですやすやと眠っていた琢磨が火のついたように泣き出した。
「あらあら…さっきおっぱいのんだから…おむつかな…?」葵が揚げ物の火を止めて駆け寄る。シーゴもあとからついてくるが⸺次の瞬間。総司から出た言葉は意外なものだった。
「あの…葵…お前さえ嫌じゃなければなんだけど…俺、やってみてもいいかな…?」
一瞬の間。
「今更その…おこがましいと思うけど…俺…全部任せっきりで…昨日あれだけお前のこと傷つけて…やらずにはいられないんだ…教えてくれたら、丁寧にやるから…」
総司は最早懇願に近い声色で葵に尋ねる。
葵はふ、と笑うと一言。
「そこにおむつとおしり拭きがあるから、それを出してくれる?」
総司は言われたとおりにそれを取り出すと、おっかなびっくりといった様子でおむつを外していく。じっとりと湿って重たいおむつを外すと、葵に言われるまま小さなお尻を清めてゆく。
「そう…上手…焦らなくていいの。ゆっくりと…琢磨、パパがおむつ替えてくれますよー?気持ち悪いの、ナイナイですよー?」
総司は外したオムツを丸めて袋に入れるとその重さに驚いた。
「こんなに出るんだな…。そりゃあ気持ち悪いわけだ…」
そう言う総司に葵はゆっくりと微笑みかけるとこう言った。
「ね…赤ちゃんの肌って敏感だから…。放っておくとかぶれたりして大変なの。それにね…出てくるものはわたしの母乳の中の不純物…汚いなんてことないのよ…?」
そう言われて総司は俯く。
今までたったの一度もやったこともなく、その苦労も知ることもないまま、任せきりにして⸺父親の自覚などまったくなかったことに多少の憤りすら覚える。
「ごめん、葵⸺」口をついて出る言葉。
それが葵に届いたのか届かなかったのかは定かではないが、葵は踵を返すとキッチンに戻り、残りの天ぷらを揚げ始めた。
夕餉はナス、大葉、オクラの天ぷらが乗ったそうめん。白ごまがパラパラと散らされていて、ほんのり汁に油が浮いている。総司はゴクリ、と唾を飲み込むと、ゆっくりとそれをすすり始めた。
口の中にそうめんの優しい歯ごたえと、ちょうどいい塩梅の汁が入り込む。そしてナスの天ぷらを一口。シャク、と音を立てて口内に夏の香りが広がってゆく。
「美味い…」思わず口をついて出る言葉に葵は薄く微笑むと短く「そう。」と返した。
夕餉が済んで桃のケーキが出てくるのをソワソワと総司は待っていたが⸺一向に出てくる気配はない。
洗い物をしている葵に、
「おい、ケーキ食わないのか?」と声をかけたが、葵は首を横に振ってこう答えた。
「お腹いっぱい。明日いただくわ。あなたは食べる?」
その問いに総司は再び背筋に薄ら寒いものを感じたが、必死にそれを隠すとなんとか言葉を絞り出した。
「お前が明日なら、俺も明日でいい。」
総司がベッドルームへ向かうと、葵はシャワーへ。
すっかりと身を清めるとパジャマに着替えてソファに腰掛け、静かに声を出す。
「シーゴ。来て。」
その声に今まで部屋の隅にいたシーゴがゆっくりと葵に歩み寄ると口を開いた。
「いいのかい?旦那様の折角の手土産…。」
葵は微笑むと、キッチンへ向かいケーキの箱を取り出し、そのうちの一つを生ゴミのゴミ箱へそっと落とした。
「こんなものいらない…。ねえ、そう思わない…?」
葵の微笑みが妖艶さを帯びてゆく。
そしてシーゴに抱きつくと昼間したようにその頬を両手で包み、口づけをした。
シーゴもまた、葵の濡れた髪ごと頭を支え、それに応じる。
二人の吐息が荒くなる。
「ね…これ以上のことしても…いいのだけど…」
頬を紅潮させた葵がパジャマのボタンに手をかけた、その時だった。
シーゴはゆっくりと首を横に振り、こう呟いた。
「葵、いけない。これ以上は⸺また俺が帰ってこれなくなる…。深くつながりたい気持ちはあるけど今ここに俺がいるのは特例中の特例なんだ…だから…」
それを聞いた葵の瞳が陰りを帯びてゆく。
「わかった…。」
葵はそう言ってパジャマを正すとドライヤーをかけ始めた。
ミルクティー・ブラウンの髪がなびく。
さらさらと熱を帯びて乾いてゆく髪をシーゴは見つめることしかできなかった。




