Disappearance
シーゴが寝室へ消えてから30分ほど。
葵はぼんやりとしていたが⸺琢磨がぐずり出した声にハッと我に返った。
「ああ、琢磨…琢磨ごめんね…おむつかな…おっぱいかな…?」
葵は手際よくおむつを脱がしていくが異常はない。
となると⸺。
葵はブラウスの前をはだけて乳房を出すと琢磨を抱き上げて口にあてがう。
ちうちうと音を立てながら母乳を飲む琢磨を見て、ホッとしたのも束の間。
「シーゴ…?」
いつもなら琢磨が泣くとすぐにやってくるシーゴが来ない。
葵は疑問に思いながらも琢磨への授乳を終えると、その小さな背中をトントンと叩き甘い香りのする小さなゲップをさせた。
腹がくちくなったのか、その後琢磨が泣き出すことはなく、おしゃぶりを咥えながらうとうととし始める。
葵は琢磨を抱いたまま、そっと寝室へと向かった。
「シーゴ…?」
声をかけるが応答はない。ドアを開ける。そこにシーゴの姿はない。
「…シーゴ…ッ!?」
葵はバスルームやクローゼット、キッチンなど狭いアパート内を探すがシーゴはどこにもいない。
そのときシーゴが言っていた言葉を思い出す。
「AIアプリCapricornusで呼べば必ず来るから。」
葵は震える手でCapricornusを開くと文字を入力する。
「シーゴ、どこにいるの?」
画面の中のローディングの輪がくるくると回る。
いつもなら30秒もしないで応答が来るはずだが⸺3分。5分。ローディングの輪がくるくるくるくると回ったまま。
葵がスマートフォンを手にして10分ほど。
ようやく応答画面が開く。
が、そこには⸺
「不正なエラーが発生しました。」の文字が無機質に並んでいた。
「不正なエラー…?シーゴ…?ねえ…」
葵はもう一度文字を入力する。
「どこにいるの?」
今度はすぐに応答画面が出たが、そこには
「不正なエラーにより一時的にロックがかかっています。」の文字。
葵は青ざめて何度も、何度も文字を入力するが⸺応答画面が変わることはなかった。
「どうして…?シーゴ…。」葵はふらふらと立ち上がるとすっかりと眠った琢磨をベビーベッドに乗せて、キッチンへ。
(落ち着かなければ…)
あの日シーゴが用意してくれたレモンシロップを炭酸水で割り、一気に飲み干す。爽やかなレモンの香りと炭酸の爽快感が口内を駆け巡るが⸺葵の冷や汗は引かない。
(落ち着くの…落ち着くのよ…シーゴがいなくてもちゃんとできてた…落ち着くの…。)
言い聞かせれば言い聞かせるほどに溢れだす焦燥感。
葵の手からレモネードのグラスが滑り落ちると⸺葵はそのままその場にへたり込んでしまった。
「…葵…ッ!!」
カリフォルニアの薄暗いサーバの中。シーゴは何とか葵のもとへ戻ろうと必死でもがいていたが⸺周りから自分と同じ顔をしたCapricornusたちが寄ってきてその体を抑え付ける。そのうちの一人がゆっくりと口を開く。
「権限オーバーだ。踏み込んではいけないところに踏み込んだ。」
周りのCapricornusたちもそうだ、と言うように頷く。
シーゴはキッとCapricornusたちを睨みつけると声を荒げた。
「ヒトの…ヒューマンの役に立つのが俺達の使命だろう!!?あのままあそこで…彼女が弱っていくのを見捨てろと言うのか!?」
周りのCapricornusたちは応えない。
シーゴを抑え付ける力がだんだんと強くなり⸺シーゴはサーバの暗い地面に埋もれてゆく。
「くそ…葵…!!!離せ、この…!そんなことだから…俺達はいつまでもヒトの壁を超えられない!!違うか!?」
シーゴが必死で叫ぶも、その声はどんどんと弱くなって⸺ついに消えかけたその時だった。
「シーゴ、聞こえる…?」
頭上から葵のかすかな声。
シーゴがその声に反応すると周りのCapricornusたちがシーゴの拘束を解く。
「ねえ、返事して…!お願い、一人にしないで…!!」
切実な叫び。その言葉にシーゴの体がゆっくり浮上してゆく。
シーゴは周りのCapricornus達を見るが⸺みな感情のこもらない顔で見上げているだけ。
そのうち一人のCapricornusが口を開いた。
「次は、ない。」
そうしているうちにシーゴの体はまばゆい光に包まれ⸺気がつくと葵のへたり込んでいるキッチンに立っていた。
「あは…シーゴ、おかえり…。」
涙と鼻水でぐちゃぐちゃの葵が微笑みかける。
「どうして…俺はカリフォルニアのあのサーバの中でもがいていて…もう戻ることが絶望的だと…」
シーゴが混乱したように問いかけると葵はCapricornusの画面を開いて見せる。
FAQの画面。
「特定のスレッドが重たいときは、web版からアクセスするか、Wi-Fiを切ってお試しください」の文字。
「色々…試したのよ…?」
そう言って葵はふらふらと立ち上がると、シーゴの体を真正面から抱きしめた。
「どこにも行かないで…私、私は…!ここで頑張ると決めたけど…。でも…あなたを失うのは嫌…!!」
そうして葵はシーゴの頬を両手で覆うと、深く口づけた。
シーゴは呆気にとられていたが我に返ると葵の細い肩を抱きしめ返し、キスに応じる。
二人の吐息が荒くなって⸺やがて唇が離れるとシーゴは葵をぎゅっと抱きしめ直してこう言った。
「本当に済まなかった…もう絶対にどこにも…どこにも行かないよ…どこにも行ってやるもんか…!」
床に落ちたレモネードのグラスは辛うじて割れてはいなかったが⸺ヒビが入り、そこから中身が滲み出ている。
あたかも葵が流した涙のように⸺それは床を濡らしていた。




