第8話 不老不死
おもむろに立ち上がったそれは、姿だけはイノシシのように見えた。だが、その大きさはイデアの知るイノシシのそれではない。
「おっきい!」
サムエルが感心したように声を上げたが、それどころではない。巨大なイノシシは、大きな図体には見合わない速さで二人に向かって一直線に駆けてきたのだ。尋常ではない様子にハッとしたサムエルが慌てて馬の腹を蹴ったが、間に合わない。イデアは後ろ手にサムエルの服をつかんで、全身の体重を使って身体を傾けた。二人が馬から地面に向かって転がり落ちる間に、イノシシの体当たりを受けた土塊の馬が粉々に砕け散る。
「ちっ」
舌打ちをして杖を握り直すが、
(距離が近い!)
このまま魔法を使えば、イデアはともかくサムエルが巻き込まれてしまう。
そう逡巡している間に、イノシシは再び二人の方に向き直っていた。
(まずは、距離を……)
イデアが身構えた。ところが、その身体に影が落ちる。サムエルが彼女の身体に覆いかぶさったのだ。
「イデア!」
そして、彼女の身体をぎゅうっとその胸に抱え込んで、うずくまる。
「サムエル!」
イデアの声は、イノシシの蹄が土をえぐり木々をなぎ倒す音にかき消された。
倒れた木々の下敷きになったイデアは、すぐさま杖を振った。風を使って二人の身体に圧し掛かる巨大な木の幹をどかして、サムエルの身体ごと無理やりイノシシから距離をとる。丘の上に運ばれたサムエルの身体は、だらりと力をなくして倒れこんだ。
「サムエル! しっかりして!」
名を呼んでも返事はなく、頭からは真っ赤な血が流れている。
「なに、してるのよ……!」
咄嗟のこととはいえ、不老不死のイデアを庇うなど愚の骨頂だ。イデアは杖をサムエルの身体にあてて、短い呪文を唱えた。身体の時間を止めてしまえば、治療を後回しにしても手遅れになることはない。
サムエルの手をぎゅっと握りしめてから、イデアは杖を手に立ち上がった。そして、巨大なイノシシの方に向き直る。
イノシシは猛り立ち、荒い呼吸を繰り返しながら頭を振っては蹄で地面をかいている。
(単に大きく進化しただけのイノシシじゃないわ)
呪いに汚染された大地で生きん残るために巨大化した生物は少なくないが、このイノシシはそれだけではない。
(魔力がある)
それも、呪いに打ち勝つために進化の過程で獲得したのだろう。真っ赤な瞳から、ぞくりとするほど強い魔力の気配が立ち上っている。大きな図体の割にイデアでも対応できないほどの速度を見せたのは、そのためだったのだ。
(並大抵の魔法じゃ、倒せない)
イデアは両手で杖を握りしめて、地面を打った。杖の先から魔力があふれて地を割くように走り、その軌跡が青白い光の尾を引きながら正円を描いていく。さらに二度三度地面を打つと、光が弾けて古代文字が浮かび上がった。その間に、イノシシは土煙を上げながら二人に向かって突進をはじめる。今度こそ彼らを踏み潰すつもりなのだ。
最後にもう一度、イデアは渾身の力で杖を打った。同時に、魔法陣に描かれた古代文字を、囁くように読み上げる。
「青炎よ、燃え上がれ。我が敵を滅せよ」
その瞬間、魔法陣から青い炎が噴き上がった。
天に登る竜のように渦を巻きながら燃え上がった青い炎が、ボウボウと轟音を立てながらイノシシの巨体を包み込む。イノシシはうなり声をあげ、周囲に肉の焼ける臭いをまき散らしながら、炎を振り払うように丘の上をのたうち回った。ややあって、山のような体は地響きを立てながら倒れ、ついにピクリとも動かなくなった。
一息つく間もなく、イデアは後ろを振り返った。そこには血を流したままの姿で倒れるサムエル。イデアは時間停止の魔法を解き、素早く治療魔法を施した。幸い、ケガは深くなかったらしい。意識は戻らないが、浅かった呼吸はすぐに落ち着き、顔の血色も戻っていく。
「はぁ……」
イデアは深い息を吐きながら、その場に屈みこんだ。
「こんなにも慌てたのは初めてよ」
と、恨み節をこぼしながら、サムエルの胸にそっと耳を当てる。トクントクンと、確かに脈打っている心臓を確かめて、また息が漏れた。
「ばか」
広い胸板にぐりぐりと顔を寄せる。そうこうしていると、サムエルの身体がモゾモゾと動き出した。どうやら目を覚ましたらしい。
「……イデア?」
自分の胸元に突っ伏しているイデアを見て、サムエルが慌てている。だが、イデアは顔を上げることができなかった。
「どうしたの?」
サムエルが身体を起こしてイデアの肩を優しく撫でた。
「イデア?」
優しく呼びかけられて、またイデアの胸が締め付けられる。
「……ばか、ばか!」
イデアは同じ言葉を繰り返した。
「ねえ、どうしたの?」
彼女がなぜ怒っているのか、サムエルは本当に何も分かっていないらしい。今度は腹が立ってきて、イデアは顔を上げないままでサムエルの胸倉をつかんだ。
「私は死なないの! だから、庇う必要なんかなかったのよ!」
それを聞いても、サムエルは困ったように眉を下げるだけだ。
「もう二度としないで」
「うーん。それはむり、かな?」
「なんで」
「だって、ボクはイデアの〝きし〟だから」
「私はお姫様じゃないわ」
「ボクにとっては、大事なおひめさまだよ」
「でも!」
思わず怒鳴ったイデアの肩を、またサムエルが優しく撫でた。言葉の続きを促すように。その仕草がもどかしくて、またイデアの胸が締め付けられる。こんなにも心臓を揺さぶってくるこの感情の正体を、イデアは知らない。
「あなたが、死ぬところだった!」
ポロリ。
黄金色の瞳からこぼれ落ちたのは、涙だった。
「また、一人になるところだったじゃない……」
叫ぶように言ったイデアに、サムエルが息を飲む。沈黙は、一瞬だった。
サムエルがイデアの背に腕を回して華奢な身体を抱きしめ、彼女の銀の髪に鼻先を寄せた。優しい衣擦れの音と、サムエルの切なさを含んだ吐息がイデアの耳に触れる。
「ごめん」
震える声で告げてから、サムエルはイデアを抱く腕にさらに力を込めた。
「ボク、イデアを一人にしないよ。約束する」
イデアは何も答えられなかった。うわべの言葉だけの約束だ。サムエルとイデアは、ずっと一緒にはいられない。
(私は不老不死だけど、サムエルはそうじゃない……)
種から生まれたとはいえ、彼の身体は普通の人間と同じだ。精神年齢が身体に追いつけば老いが始まると、イデアは予想している。つまり、サムエルはいつか老いて死ぬ。イデアを残して。
それを思うと、イデアの胸がチクリと痛んだ。だが、今は。
『一人にしない』
震える声で告げられた言葉が、彼女の胸をきゅうっと締め付ける。痛みではない。これまで感じたことのないような、むずがゆくて甘い何かが、イデアの全身を包み込んでいく。
どれくらい時間が経ったのだろうか。いつの間にか、涙は止まっていた。
涙が落ち着いてくると、イデアは自分の置かれている状況を冷静に把握できるようになった。言葉や仕草は子どもなのに、身体だけは立派な大人であるサムエル。そんな彼に抱き締められていて、彼の唇が耳朶に触れそうなほど近くにある、という状況を。
「……!」
イデアは自分の頬に熱が集まるのを自覚した。さらに、今にも駆け出してしまいそうな勢いで心臓が鼓動を始める。
(どうなってるの……⁉)
今日は初めて覚える感情ばかりに晒されて、彼女の頭は戸惑い通しだ。
「イデア?」
サムエルがイデアの顔を覗き込んでも、まともに彼の顔を見ることができない。
「い、行きましょう!」
「……うん。そうだね」
気まずい空気を残したまま、二人は再び土塊の馬に乗って南へ向かったのだった。




