第9話 人間が残した、いちばん大切な宝物
馬の背に揺られること数時間、二人は都の跡地に到着した。馬を下り、朽ちた街の中を中央に向かってゆっくり歩く。
彼らが歩く石造りの街道は確かに人の手で築かれたものなのに、そこにいるのはイデアとサムエルの二人だけ。苔に覆われた城壁の基礎、半分崩れた石造りの建物、朽ちた家財道具……。かつて人が暮らしていた気配だけが残された物寂しい街を、たった二人で進んでいく。
しばらく歩いて到着したのは街の中央、王宮の跡だ。
石造りの頑丈な城は二階より上はほとんど崩れているが、一階部分はほとんどが元の形のまま残っている。ガラス窓は全て割れてしまっているので室内は風雨にさらされ、小さなものや繊維類は全て朽ちてしまっているが、一部の家具や金属の調度は当時の形を保っている。
さらに奥へ進み、謁見の間に入った。壮麗な装飾が施された円柱が並ぶ巨大な空間の奥に、石造りの玉座が置かれている。高い天井を見上げれば、多少色褪せてはいるが、死後の世界を描いた美しい天井画が見えた。
「わぁ」
サムエルが感嘆の声を漏らした。天井画には、彼によく似た金髪碧眼の天使と、世界を創造したとされる女神の姿が描かれている。イデアにとっては珍しいものではない。ここに人が溢れていた頃にも、国王の依頼で何度か訪れたことがあったから。
イデアは玉座の後ろに回り、石造りの椅子に杖を当てた。すると、椅子が鈍い音を立てて動いた。現れたのは、地下へ続く階段だ。イデアがもう一度椅子に杖を当てると、階段の奥へ向かってポツポツと明かりが灯る。
「ひみつのちかしつだ!」
サムエルが目をキラキラさせて地下を覗き込んだ。
「そうよ。……人間が残した、いちばん大切な宝物がしまってあるの」
地下への階段は螺旋状になっている。建物三階分ほどの深さを下りると、そこには玉座の間よりも大きな空間が広がっていた。
その空間を、ぎっしりと中身が詰まった本棚が埋め尽くしている。
「すごい……!」
サムエルはすぐに本棚に駆け寄った。背表紙を指さして眺めながら、『すごい、すごい!』『読んだことない本ばっかりだ!』と声を上げる。その嬉しそうな様子に、イデアは短く息を吐いた。
(あの子の学習能力なら、ここの本を全て読みつくせるかもしれないわね。……老いて死ぬまでには)
この地下図書館には、それほどの量の本が収められている。魔王が人類の土地の侵攻を始めた頃、この国の国王がイデアに命じてこの地下図書館を造らせ、世界中からありとあらゆる書物を集めて収蔵したのだ。
物語の書架で足を止めたサムエルはそのままにして、イデアはまず図書館の手入れを始めた。国王は、もしもの時にはこの場所を未来に遺してほしいとも彼女に頼んだのだ。彼女はできるだけのことをすると約束した。そして、誰もいなくなった世界で、その約束を守り続けている。
イデアが杖を振ると、図書館の中にふわりふわりと風が吹いた。優しい風が本棚を撫で、埃を払っていく。同時に、本に溜まった湿気を取り除く。もう一度杖を振ると、皮の本だけが本棚から飛び出してきた。それらの表紙を布巾で拭い、保革油を塗る。膨大な量だが、イデアの魔法であっという間に終わってしまった。
「さて」
手入れが終われば、ようやく自分の時間だ。イデアは魔術書の書架に入っていった。
「……ア、……イデア!」
ハッと意識が引き戻される。慌てて顔を上げれば、そこにはキッと吊り上がった碧い瞳。
「もう! やっと顔あげた!」
書棚を背に座り込んで魔術書を読みふけっていたイデアの顔を、サムエルが覗き込んでいる。
「どうしたの、サムエル?」
「どうしたもこうしたもないよ! もう夜だよ!」
慌ててポケットから取り出した懐中時計を見れば、確かに時間は夜も深い時間を指していた。どうやら夢中になりすぎたらしい。
「いっぱい呼んだのに返事しないから、しんぱいした!」
「ごめんね」
「おなかすいたよ!」
「ごめんってば」
文句を言うサムエルをなだめながら、イデアは慌てて立ち上がった。
「これ、もってかえる!」
サムエルは両腕に十数冊の本を抱えていた。ほとんどが物語の本のようだ。子どもの童話もあれば、女性向けのラブロマンス小説もある。イデアにとっては興味のないジャンルであり、それらの面白さはいまいち理解できない。
「ボク、これ読んでべんきょーする!」
「勉強?」
「言葉のべんきょー!」
確かに、物語に出てくるセリフは人間と人間の会話なので、言葉の勉強をするのに適していると言える。イデアは納得して頷いた。
ふと、イデアの視界に影が落ちた。サムエルが彼女の顔を覗き込んだのだ。
「なに?」
急に真剣な表情で見つめるものだから、イデアの心臓がドキリと跳ねた。
「イデアに言いたいことがあるんだ。だから、言葉のべんきょーしてる」
「どうしたの、急に」
イデアは妙な空気を振り払うように視線を逸らした。
「もう遅いから、はやく帰りましょう。本は荷物になるから、先に転送魔法で送るわね」
誤魔化そうとしてみたが、あまり意味はなかった。サムエルは慌てて言い募るイデアとは対照的に特に慌てた様子もなく抱えた本を机に置き、そのままゆったりとした仕草でイデアの両手を握ってしまったのだ。熱のこもった碧い瞳で、イデアをじっと見つめる。
「ボク、イデアとけっこんしたい」
また、イデアの胸を何かがぎゅうっと締め付けて、甘いしびれが全身を駆け抜けていく。その意味は、イデアには分からない。それでも、この感覚に身を委ねてしまうことは危険だと、彼女は本能的に理解していた。
イデアはきゅっと顎を引いて気持ちを引き締めた。
「サムエル」
名前を呼ばれて、サムエルの表情がパッと華やぐ。その様子に胸がチクリと痛んだが、イデアはサムエルから視線をそらさずにはっきりとした口調で告げた。
「あなたと結婚はできないわ」
今度は色を失くした表情でサムエルが絶句する。イデアはできるだけ優しい手つきで彼の手を振りほどき、そのままくるりと背を向けた。これ以上、彼の顔を見ていることができなかったのだ。
「私にとって、あなたは手のかかる子どもでしかないの。私は何百年も生きてるおばあちゃんで、あなたは生まれたての赤ちゃん。あなたを恋人や夫にしようと思えるはずがないわ」
「でも、ボクは……」
「勘違いよ」
イデアの冷たい声がサムエルの言葉を遮る。
「この世界に、女が私しかいないからそう思ってるだけ。それは、愛なんかじゃないわ」
背の後ろからぐすっと鼻をすする音が聞こえたが、聞こえていない振りをすることしかできなかった。
イデアだって、今にも泣き出してしまいそうなほど胸が痛んでいるのだ。
(この子の気持ちに応えることはできない)
イデアとサムエルは同じ人間だが、二人は決定的に違う。サムエルは死ぬまでイデアと一緒だが、イデアはいずれまた一人になるのだ。
孤独には慣れたと思っていた。だが、サムエルと出会って、共に暮らして、人の温もりというものを思い出してしまった。今のイデアにとって、孤独は恐怖でしかない。
(だから……)
もしも、彼がイデアのことを女性として愛しているのだとしても、彼と愛し合うことはイデアにとってはただ虚しいだけ。孤独への恐怖を、今よりもいっそう募らせることになるだけだ。
(サムエルのことは好き。でも、男性として愛することはない)
そうでなければならないと、イデアは何度も心の中で繰り返したのだった。
二人は黙ったまま本を片付け、持って帰る本は魔法で小屋に転送した。そうこうしている内に、時間は真夜中になっていた。
「すっかり遅くなっちゃったわね」
気まずい雰囲気のまま帰るのも気が引けて、イデアはどうにか声を絞り出したが、サムエルの方はぶすっと唇を引き結んだまま何も言わなかった。
イデアは一つため息を吐いてから、安全に帰るために明かりの準備を始めた。そこらに転がっている適当な資材に魔法をかけてランタンの姿に変え、魔法の火種で明かりを灯す。普通の明かりとは違って、ずいぶん遠くまで照らすことができた。
ふと、明かりが照らす先で何かが動いた。初めは動物だろうと思った。だが、すぐに違うと気づいて、イデアもサムエルも思わず身構えた。
──二本足で歩いていたからだ。




