第10話 もう一人の生き残り
それは少しずつ近づいてきて、二人の前に静かに立ち止まった。魔法の明かりに照らされてはっきりと見えた姿は、やはり人間だった。
黒い髪に黒い瞳の大人の男性。年齢はサムエルよりもいくつか上に見える。黒いマントを羽織り、大きな荷物を背負っていて、長旅の途中といった様子だ。
「よぉ」
男性は、まるで友達にでも挨拶するように軽く片手を上げた。
「誰?」
イデアの問いかけに、男性が片眉を上げてニヤリと笑う。
「俺の名はノア。あんたを探していたんだ。……俺の花嫁を」
ぽかんと、二人は呆気にとられたのだった。
男──ノアに促されて、とりあえず三人は屋根のある場所に移動した。ノアは慣れた手つきで火を熾し、背負っていた荷物からやかんと茶器を取り出して、あっという間にお茶をわかしてしまった。
「それ……」
イデアが驚いて指さしたのは、彼が取り出した茶葉だ。そこらの草を摘んで蒸して乾かしただけの茶葉ではない。きちんと発酵させた『紅茶』だ。イデアも文献を頼りに魔法を使って作ってみたことがある。全く同じ味を再現することはできなかったが。
「ご先祖さまが残してくれた、貴重な茶葉だ。魔法で凍らせてあって、少しずつ解凍して使ってる」
ノアが差し出したカップを、イデアはおずおずと受け取った。本物の紅茶を飲むのは数百年ぶりのことだ。
イデアが感慨深く香りを楽しんでいる隣では、サムエルがぐいっと最初の一杯を飲み干した。
「おいしい! おかわり!」
どうやら、喉が渇いていたらしい。ノアは優しく微笑みながら、サムエルのカップにおかわりを注いだ。その様子に呆れつつ、イデアも紅茶を口に含んだ。
(おいしい)
確かに、かつて飲んだ本物の紅茶と同じ味がする。あたたかい紅茶にほっと身体の緊張がほぐれた。だが、すぐにイデアは気を取り直して、ノアの方をじとりと睨みつけた。
「それで? あなたは何者なの?」
まずは、彼の正体を確かめなければならない。
「俺は西の大陸から来た」
「わざわざ海を越えてきたの?」
「ああ。大変だった」
「そもそも、どうやって生き残ったの?」
魔王の最後の魔法から逃れ、汚染された大地で生き残ることは簡単なことではない。しかも、当時すべての大陸を巡ったイデアは、彼の先祖を見つけることはできなかったのだ。
「俺の先祖は予言者で、世界滅亡を予言していた。魔王の呪いに大地が飲み込まれる直前に、地下深くに逃げ込んで難を逃れたんだ」
話しながら、ノアもゆったりとした仕草で紅茶を一口飲んだ。黒い瞳が優しげに細められる。
(きれいな顔……)
整った顔に飄々とした態度、その表情には大人の余裕が垣間見える。つまり、とても良い男だ。他にも女性が大勢いたなら、さぞモテたことだろう。といっても、イデアには何の感慨も湧かなかった。有体に言えば、好みではないからだ。
そんなことを考えながら、イデアは再びノアの方に向き直った。
「それで?」
イデアが先を促すと、ノアは肩をすくめた。
「驚かないんだな?」
「十分、驚いてる」
「そうか?」
イデアが驚いているとは思えないような淡々とした口調で答えると、ノアはおかしそうに笑い始めた。その様子をイデアとサムエルが冷めた目で見つめる。そんなやりとりですら可笑しいのか、ノアの笑い声はなかなか収まらなかった。
「わるいわるい」
ややあってようやく落ち着いたらしいノアが、息を落ち着けるように紅茶を飲み干した。
「続けよう」
ノアは荷物から一冊の本を取り出した。
「予言の書だ」
彼の先祖だという予言者が書き記したものだろう。人類の滅亡を予見したのだから、かなり信憑性の高い予言が書かれているようだ。
「ここには、数百年は地下で暮らせと書いてある」
彼が開いたページには絵図もついていた。魔王の骸から広がった影が、大地を汚染している。
「地上で人が暮らせるようになるまで、地下で暮らして子孫を残せ、ってな」
予言者の言っていることは正しい。人間が住める環境にまで地上が浄化されたのは、ここ数十年のことだ。
「じゃあ、他にも生き残っている人がいるのね?」
この質問には、ノアは気まずそうに視線をそらした。
「どうしたの?」
「いや、期待に沿えず申し訳ないなぁと」
「どういうこと?」
「俺だけなんだ。……生き残ってるのは」
そんなはずはないと、イデアは瞠目した。彼の一族が数百年にわたって生き残ってきたなら、世代を経るにしたがって人数は増えていったはずだ。
「流行り病だ。こればっかりは防ぎようがなかった」
「そう」
地下と言う密閉された空間の中で起こったことなら、確かにどうしようもなかっただろう。イデアは亡くなった人々を偲ぶように目を伏せた。その様子に、またノアが優しく目を細める。
「だがそれも、予言に記されていたことだ」
「え?」
どういうことかと首を傾げるイデアに、ノアは予言の書のページをめくって見せた。
『一族が最後の一人になったとき、その者は地上に出て東の大陸を目指すべし』
確かに、そう書かれていた。だからノアは地上に出て、わざわざ隣の大陸まで旅をしてきたのだ。
「んで、ここ」
彼が指さした箇所には、『花嫁』の文字。
「『最後の一人は銀の髪の魔女を花嫁に迎え入れよ』って、書いてあるだろ?」
彼の先祖はイデアが魔王を倒すことも、その影響で不老不死になることも予言していた。そして、人間の子孫を残すための『花嫁』として白羽の矢を立てたというわけだ。
「そういうわけだから」
軽い口調で言ってからノアは予言の書を引っ込めた。代わりに爽やかな笑顔を浮かべて、気障な仕草でイデアの方に右手を差し出す。
「俺と結婚してくれ」
だが、その手は即座に叩き落された。
「だめ!」
子どものように頬を膨らませた、サムエルによって。
「帰ろう!」
サムエルは立ち上がり、有無を言わせずイデアを抱きあげた。
「ちょっと、サムエル!」
肩に担ぎあげられたイデアの抵抗などお構いなしに、サムエルは王宮の瓦礫の中から街の方へ飛び出した。彼らを待っていた土塊の馬に、来た時と同じようにイデアを座らせる。その段になってようやく、サムエルは深い息を吐いて動きを止めた。
「イデアの、ばか」
消え入りそうな声だった。
彼が何に怒っているのか、イデアにはちゃんと分かっていた。だが、だからといってなんと言えばいいのか分かるわけでもなく、イデアは戸惑いに視線を揺らすことしかできない。
「ばか……」
何も言わないイデアにさらに不安を募らせたのか、サムエルはぎゅっと顔をしかめて、イデアの腹にしがみつくようにして顔を埋めてしまった。
「あの人とけっこんするの?」
切ない声が身体に響いて、イデアの胸が震えた。だが、そんなことはおくびにも出さずにイデアは淡々とした声で告げる。
「しない」
「ほんとに?」
「うん」
「じゃあ、ボクとけっこんしてくれる?」
「しない」
サムエルが縋りつくようにイデアを抱く手に力を込めたが、それでもイデアは何も言えなかった。
「……ばかぁ」
何も言わないイデアに、サムエルが繰り返した。
再び沈黙が落ちる中、ノアが二人を追いかけてきた。
「おーい!」
彼の声が聞こえた途端、サムエルがはじかれたように顔を上げてノアを睨みつけてから、素早く馬にまたがった。そして、さっと手綱を捌いて馬の頭を小屋の方角に向ける。ノアの方は慌てた様子もなく、二人に手を振っただけだった。
「またな!」
サムエルはイデアに返事をする間も与えずに、馬の腹を蹴った。
小屋に帰ってから、二人は無言のままそれぞれの部屋に入った。サムエルがイデアと共に眠らなかったのは、初めてのことだった。




