第7話 命名
朝から机の上には、古い記録が積み上がっていた。
エインは一枚を読み終えるたび、隣の紙へ視線を移していく。ダンジョンが発見された場所、その内部の構造、確認された魔物、魔力濃度の変化。記録そのものは多かった。古いものでは数百年前のものまである。
けれど、読み進めるほどに、エインは妙な違和感を覚えていた。
どの記録にも、ダンジョンが「ある」ことは書かれている。
その場所にダンジョンができる前、何が起きていたのか。
そこだけが、ぽっかりと抜け落ちていた。
「……ないな」
「何がです?」
向かいで資料を読んでいたノエンが顔を上げる。
「ダンジョンができる前の記録」
ノエンはエインの手元を覗き込んだ。
「確かに、ほとんどありませんね」
「できた後のことは、こんなに書いてあるのに」
「発生した瞬間を見た者がいないのでしょう」
エインは椅子から身を乗り出し、机の上の地図を引き寄せた。
北東。
町から離れた場所にあるはずだったものが、今回は町のすぐ近くにある。
「普通は、人がいる場所にはできないんですよね」
「ええ。人の魔力や、継続して使われる魔術が周囲の魔力の状態に影響するためだと考えられています」
ノエンが地図に指を置いた。
「だから、この場所にできたこと自体が異常なんです」
エインは地図の上に並んだ印を眺めた。
結界の異常が始まった場所。
魔物が現れた場所。
地下水を調べた場所。
そして、ダンジョン。
「魔力溜まりは?」
「関係している可能性はあります。ただ……」
ノエンが言葉を切った。
「どちらが先なのか、まだ分かりません」
エインは黙った。
魔力が溜まったからダンジョンが生まれたのか。
ダンジョンが生まれたから、魔力が溜まったのか。
どちらも、今のところ否定できない。
「……調べる順番を変えたほうがいいかもしれない」
「どういう意味です?」
「ダンジョンの中で起きていることだけじゃなくて、できる前に何が起きたのかを見る」
ノエンはしばらくエインを見ていた。
やがて、小さく頷く。
「そのほうがいいでしょうね」
その会話を聞いていたヴィタが、少し離れた場所から一枚の記録を持ってきた。
「なら、これも見て」
ヴィタ・セレナ。王立医療研究所の上級医師である。
彼女は記録を机の上に置いた。
「町に入ってきた魔物たちだけど、痩せていたのは食事がなかったからだけじゃない」
「身体そのものが変わっている?」
「そう」
ヴィタは記録に描かれた図を指した。
筋肉のつき方。骨格。皮膚の状態。
以前に同じ種類の魔物を調べた記録と比べると、いくつか明らかな違いがある。
「ダンジョンの中に長くいる魔物には、こういう変化が出ることがある。周囲の魔力に適応していくんだろう」
「じゃあ、ダンジョンは魔物を変える」
「少なくとも、影響は与えているだろうね」
ヴィタは記録を閉じた。
「ただ、今回の魔物は変化の速度が速すぎる」
エインは部屋の隅を見る。
そこには、昨日保護した魔物がいた。
今は大人しく座っている。
昨日までなら、その姿を見るだけで誰かが身構えていたはずだ。
だが、腹を満たしてやってからは、人間を襲う様子はない。
エインが近づいても逃げない。
「こいつにも同じ影響が出ているのかな」
ヴィタが魔物を見る。
「おそらく。ただ、それだけじゃ説明できないことがある」
「言葉ですね」
ノエンが言った。
エインは頷いた。
昨日から何度も試している。
「水」
魔物はエインを見る。
「水」
今度は水桶を見る。
その反応だけでは、意味を理解しているのか、それとも音に反応しているだけなのか分からない。
そこで、別の魔物にも同じことを試してみた。
反応は似ていた。
だが、何度繰り返しても、人間の言葉を口にすることはない。
もう一匹。
さらに一匹。
結果は変わらなかった。
エインは、もう一度部屋の隅を見る。
この魔物だけが違う。
エインは水桶を持って、その前にしゃがんだ。
「水」
魔物が桶を見る。
「水」
魔物の視線が、桶からエインへ移った。
しばらく沈黙が続く。
やがて、魔物の喉が小さく動いた。
「……みず」
エインは目を見開いた。
「もう一度」
「みず」
ノエンが黙り込む。
他の魔物にはできなかった。
この魔物だけが、人間の言葉を覚えている。
そして、それだけではない。
エインの脳裏に、昨日の光景が浮かんだ。
魔力溜まりの前で、この魔物が使った術式。
反転の術式。
ノエンが行ったのは、その術式を観察し、構造を解析することだった。
実際に術式を使ったのは、この魔物だ。
人間には扱える者が確認されていない術式を、この魔物は使った。
なぜなのか。
どうやって覚えたのか。
エインには、まだ何も分からない。
ただ、偶然で片づけるには重なりすぎていた。
ダンジョン。
魔力溜まり。
魔物の変化。
反転の術式。
そして、人間の言葉を覚えるこの魔物。
エインは魔物の前にしゃがみ込んだ。
「あなたは、ダンジョンで何を見たんです?」
魔物は答えない。
ただ、エインを見つめている。
やがて地下へ続く方向へ顔を向け、それから再びエインを見る。
「……たすけて」
エインの動きが止まった。
今度は聞き間違いではない。
「何を?」
魔物は答えない。
「誰を?」
返事はない。
ただ、地下を見ている。
エインはその視線を追った。
まだ分からない。
何が起きているのかも。
何を求められているのかも。
だからこそ、もっと調べる必要がある。
「……名前くらいは、あったほうがいいな」
エインがそう言うと、魔物が首を傾げた。
「名前」
エインは自分の胸を指した。
「エイン」
魔物が真似をする。
「……えいん」
今度は魔物を指した。
「お前は?」
魔物は黙っている。
当然、答えは返ってこない。
エインは少し考えた。
いくつか言葉を思い浮かべたが、どれもしっくりこない。
ふと、一つだけ口にした。
「ルカ」
魔物が顔を上げた。
「……るか」
「そう。ルカ」
魔物は自分の胸元に前脚を当てた。
「ルカ」
自分の名前を確かめるように、もう一度繰り返す。
エインは小さく笑った。
「そうです。あなたはルカ」
ルカはしばらくその言葉を口の中で転がしていた。
そして、地下へ続く入口を見る。
「たすけて」
その声を聞いて、エインも地下へ視線を向けた。
ダンジョンがなぜここに生まれたのか。
その前に、何が起きていたのか。
そこで生きる魔物は、何を見て、何に適応しているのか。
そして、この魔物だけがなぜ違うのか。
まだ、答えはない。
エインは立ち上がった。
「行きましょう、ルカ」
ルカが立ち上がる。
二人は、暗い階段の先へ続く入口を見つめた。
分からない。
だから、行く。
その先に何があるのかを知るために。




