第6話 伝心
魔物は地面に伏したまま、荒い息を繰り返していた。エインは剣を下ろしたものの、すぐには鞘へ収めなかった。さっきまでの攻撃を考えれば、警戒を解くにはまだ早い。けれど、魔物の方にも戦う余力は残っていないようだった。
やがて魔物がゆっくりと顔を上げた。その目がエインを捉え、それから背後にある魔力溜まりへ移る。もう一度エインを見る。何かを訴えるような視線だった。
「……あそこですか?」
魔物が低く鳴いた。
エインは魔力溜まりを見る。何かを伝えたいのだろうということは分かる。だが、何を伝えたいのかまでは分からない。
「言葉が通じればいいんですけどね」
ノエンがそう呟いた。
エインが魔物に近づくと、魔物は身を引かなかった。むしろ差し出した手をじっと見つめている。エインは少し迷ってから、その手を魔物の頭へ伸ばした。硬い皮膚に触れる。魔物は目を細めた。
「……大丈夫そうですね」
ノエンは魔物ではなく、その奥にある魔力溜まりを見ていた。
「エインさん。少し離れていてください」
「何か分かりました?」
「まだ何とも。ただ、先ほどから魔力の流れが変化しています」
ノエンが杖を構える。淡い光が地面へ広がり、淀んでいた魔力の輪郭が浮かび上がった。
その直後だった。
魔物が立ち上がった。
「エインさん!」
ノエンが杖を向ける。
エインも反射的に剣へ手をかけた。しかし、魔物は二人には目もくれず、魔力溜まりへ歩いていった。大きな身体を引きずるようにして地面へ伏せると、前脚をその黒ずんだ地面へ押し当てる。
空気が震えた。
「……なんだ?」
エインが目を細める。
魔物の身体から魔力が流れ出していた。
それは周囲へ散ることなく、魔力溜まりへ吸い込まれていく。濁った水をかき混ぜるように、澱んでいた魔力がゆっくりと動き始めた。
「これは……」
ノエンの声が止まる。
魔力の流れが変わった。
逆向きになっている。
「反転の術式……」
ノエンが呟いた。
エインは何も言わずに見つめていた。
魔力溜まりは、少しずつ小さくなっていく。長い間そこに溜まっていた力が、まるで本来あるべき場所へ戻っていくようだった。
やがて最後の一滴のような光が地面へ消える。
森が静かになった。
ノエンはしばらく動かなかった。
「……使えるんですね」
誰に言うでもなく呟く。
エインは魔物を見る。
先ほどまで苦しそうだった呼吸が、少し落ち着いている。魔物はゆっくりと顔を上げ、エインを見る。
「あなたがやったんですか?」
答えはない。
「ありがとう、ってことでいいんでしょうか」
魔物は首を傾げた。
エインも首を傾げる。
「違うか」
その様子を見て、ノエンが小さく息を吐いた。
「……どうやら、こちらの言葉は分からないようですね」
「でも、何か伝えようとしているのは分かります」
エインは魔物の目を見た。
町へ来た魔物たちとは違う。
あの魔物たちは、ただ人間へ襲いかかった。けれど、この魔物は違う。少なくとも今は、エインたちを襲うつもりがない。
エインの視線が魔物の腹へ落ちた。
痩せている。
大きな身体に対して、明らかに肉が足りない。
「……お腹が空いてるんでしょうか」
干し肉を取り出し、魔物の前へ置いてみる。
魔物はしばらく匂いを嗅いでいたが、やがてゆっくりと口をつけた。
一口。
二口。
食べ終える頃には、魔物の表情から険しさが消えていた。
エインはその様子を見ながら、町へ現れた魔物たちのことを思い出していた。あの痩せ方。身体に残っていた傷。互いに食らい合った痕跡。
もしかすると、最初から人間を襲いたかったわけではなかったのかもしれない。
ただ、食べるものがなかった。それだけだったのではないか。
「……もっと知りたいですね」
「何をです?」
「この魔物が、何を伝えようとしているのか」
ノエンは少し考えてから頷いた。
「古代語を調べてみる価値はあるかもしれません」
それからエインは、町へ戻るたびに古い記録を探すようになった。
ダンジョンの記録。古代文明の文献。魔物について書かれた古い研究書。失われた言語に関する資料。王立魔術院の書庫まで足を運び、読めるものは片端から目を通した。
似た言葉はいくつか見つかった。
魔物が発する音と似ている単語もあった。古い石碑の記録には、現在では使われていない言葉が残っている。
けれど、繋がらない。
「……ここまでは分かるんですけど」
机の上に広げた資料を前に、エインは眉を寄せた。
単語の意味は推測できる。
発音も似ている。
時代も近い。
なのに、文章として読むことができない。
「やっぱり、違う言葉なんでしょうか」
「可能性はありますね」
向かいに座ったノエンが本を閉じる。
「似た言葉が別々の地域で生まれた可能性もあります。古代の言語は資料そのものが少ないので、断定するのは難しいでしょう」
「そうですか」
エインは残念そうに言った。
だが、諦める様子はない。
分からないなら、分かるまで調べればいい。
それだけだった。
ところが数日後、その考えをあっさりと追い越したものが現れた。
魔物のところへ向かったエインは、いつものように声をかけた。
「こんにちは」
魔物が顔を上げる。
以前なら、それだけだった。
しかし、その日は違った。
「……コンニチハ」
エインの足が止まった。
「……今、何て?」
「コンニチハ」
たどたどしい。
それでも、間違いなく人間の言葉だった。
エインは魔物の前にしゃがみ込んだ。
「もう一度、言ってもらえますか?」
「コンニチハ」
「分かって言ってます?」
魔物は首を傾げた。
エインは少し考え、それから自分を指差した。
「エイン」
「……エイン」
「そうです」
魔物は嬉しそうに喉を鳴らした。
その日から、魔物は少しずつ言葉を覚えていった。
「水」
「ミズ」
「食べる」
「タベル」
「痛い」
「イタイ」
覚えるたびに、エインが意味を教える。
魔物は何度も繰り返す。
人間が何年もかけて残された古代語を調べている間に、この魔物は聞いた言葉を一つずつ覚えていった。
ある日の夕方、エインがいつものように魔物の前へ座ると、魔物はしばらく彼の顔を見つめていた。
何かを考えているようだった。
「どうしました?」
魔物が口を開く。
「タス……」
そこで止まる。
エインは待った。
「タス……ケテ」
エインの表情が変わった。
「……助けて?」
魔物が頷く。
今度は、はっきりと。
「タスケテ」
エインは魔物を見つめた。
「何を?」
魔物は答えなかった。
ただ、エインの後ろにある森の奥へ視線を向ける。
それから、もう一度だけ呟いた。
「タスケテ」
エインはその視線を追った。
森の奥。
ダンジョンがある方向だった。




