第5話 滞留
子供たちと別れたあとも、エインの頭から水路の話は離れなかった。冷たくなった水。雨もないのに増えた水。以前より速くなったという流れ。どれも、それだけなら子供の記憶違いで片づけられる程度の話だった。けれど、昨日の調査結果と重ねてみると、どうにも引っかかる。
地下水そのものには異常がなかった。昨日、エインたちは水温や流速、地下からの流入量まで調べている。それでも何も見つからなかったのなら、見る場所を間違えているのかもしれない。
「……源流を見てみよう」
町へ戻ったエインは、昨日同行した水利技師たちを呼び戻した。
北東の森へ入り、水の流れを追っていく。町の近くでは人の手によって整えられていた水路も、森の奥へ進むにつれて細くなり、やがて土と岩の間を縫う小さな流れへと変わっていった。木々の間には湿った空気が漂い、足元の土も徐々に柔らかくなる。
しばらく進んだところで、水の流れが途切れた。
正確には、岩の隙間から水が染み出しているだけだった。周囲には人工的に手を加えた形跡もなく、地形そのものに不自然なところはない。
「ここが源流でしょうか」
水利技師の一人がしゃがみ込み、岩の周囲を調べる。
エインもその隣に立った。昨日の調査では、この先まで確認していない。水路から逆算して地下水の流れを調べただけだった。
「……少し、変ですね」
技師が顔を上げた。
「何がですか?」
「水の量に対して、温度が低すぎます」
言われてみれば、確かに冷たい。エインは岩の隙間から流れ出る水に手を触れた。冷気が指先から腕へ伝わってくる。
そのときだった。
エインの足元に、妙な違和感が走った。
空気が重い。
水の冷たさとは別の、肌にまとわりつくような感覚だった。
「少し待ってください」
岩陰を覗き込み、周囲の土を払う。石を一つどかすと、その下から黒ずんだ地面が現れた。
土ではなかった。
エインが手を近づけた瞬間、指先がぴり、と痺れる。
「魔力……?」
技師が息を呑んだ。
地面の下に魔力が溜まっている。それも、ただ濃いだけではない。流れを失った水が一か所に淀むように、魔力そのものが澱んでいた。
エインは慎重に周囲を見回した。
「こんなもの、見たことがありますか?」
「……ありません」
技師の声は小さかった。
「魔力溜まり自体は珍しくありません。ただ、これは……」
そこで言葉が途切れる。
無理もなかった。これほど濃密な魔力を、エインも見たことがない。地面の下に蓄えられた力は、わずかに触れるだけでも圧力を感じるほどだった。
そして、その場所はダンジョンの近くにある。
エインの中で、いくつもの情報が繋がっていった。
三週間前から始まった防護壁の異常。北東側に偏った魔物の侵入。以前より痩せていた魔物たち。そして、本来なら人の住む場所から遠く離れた場所にしか存在しないはずのダンジョン。
「……原因は、これかもしれません」
だが、そう口にしたところで終わりだった。
原因が分かった。
それだけだ。
「これ、どうすれば消せるんですか?」
エインが尋ねると、技師は困ったように首を振った。
「魔力の流れを正常に戻す必要があります。こういう場合は反転の術式を使うのですが……」
「使える人は?」
「現在、確認されている者はいません」
エインは黙って魔力溜まりを見つめた。
反転の術式。
名前だけなら知っている。溜まった魔力の流れを逆転させ、澱みを解消するための術式だ。だが、扱える者がいないのなら、知識があるだけではどうにもならない。
原因は見つかった。
それなのに、手が出せない。
エインは少し考えてから、顔を上げた。
「ノエンを呼びましょう」
自分にできないなら、できる可能性のある人間を探す。それは今まで何度もやってきたことだった。
しばらくして、ノエン・ヴァルディスが森へやってきた。王立魔術院所属、三級魔術師である彼は、エインに案内されて魔力溜まりを目にすると、珍しく足を止めた。
「……これは」
「解析できますか?」
「解析だけなら。ただ、この規模は……」
ノエンは言葉を濁しながら杖を取り出した。慎重に術式を組み、魔力の濃度や流れを読み取っていく。エインはその横で黙って様子を見ていた。
ノエンが何かに気づき、杖を止める。
その瞬間だった。
森の奥から、乾いた音が響いた。
ばきり、と太い枝が折れる。
三人が一斉に振り向く。
続いて、地面を踏みしめる音がした。一歩、また一歩。こちらへ近づいてくる。
木々の隙間から姿を現したものを見て、ノエンが息を呑んだ。
巨大な魔物だった。
四本の脚で地面を踏みしめ、その身体は黒い皮膚に覆われている。ところどころが岩のように硬質化し、頭部から伸びた角は木々の間を抜けるほど長い。何より異様だったのは、その大きさだった。これまでエインが見てきた魔物とは、明らかに一線を画している。
「……ありえない」
ノエンが呟く。
「ダンジョンの奥にいるはずの魔物です」
エインは魔物から目を離さなかった。
魔物が低く唸る。
次の瞬間、巨体が弾けた。
凄まじい速度だった。
「下がって!」
ノエンの声が響くより早く、エインは前へ出ていた。
振り下ろされた爪を半歩だけ横へかわす。風圧が頬を叩いた。エインはその勢いを利用するように身体を回し、剣を振り抜く。
刃が魔物の肩を裂いた。
浅い。
魔物が身体をひねり、反対側の爪を振り抜く。エインは身を沈め、その爪が頭上を通り過ぎるのを待った。すぐさま懐へ入り込み、剣の柄で顎を打ち上げる。
巨体が揺らいだ。
その一瞬を逃さず、エインは脚を払った。
魔物の身体が大きく傾く。
地面に倒れ込むより先に、エインは背後へ回っていた。剣先が首元へ向く。
あと一歩。
踏み込めば殺せる。
だが、エインはそこで止まった。
魔物も動かない。
荒い呼吸だけが森の中に響いている。
「……おかしい」
エインは剣を構えたまま、魔物を見つめた。
強い。
間違いなく強い。
それでも、何かがおかしかった。
どうして、ここにいる?
ダンジョンの奥にいるはずの魔物が、なぜ外へ出てきたのか。
そして、なぜこの場所に現れたのか。
エインの視線が、魔物の身体をゆっくりと追う。
大きな身体の割に、腹が痩せていた。
町へ現れた魔物たちほどではない。それでも、十分な食事を取っているようには見えない。
魔物が低く唸った。
その声には敵意だけではなく、どこか苦しそうな響きがあった。
エインは剣を下ろした。
「ノエン」
「……はい」
「これ、殺さないでください」
ノエンが驚いたようにエインを見る。
「何を言っているんですか。あれは魔物ですよ」
「分かっています」
エインは魔物から目を離さなかった。
「でも、こいつがここに出てきた理由が分かりません」
原因が分からないものを、ただ排除して終わらせる。
それでは、エインにとって解決したことにはならなかった。
なぜ、この場所にダンジョンが生まれたのか。
なぜ、魔力がここまで澱んでいるのか。
なぜ、この魔物はダンジョンの奥から出てきたのか。
まだ、分からないことが残っている。
「……調べましょう」
エインがそう言うと、魔物はゆっくりと顔を上げた。
その眼の奥で、何かが揺れた。
けれど、それが何を意味するのか、このときのエインにはまだ分からなかった。




