第44話 契約
レイが歩き出すと、エインたちもその後を追った。
向かう先は、リナのいる場所だった。
先ほどまで地下牢にいたことなど、まるで遠い昔のことのように、王都の空気はいつもと変わらない。人々が行き交い、店から声が聞こえ、道の向こうでは荷車がゆっくりと進んでいる。その中を、巨大なルカが歩いている。
以前なら、ルカの姿を見ただけで足を止める者も多かった。
今では、それも少しずつ変わっていた。
「あの魔物、また歩いてる」
「この前、子供を助けたやつだろ?」
そんな声が聞こえてくる。ルカは気にする様子もなく歩いていた。
その隣をレイが歩いている。
エインは二人の姿を見ながら、何となく不思議な気持ちになっていた。
何千年も前から一緒にいたという二人が、今こうして並んで歩いている。その間に流れた時間を考えれば、普通ならもっと何かがあるように思える。驚きや喜び、失った時間への悲しみ。聞きたいことも、伝えたいことも、いくらでもあるはずだった。
けれど、レイは何も急がなかった。
時々ルカへ視線を向けるだけで、歩く速度も変わらない。
「レイ」
エインが声をかけた。
「何だい?」
「さっき言っていた、魂の契約っていうのは……」
レイがエインを見る。
「気になるかい?」
「はい」
エインは素直に頷いた。
「僕は、魂の契約についてほとんど知りません」
「そうだろうね」
「魔法の契約とは違うんですよね?」
「ああ。魔法による契約なら、術式や魔力によって互いの関係を形にすることができる。だが、魂の契約はそういうものじゃない」
「じゃあ、どういうものなんですか?」
レイは少し考えてから答えた。
「選ぶことだよ」
「選ぶ?」
「互いに相手を選ぶ。それが魂の契約だ」
エインは黙って聞いていた。
「ただし、最初から両方が選ぶとは限らない」
レイの視線がルカへ向く。
「リノは、すでにリナを選んでいる」
「だから、一方的な契約なんですね」
「ああ」
「でも、リナはまだ選んでいない」
「正確には、そういうことになる」
エインは少し考えた。
「でも、リナはルカを大切にしています」
「それと魂の契約は別だ」
レイの返事は穏やかだった。
「大切に思うことと、魂を結ぶことは同じではない」
「……なるほど」
「だから、私からリナに契約を結べとは言わない」
エインはレイを見る。
「どうしてですか?」
「魂の契約は、力を得るために結ぶものではないからだ」
その言葉に、エインは黙った。
「もしリナが、リノの力を引き出すためだけに契約を結ぶのなら、それは本当の意味でリノを選んだことにはならない」
レイは前を向いたまま続ける。
「力が欲しいから結ぶ。守ってほしいから結ぶ。そういう理由でも契約そのものは成立するかもしれない。だが、それでは魂が互いを認めたとは言えない」
「だから、リナ自身に決めてもらう」
「ああ」
レイは頷いた。
「リノが先に選んだ。次はリナが決める番だ」
その言葉を聞いて、エインはルカを見る。
ルカは二人の会話を聞いているのかいないのか、何も言わずに歩いている。
けれど、少し前を歩いていたエインが止まると、ルカも足を止めた。
「……やっぱり、気にしてるんですかね」
「さあ」
レイは笑った。
「リノは昔から、人間のように考えを言葉で伝えるのが得意じゃなかったからね」
「今もです」
「そうだね」
二人は顔を見合わせて笑った。
やがて、リナのいる場所へ到着する。
エインが扉を開けると、リナが顔を上げた。
「エインさんと、どなたでしょうか?」
その視線がエインの後ろへ移る。
「彼女はレイ。難しいことは省くけど、味方です」
レイを見て、少し驚いた。
そして、そのさらに後ろから入ってきたルカを見る。
「ルカ」
ルカの耳がわずかに動いた。
リナが近づく。
「どうしたの?」
ルカは答えない。
ただ、リナの前まで来ると、その巨大な身体をゆっくりと伏せた。
いつものことだった。
リナが手を伸ばす。ルカの頭に触れる。
「今日は、いつもより大人しいね」
「……」
ルカは目を閉じた。
レイは、その様子を少し離れた場所から見ていた。
そして、しばらくして口を開く。
「リナ」
「はい」
リナがレイを見る。
「君に、話しておきたいことがある」
その声が普段より少しだけ真剣だったため、リナも姿勢を正した。
「何でしょうか?」
「リノと君の間に、魂の契約がある」
リナは目を瞬かせた。
「魂の契約……?」
「ああ」
レイは頷く。
「ただし、今は一方的なものだ」
リナはルカを見る。
「一方的?」
「リノの側から、君へ向かって結ばれている」
エインも補足するように言った。
「レイが、そう言っていました。ルカが先にリナを選んだんだそうです」
「ルカが……私を?」
「そうだ」
レイが答える。
「君が望んだからではない。リノ自身が君を選んだ」
リナはしばらくルカを見つめた。
「どうして……」
「それは、私にも分からない」
レイは正直に答えた。
「リノが何を考えて君を選んだのかまでは、私には分からない」
「……そうですか」
リナはルカの頭を撫でる。
「でも、ずっと私のそばにいました」
「ああ」
「私が危ないときは助けてくれて、私が落ち込んでいるときはそばにいてくれて……」
ルカは目を閉じたまま動かない。
「最初は、私のことをどう思っているのか分かりませんでした」
リナは少し笑う。
「今も、全部は分からないですけど」
レイも笑った。
「それでいい」
「え?」
「リノのすべてを理解する必要はない」
レイはルカを見る。
「私だって、長い時間一緒にいたが、すべてを理解できていたわけじゃない」
その言葉に、リナは少し驚いた顔をした。
「長い時間一緒にいた?」
「話すと長くなる」
レイは笑う。
「ただ、君が分からないと思うことがあっても、それは間違いじゃない」
リナは黙ってルカを見る。
「魂の契約って……何をするんですか?」
「何もしない」
「え?」
「魔法を使う必要もない。特別な言葉もいらない」
レイは静かに答えた。
「君自身が、リノを選ぶだけだ」
リナはその言葉を聞いて、すぐには答えなかった。
エインも黙っていた。
レイも急かさない。
部屋の中に、ルカの静かな呼吸だけが聞こえている。
しばらくして、リナが口を開いた。
「選ぶって……どういうことなんでしょう」
「それを決めるのは、君だよ」
「私が?」
「ああ」
レイは頷いた。
「私が決めることではない。エインが決めることでもない。リノがすでに選んでいるからといって、君が選ばなければならないわけでもない」
リナはルカの頭から手を離した。
そして、その顔を正面から見つめた。
「もし、私が選ばなかったら?」
レイは少しだけ目を伏せた。
「リノは、それでも君を守るだろう」
「……そうなんですか?」
「そういう奴だからね」
レイは笑った。
「一度選んだ相手を、簡単に見捨てるような奴じゃない」
その言葉に、リナはルカを見る。
ルカは何も言わない。けれど、そこにいる。
リナはしばらくルカを見つめていた。
そして、ゆっくりと口を開いた。
「私は、ルカに何度も助けてもらいました」
誰も口を挟まない。
「怖かったこともあります」
ルカの身体がわずかに動いた。
「最初に会ったときなんて、正直に言えば、どうしていいか分かりませんでした。こんなに大きな魔物が突然現れて、それなのに私のことを攻撃するわけでもなくて」
リナは苦笑する。
「何を考えているのか、本当に分からなかった」
ルカが顔を上げる。
「でも、少しずつ分かってきました」
リナの声が柔らかくなる。
「ルカは、言葉が少ないだけで、ちゃんと見ている」
ルカはリナを見る。
「誰かが困っていたら助ける。お腹が空いたら、ごはんって言う。痛そうな人がいたら、心配する」
「いたい?」
ルカが小さく言った。
リナが笑う。
「そう。そういうところ」
ルカは、それ以上何も言わなかった。
リナは、そのままルカの目を見る。
「私、ルカのことを全部理解できるわけじゃない」
一度、言葉を止める。
「これからも、きっと分からないことはたくさんあると思う」
レイは黙って聞いている。
「でも……」
リナは、ルカの頭へもう一度手を置いた。
「分からないから離れる、とは思わない」
ルカの目が、ゆっくりと細くなる。
「私は、ルカと一緒にいたい」
その言葉に、エインは何も言わずにリナを見た。
「だから」
リナは静かに続ける。
「今度は私から、ルカを選びます」
その瞬間だった。
空気が変わった。何かが弾けたわけではない。光が放たれたわけでもない。
それでも、エインにははっきりと分かった。
ルカから伸びていた魔力の流れが、リナへ触れた。
そして、今度はリナの側からも、その流れへ触れるものが生まれた。
一方通行だったものが、二つになった。二つだったものが、一つに繋がっていく。
エインは思わず息を止めた。
「……」
魔力そのものが増えているわけではない。
けれど、ルカの身体の奥に存在していた巨大な何かが、少しずつ動き始めている。
これまで感じていたルカの魔力とは、明らかに違う。
もっと深いところにある。
身体ではない。
魔力でもない。
それでも、確かに存在している。
「レイ」
エインが小さな声で呼ぶ。
レイは答えなかった。
ただ、ルカを見ていた。
その目に、驚きが浮かんでいる。
そして、次第に安堵へ変わっていく。
「……そうか」
レイが呟いた。
「よかった。本当に幸せなんだな」
ルカの身体から、膨大な力が溢れた。
室内の空気が震える。リナの髪が揺れ、エインの服も風を受けたように動いた。それでも、ルカの姿は変わらなかった。
巨大な四足の身体。
これまで見てきた姿と同じだ。
ただ、その身体の内側にある力だけが、今までとは比べものにならないほど強くなっている。
「すごい……」
エインは思わず呟いた。
ルカが立ち上がる。それだけで床がわずかに震えた。
リナが少し驚いて手を引く。
「ルカ?」
ルカはリナを見る。
そして、ゆっくりと頭を下げた。
「……げんき」
リナが目を見開く。
「うん」
ルカはそれ以上、何も言わない。ただ、リナの隣に立っている。
レイはそんなルカを見つめていた。
「昔のリノと同じだ」
「何がですか?」
エインが尋ねる。
「力が戻ったときの魔力だよ」
レイはルカを見る。
「どんな時でも姿は変わらない。リノは昔からそうだった」
エインは頷いた。
それは、エインにとっても重要なことだった。力が戻ったからといって、別の姿になるわけではない。
ルカはルカのまま。
ただ、今まで眠っていた力が、本来の場所へ戻っただけなのだ。
「これで、全部戻ったんですか?」
「いや」
レイは首を横に振る。
「まだだ」
「まだ?」
「魂の契約が完成したことで、道が繋がっただけだ」
エインはルカを見る。
「じゃあ、これから戻っていく?」
「ああ」
レイは頷いた。
「どこまで戻るのかは分からない」
エインは、その答えに納得した。
レイにも分からない。
ならば、確かめていくしかない。
いつものことだった。
「でも」
リナがルカを見る。
「これで、ルカは強くなったんですよね?」
「そうだね」
レイが答える。
「ただ、強くなったという言い方も少し違う」
「違う?」
「今までのリノは、本来の自分を使えていなかっただけだから」
リナはルカを見る。
「じゃあ、今までずっと……」
「ああ」
レイは静かに頷いた。
「自分の力を使えないまま、君を守っていた」
その言葉に、リナは何も言えなくなった。
ルカがリナを見る。
「……たすけた」
短い言葉だった。
リナは少し笑った。
「うん。助けてもらったね」
ルカは、それ以上何も言わない。けれど、その場にいる全員が分かっていた。今までルカがしてきたことは、本来の力をほとんど使わない状態でのものだった。
それでも、何度も人を助けてきた。
子供を守り、仲間を守り、そしてリナを守った。
その力が戻った。
エインは、これから先の戦いを思い浮かべる。
竜。
幻獣の死霊。
そして、迫っている侵攻。
ルカが本来の力を取り戻せば、大きな戦力になるだろう。
けれど。
エインは、すぐに戦力として考えることをやめた。
それはルカ自身のためでもある。
「レイ」
「何だい?」
「これ以上、力を引き出すのは急がない方がいいですね」
レイは少し驚いたようにエインを見る。
「そう思うかい?」
「はい」
エインはルカを見る。
「何が起こるのか分からないからです」
「……なるほど」
「契約が完成したことで力が戻った。でも、それがどんな仕組みなのかはまだ分かっていない」
エインは続ける。
「なら、まず今の状態を調べるべきです」
レイはしばらくエインを見ていた。
そして、笑った。
「君らしいね」
「そうですか?」
「ああ」
レイは頷いた。
「分からないものを、分からないまま使おうとはしない」
「それで失敗したこともありますから」
「それでも、調べるんだろう?」
「はい」
即答だった。
レイは楽しそうに笑った。リナも、そのやり取りを聞いて少し笑う。その横で、ルカはすでに床へ身体を伏せていた。
先ほどまで巨大な力を感じさせていたとは思えないほど、いつものルカに戻っている。
リナがその身体へ手を置く。
「疲れた?」
「……」
ルカは答えない。
「眠い?」
「……ごはん」
「そっちか」
リナが笑う。エインも笑った。レイだけは、しばらくルカを見つめていた。
何千年もの時間を越えて再会した、自分の家族。その力が戻り始めたことよりも、今の姿を見て安心しているようだった。
「リノ」
レイが呼ぶ。
ルカが顔を上げる。
「よかったな」
ルカは何も言わない。
ただ、レイを見る。
それから、リナを見る。
その間にあるものを、エインは言葉にすることができなかった。
ルカが先に選んだ。
リナは、その選択を受け入れるだけではなく、自分の意思でルカを選び返した。
それによって、初めて魂の契約が完成した。そして、眠っていた力が戻り始めた。
力を得るために結んだ契約ではない。互いに選んだ結果として、力が戻ったのだ。
エインは、そのことが何となくこの世界らしいと思った。
分からないことは多い。けれど、分からないからこそ、目の前で起きたことを一つずつ見ていけばいい。
今のルカが、何を感じているのか。これから何ができるようになるのか。そして、魂の契約が二人に何をもたらすのか。
それは、まだ分からない。
だからこそ。
「まずは、調べましょう」
エインが言う。
レイが頷く。
「そうだね」
リナもルカを見る。
「一緒に?」
「はい」
「……げんき」
ルカが短く言った。
その声を聞いて、リナは笑った。
「うん。元気でよかった」
王都の空には、夕暮れの色が広がり始めていた。
長い時間を越えて戻ってきた力と、新しく結ばれた魂の契約。
それがこれから何を引き起こすのかは、まだ誰にも分からない。けれど少なくとも、今ここにいるルカは、もう一人ではなかった。
そしてリナもまた、ルカに選ばれただけの存在ではない。
自分自身の意思で、ルカを選んだ。
その選択によって繋がった二つの魂が、静かに同じ方向を向き始めていた。




