第43話 家族
地下牢の最奥に、静かな沈黙が流れていた。
エインが頭を下げたまま、始祖の返事を待っている。
「力を貸してください」
その言葉は、すでに口にしていた。
それでも、始祖――まだその名を知らない存在から返事はなかった。王もまた、何も言わずに始祖を見ている。
長い間、この国によって閉じ込められてきた存在だった。初代国王と共に王国を築き、その死後も王国のために残った。だが、その後の王によって犯罪者として扱われ、この地下牢へ閉じ込められた。
そんな相手に、王国を守るための力を貸してほしいと願っている。簡単に答えられることではない。エインはそう思っていた。
「……いいだろう」
始祖が、ゆっくりと口を開いた。
エインが顔を上げる。
「協力しよう」
その言葉に、エインの表情が変わった。
「本当ですか」
「ああ。ただし、条件がある」
始祖は穏やかな表情のまま、エインではなく王へ視線を向けた。
「私は王国を守ることには協力する」
王は真っ直ぐにその視線を受け止める。
「だが、攻撃には参加しない」
エインはその言葉を聞き、少し考えた。
守ることには協力する。しかし、自ら敵を攻めることはしない。始祖には、そうする理由があるのだろう。
「分かった」
答えたのは王だった。
始祖は続ける。
「そして、もう一つ」
地下牢の静かな空気が、少しだけ変わったように感じた。
「今回の戦いでは、王自らが指揮を執ること」
エインは王を見る。
王はわずかに目を細めた。
「私が?」
「ああ」
始祖は頷いた。
「この国を守るのならば、王がその場に立つべきだ」
王はすぐには答えなかった。
侵攻が迫っている。竜や幻獣の死霊が攻めてくる可能性がある。その戦いの中で、王自らが指揮を執る。危険がないとは言えない。
しかし、王は迷うことなく答えた。
「分かった」
「いい返事だ」
始祖は小さく笑った。
「そして、最後の条件だ」
その声は、これまでよりもわずかに低かった。
「この国の腐敗した部分をなくせ」
王の表情が変わる。
エインも黙って始祖を見た。
「長い時間が経てば、国は変わる。人も変わる。最初は正しかったものが、いつの間にか誰かの都合のためだけに残ることもある」
始祖は周囲の石壁を見た。
「慣わしもそうだ」
エインは、その言葉を聞いていた。
昔からそうだった、それが当たり前だった、理由を知らないまま、誰も疑わなくなった。その結果、この場所がある。
「私は、王国を守る」
始祖は王へ視線を戻した。
「だが、守った後も同じものが残り続けるのならば、何のために守ったのか分からなくなる」
王はしばらく何も言わなかった。自分が生まれるよりも遥か昔から続いてきたもの。王国の中に残る腐敗。そして、誰も疑わなかった慣わし。それらを変えるということは、簡単なことではない。
しかし。
「約束する」
王が言った。
始祖は、静かに王を見る。
「私は、自分の目で見て、自分で判断する」
王は続けた。
「そして、間違っているものがあるのならば、変える」
地下牢の最奥に、王の声が響いた。
「この国を守るだけでは終わらせない」
始祖は、その言葉を聞いてしばらく黙っていた。
やがて。
「そうか」
小さく、そう呟いた。
「ならば、私も力を貸そう」
エインは息を吐いた。
協力してもらえる。それだけで、これからの戦いに一つ大きな可能性が生まれた。
「ありがとうございます」
エインが頭を下げる。
始祖は、そんなエインを見ながら笑った。
「礼を言われるようなことではない」
「でも」
「私にも守りたいものがある」
その言葉に、エインは顔を上げる。始祖はそれ以上、何も説明しなかった。
ただ、長い時間をこの場所で過ごしてきた者とは思えないほど、穏やかな表情をしていた。
王が一歩前へ出る。
「では」
「待ちなさい」
始祖が言った。
二人が足を止める。
「もう一つ、忘れていることがある」
始祖は王を見る。
「私を、ここから出すのだろう?」
王は一瞬だけ黙った。
「……そうだな」
「まさか、協力すると言った私を地下牢に置いたままにするつもりだったのか?」
「そのようなつもりはない」
「ならばいい」
始祖は立ち上がった。
長い時間、この地下牢にいた。どれほどの年月なのか、エインには分からない。しかし、その存在が今、初めてこの場所から出ようとしている。
王は始祖へ向き直った。
「この場所から出ることを許可する」
「許可、か」
始祖は小さく笑った。
「まあ、今はそれでいい」
エインも立ち上がる。
三人は地下牢の最奥を後にした。
長い通路を歩く。
今度は、エインと王だけではなかった。その間に、始祖がいる。石の床を踏む足音が、三人分になった。
エインは歩きながら、何度か始祖の方を見た。
何千年もの間、この地下に閉じ込められていた存在。ようやく外へ出る。今何を思っているのだろう。
けれど始祖は、特別な表情を見せなかった。ただ、いつものように歩いていた。
「何か気になることでもあるのかい?」
始祖が言った。
エインは少し驚いた。
「いえ」
「何度もこちらを見ている」
「……外に出るのが、久しぶりなんですよね」
「ああ」
「何か、思うことがあるのかなって」
始祖は少し考えた。
「あるよ」
エインは始祖を見る。
「だが、それは外へ出てからにしよう」
それ以上は話さなかった。
やがて、長い階段が見えてきた。三人は一段ずつ上がっていく。地上が近づくにつれて、空気が変わっていった。地下の冷たい空気ではない。外から流れ込む風、遠くから聞こえる、人々の声、王都の音。
エインが先に地上へ出た。
その後に王が続く。
そして。
始祖が、最後の一段を上がった。
その瞬間だった。始祖の表情が変わった。
エインは、思わずそちらを見る。
始祖の目が、遠くを見ていた。まるで懐かしいものを見るような目で。何かを探しているようにも見える。長い時間を越えて、忘れていたものを思い出したような、そんな目だった。
「始祖?」
エインが声をかける。
始祖は、ゆっくりとエインを見る。
そして、少しだけ笑った。
「始祖と呼ぶのは、もうやめてもらおう」
「え?」
「私には名前がある」
王も始祖を見る。
これまで誰も、その名を呼ばなかったのかもしれない。
始祖は、穏やかに言った。
「レイ」
エインは、その名前を繰り返す。
「レイ……」
「ああ」
レイは、王都の方へ視線を向けた。
「それが私の名前だ」
しばらく、誰も言葉を発しなかった。
やがてレイは、再びエインを見る。
「エイン」
「はい」
「王都にいる魔物を連れてきてくれないか」
エインは首を傾げた。
「魔物?」
「ああ」
「ルカのことですか?」
レイの表情が、わずかに変わった。
「ルカ?」
「はい。僕たちはそう呼んでいます」
「そうか」
レイは小さく呟いた。
「今は、ルカと呼ばれているのか」
エインは不思議に思った。
「知っているんですか?」
「……連れてきてくれ」
「でも、どうして――」
その時だった。
遠くから、一つの鳴き声が響いた。
「――――!」
エインの動きが止まる。
聞き間違えるはずがない。ルカの鳴き声だった。
レイも動かずに、しばらくその方向を見ていた。
そして。
「久しぶりだ」
レイが呟いた。
その声は、とても静かだった。懐かしむような声だった。
エインは、レイを見る。
「レイ……?」
「早く行こう」
レイは歩き出した。
「会いたい相手がいる」
エインと王も、その後を追った。
王都の中を進む。
しばらくすると、前方に人が集まっている場所が見えてきた。
その中心に一体の魔物がいた。四本の足、大きな身体。長い首と尾を持ち、その姿は恐怖を思わせる。しかし、みんなはもう知っていた。仲間であると。
「ルカ」
エインが声をかける。
ルカがこちらを見て、尾を軽く地面に叩きつける。そして、エインの隣に立つレイへ視線を向けた。
ルカの動きが止まった。エインも、王も何も言わない。レイもまた、ルカを見ていた。
長い時間。
二人の間に言葉はなかった。
「……リノ」
レイが呟いた。
その瞬間。
ルカの目が大きく開いた。
「……」
ルカは動かない。
ただ、レイを見ている。
「久しぶりだ」
レイが、もう一度言った。
「リノ。今はルカか」
ルカが、一歩前へ出る。
ゆっくりと。確かめるように。そしてレイの前まで来ると、その大きな身体を地面へ伏せた。
まるで、甘えるように。長い間会えなかった相手の前で、ようやく安心したかのように。
「……」
ルカは何も言わなかった。
ただ、地面に伏せている。
レイは、そんなルカへ近づいた。
そして、そっとその身体に手を触れた。
「大きくなったな」
優しい声だった。
エインは、その姿を見ながら言葉を失っていた。ルカが、こんな姿を見せることがあるとは思わなかった。
「レイ」
エインが尋ねる。
「ルカと、どういう関係なんですか?」
レイは、ルカから手を離さなかった。
「昔から一緒にいた」
短い言葉だった。
「私がまだ、今のように呼ばれる前からだ」
エインは黙って聞く。
「幾千年も前、大きな戦いがあり、多くの者が戦った。人間も、魔族も、魔物も」
ルカは、静かに伏せたままだった。
「私とリノも、その戦いを共にした」
「一緒に……戦った?」
「ああ」
レイは頷いた。
「何度もな」
エインはルカを見る。
今まで、自分たちはルカを強い魔物だと思っていた。普通の魔物とは違う。知能があり、言葉を理解する。そして、他の魔物とは明らかに違う力を持っている。
しかし。
幾千年も前の大戦を、レイと共に戦った。それは、一体どういう存在なのか。
「戦いが終わった後も、一緒にいた」
レイが続ける。
「長い時間を共に過ごした」
その声には、懐かしさがあった。
「家族だった」
エインの目がわずかに動く。
ルカとレイ。二人が、長い時間を共に過ごしていた。
「だが、ある日」
レイの表情が、少しだけ曇った。
「リノはいなくなった」
ルカの身体が、わずかに動く。
「探した」
レイは言った。
「どこへ行ったのか。何があったのか。生きているのか」
長い時間を生きて、魔の始祖でもある。そのレイが探しても、見つけることができなかった。
「ついに分からなかった」
「それから、ずっとですか?」
「ああ」
レイは頷いた。
「だが、最近」
ルカを見る。
「王都に、懐かしい気配を感じた」
エインは息を止めた。
「それが」
「リノだと思った」
レイは言った。
「だが、確信はなかった」
長い時間が経っている。同じ存在なのか。本当に生きているのか。分からなかったのだろう。
しかし今、目の前にいる。
「……一目見たいと思っていたが、会えてよかった」
レイが呟いた。その言葉を聞いたルカが、ゆっくりと顔を上げた。
「レイ」
エインは、その様子を見ていた。
そして、もう一つ聞かなければならないことがある。
「ルカは……何者なんですか?」
レイはエインを見る。
「今まで、僕たちは普通の魔物とは違うと思っていました」
「それは間違っていない」
レイは答えた。
「だが、幻獣でもない」
エインは黙った。
「リノは、幻獣を遥かに超える存在だ」
王も、静かにレイを見ている。
「神獣」
レイが言った。
その言葉に、エインの呼吸が止まった。
「……神獣?」
「ああ」
レイはルカへ視線を向ける。
「魔物ではない」
「幻獣でもない」
一つずつ、言葉を重ねる。
「神獣だ」
エインはルカを見る。
ルカ。
自分たちと共にいた存在。
「ごはん」と言い、傷ついた者を見れば「いたい?」と尋ねる。
そんな存在が。
幾千年もの昔、大戦を戦った。レイと家族のように過ごしていた。そして、神獣であった。
「でも」
エインは言った。
「ルカは、今……」
言葉を続けようとした。
しかし、その時。
レイの表情が変わった。ルカの身体から、何かを感じ取ったようだった。レイは目を閉じる。
しばらくして。
「なるほど」
そう呟いた。
「どうしました?」
エインが尋ねる。
レイは、ルカを見る。
その目には、先ほどまでとは違う安堵があった。
「幸せそうだ」
エインは一瞬、意味が分からなかった。
「え?」
「聞かなくても見れば分かる」
レイは笑った。
「昔よりも、ずっと穏やかな顔をしている」
ルカは、地面に伏せたままレイを見ている。レイは再び、その身体へ手を触れた。
「それに」
その瞬間。
レイの表情が、わずかに変わった。
「一方的ではあるが、魂の契約が結ばれている」
エインが目を見開く。
「魂の契約?」
「ああ」
レイは、ゆっくりと頷いた。
「リノは、誰かと深く結ばれている」
「誰とですか?」
レイは少し目を細めた。
「……なるほど」
何かを確かめるように呟く。
「そういうことか」
エインは首を傾げた。
「レイ?」
「相手が分かった」
レイは答える。
「リノとずっと一緒にいる者がいるだろう」
エインの表情が変わった。
「リナ?」
「リナというのか」
レイは頷く。
「魂で結ばれている」
ルカとリナ。
エインは、二人のことを思い出す。
なぜ、その二人が。
疑問が浮かんだ。
しかしレイは、すでに別のことを考えているようだった。
「エイン」
「はい」
「リナのところへ行こう」
「どうしてですか?」
レイはルカを見る。
「リノの本来の力を引き出すためだ」
エインの目が大きく開く。
本来の力。今のルカでも、十分に強い。それでもまだ、本来の力ではない。
「魂の契約がある」
レイは言った。
「そして、その相手がいる」
「リナが」
「ああ」
レイは頷いた。
「ならば、試す価値がある」
ルカがゆっくりと立ち上がった。
「リナ」
短い言葉だった。
「そうだ」
レイは笑う。
「会いに行こう」
エインはルカを見る。そして、レイを見る。地下牢から出たばかりの始祖。長い間、離ればなれになっていた神獣。そして、魂の契約を結んでいるリナ。
侵攻まで、残された時間は少ない。できることは、まだある。新たな戦力を増やし、知らなかった力を知ること。
そして、仲間の可能性を引き出すこと。
「行きましょう」
エインが言った。
レイが頷く。
ルカは、すでにリナのいる方向を見ていた。
長い時間を経た再会は、そこで終わりではなく、新しい何かが今から始まろうとしていた。
エインたちは、リナのもとへ向かって歩き始めた。




