第42話 再度
エインが地下へ続く道の前に立った時、入口を守っていた兵がすぐにこちらへ気づいた。
「エイン様」
兵は一度、エインの姿を確認するように見た。
「何か御用でしょうか」
「地下牢へ行きたいんです」
その言葉に、兵の表情がわずかに変わった。
地下牢。
その最奥には、誰も知らない存在がいる。前回、エインは王の許可を得て、その場所へ入った。
しかし、今回は違う。
兵は困ったように視線を落とした。
「申し訳ありません。ですが、本日は陛下から許可が下りているという話を聞いておりません」
「そうですよね」
エインは素直に頷いた。
兵が間違っているわけではない。地下牢の最奥へ入るということは、誰にでも許されることではないのだろう。
「でしたら」
エインは兵を見た。
「今すぐ、王様に確認を取ってもらえませんか?」
「……今すぐ、ですか?」
「はい」
兵は少しだけ戸惑った。
王へ確認を取る。言葉にすれば簡単だが、いつでもすぐにできることではない。それでも、エインは待つつもりだった。
「僕はここで待っていますので」
兵はしばらく考えていたが、やがて頷いた。
「分かりました。確認いたします」
そう言うと、一人の兵がその場を離れていった。
残されたエインは、地下へ続く入口の前で待つ。
静かな場所だった。地上では、侵攻に備えるため、多くの者たちが動いている。軍は準備を進め、王都では様々な場所で人々が動いていた。
しかし、この場所だけは違う。
地下へ続く入口の向こうには、静かな闇が広がっている。そのさらに奥。王国の歴史の中で長い間、閉じ込められ続けてきた存在がいる。
エインは、前回会った始祖の姿を思い出していた。
魔法。
魔術。
魔族。
そして、魔力。
その全ての始祖。
初代国王と出会い、初代国王が死んだ後も、この王国に残り続けた存在。それが二代目の国王によって犯罪者に仕立て上げられ、地下牢へ投獄された。
長い時間。どれほどの時間、この場所にいたのだろう。エインには想像することすらできなかった。だからこそ、もう一度会いたかった。
前回、聞けなかったことがある。
自分の魔法のこと、迫る侵攻のこと、そして、これから自分たちが戦う相手のこと。
それだけではない。
エインには、もう一つ、始祖に伝えたいことがあった。
「……待たせたな」
しばらくして、後ろから声がした。
エインが振り返る。
そこに立っていたのは、兵ではなかった。
「王様」
王自身が、この場所へ来ていた。
エインは驚き、すぐに頭を下げようとしたが、その前に王が手を上げる。
「そのままでいい」
「ですが」
「構わん」
王はそう言うと、地下へ続く入口を見た。
その表情は、いつもとは少し違って見えた。
何かを考えている。そして、その考えに対して、すでに答えを出しているような表情だった。
「兵から聞いた」
王はエインを見る。
「もう一度、会いたいそうだな」
「はい」
「理由を聞いてもいいか?」
エインは少し考えた。
理由は、一つではない。
聞きたいことがあり、知りたいことがある。そして、お願いしたいことがある。
「前回、聞くことができなかったことがあります」
エインは答えた。
「僕自身のこと。これから起こること。そして、彼女自身のことです」
王は黙って聞いていた。
「それに」
エインは一度、言葉を止める。
「もう一度、戦力になってもらえないか、お願いしたいと思っています」
その言葉を聞いても、王の表情は変わらなかった。怒ることもなかった。ただ、静かにエインを見ていた。
「そうか」
短い言葉だった。
それから、王はゆっくりと息を吐いた。
「ならば、私も行こう」
「え?」
エインは思わず顔を上げた。
「王様も?」
「ああ」
王は地下への入口を見つめる。
「私自身の目で確認したい」
「何をですか?」
「お前が、あの者とどのような会話をするのか」
王の声は静かだった。
「そして、お前があの者と会って、何を思うのか」
エインは何も言わなかった。
王は続ける。
「この国には、長く続いてきた慣わしがある」
地下牢の最奥。始祖を閉じ込め続けるという慣わし。
「私たちは、それを当たり前のものとして受け入れてきた」
王の視線は、地下へ続く暗い道へ向けられていた。
「奴は危険な存在だと聞かされてきた。王国を脅かした犯罪者であると」
エインは黙って聞いていた。
「だから、閉じ込めている」
王は言った。
「それが正しいことなのかどうか、深く考えることもなくな」
しばらく、誰も言葉を発しなかった。
「慣わしだから」
王が、もう一度言った。
「昔からそうだったから」
その言葉だけで、多くのことが続いてきたのかもしれない。
誰かが始めた。次の者が引き継ぎ、そしてまた次の者へ。いつの間にか、その理由を知る者はいなくなっていた。それでも、慣わしだけは残り続ける。
「だが」
王はエインを見る。
「それが正しいとは限らない」
その目には、迷いがなかった。
いや、迷ったのかもしれない。考えたのかもしれない。それでも今、自分自身で確かめると決めた。そんな覚悟が、その眼差しにはあった。
「自分の目で見て、判断したい」
王は言った。
「あの者がどのような存在なのか。そして、これまで王国がしてきたことが正しかったのか」
エインは、ゆっくりと頷いた。
「分かりました」
「では、行こう」
王が歩き出す。
エインも、その後を追った。
兵たちは二人の姿を見送る。
地下へ続く道は、前回と変わらず静かだった。
一歩。また一歩。地上から離れていく。階段を下りるたびに、王都の音が遠ざかっていった。やがて、聞こえるものは二人の足音だけになる。
コツ。
コツ。
石の床を踏む音が、長い通路に響いた。エインと王は、ほとんど言葉を交わさなかった。王が前を歩き、エインがその少し後ろを歩く。
長い通路、閉ざされた扉、冷たい石壁。
前回通った時と何も変わっていないが、エインの気持ちは違っていた。前回は知らないことばかりだった。地下牢の最奥にいる存在についても、自分の魔法についても。そして、この先に何が待っているのかについても。
今も知らないことは多い。けれど、昨日とは違う。自分が知りたいと思っている。だから、ここへ来た。何を知ることになるのかは分からない。それでも、知りたい。
それがエインだった。
しばらく歩き続けた後、王が小さく口を開いた。
「エイン」
「はい」
「怖くはないのか」
エインは少し考えた。
怖くない。
そう言えば嘘になる。
始祖が何者なのか、自分にはまだ分からない。どれほどの力を持っているのかも。
もし、本当に危険な存在だったとしたら。
そんな可能性がないとは言い切れない。
「怖いですよ」
エインは正直に答えた。
「ですが」
王が横目でエインを見る。
「それでも、会いたいんです」
「なぜだ」
「知りたいからです」
エインは答えた。
「知らないままにするより、会って話して、自分で考えたいんです」
王は何も言わずに、ただ前を向いたまま歩き続ける。
やがて長い通路の先に、最奥の場所が見えてきた。
前回と同じ。何も変わらないはずの場所だった。しかし、エインはその前に立つと、わずかに息を吐いた。
隣を見ると王もまた、最奥を見つめていた。
その眼差しは変わらない。覚悟を決めた者の目だった。
「行きましょう」
エインが言う。
「ああ」
二人は、最後の道を進んだ。
そして。
ついに、地下牢の最奥へ辿り着く。
「待っていたよ」
声がした。
エインが顔を上げる。
そこには、始祖がいた。
まるで、エインが来ることを最初から知っていたかのように。
「また来ると思っていた」
始祖はエインを見て、穏やかに笑った。
「君は、知らないことをそのままにはできないからね」
エインは少しだけ笑う。
「そうかもしれません」
始祖は、エインの隣にいる人物へ視線を向けた。
王。
その姿を確認すると、始祖は少しだけ目を細めた。
「なるほど」
始祖は言った。
「王自ら来るとは思わなかった」
王は何も答えない。ただ、始祖を真っ直ぐに見ていた。
始祖は、その視線を受け止める。しばらく二人の間に沈黙が流れた。
やがて、始祖が笑った。
「聡明な王だ」
王の表情がわずかに動く。
「私を見に来たのではない」
始祖は続ける。
「自分の目で判断するために来た」
始祖は、どこか楽しそうだった。
「いいことだよ」
王はゆっくりと口を開く。
「まだ、何も判断していない」
「それでいい」
始祖は答えた。
「見てもいないものを、知ったつもりになる必要はない」
エインは二人の会話を聞いていた。
始祖は再び、エインへ視線を向ける。そしてその表情が、わずかに変わった。
「……変わったね」
「え?」
「魔力だ」
始祖は言った。
「君の魔力の雰囲気が、前とは違う」
エインは自分の身体を見た。もちろん、自分の目で魔力を見ることはできない。
「違いますか?」
「ああ」
始祖は頷く。
「量が増えたわけではない」
「では、何が?」
始祖は少し考えるように目を細めた。
「落ち着いた」
エインは黙った。
「いや」
始祖は言い直す。
「違うな。元の場所に戻った、と言った方が近いかもしれない」
「元の場所に?」
「そうだ」
始祖はエインを見ている。
「君の魔力には、前回、どこか揺らぎがあった」
エインは思い返す。始祖と出会い、侵攻の話を聞いた。竜、
幻獣、死霊、王国に迫る危機。やらなければならないことが増え、自分に何ができるのかを考え続けていた。
「今は違う」
始祖が言った。
「何かが変わった」
エインは少し考え、昨日のことを思い出す。
墓地、エミリー、アイン、シスター、祈り、神の加護。
「昨日」
エインはゆっくりと話し始めた。
「墓参りに行きました」
始祖は何も言わずに聞いていた。王もまた、エインを見る。
エインは、昨日あったことを話した。
長い間行けなかった墓参りに行き、昔いた孤児院のシスターと再会したこと。エミリーが死ぬ前の日、自分たちのために祈っていたこと。
「神の祝福を」
エインは言った。
始祖の表情が、わずかに変わった。
「人生で一度だけ」
エインは続ける。
「誰かの人生を願って、その人が生きていけるように祈ることができるそうです」
「……なるほど」
始祖は静かに呟いた。
エインは、さらに話した。エミリーが、自分とアインのために祈っていたこと。どんな場所へ行っても生きていけるように、どんな困難があっても前へ進めるように。そして、自分がいなくなった後も、自分たちが自分を責めずに生きていけるように。
「振り返らなくていい」
「でも、忘れないで」
エインは、話しながら大切な言葉を思い返していた。
「私は、二人が前に進むことを願ってる」
「だから、強く生きて」
全てを話し終えた後。
始祖は、しばらく何も言わずに考えているようだった。
長い時間を生きてきた者が、遠い記憶を探しているようにも見えた。
やがて。
「神の加護は存在する」
始祖が言った。
エインと王が始祖を見る。
「本当に、あるんですか?」
「ああ」
始祖は頷いた。
「ある」
その言葉には迷いがなかった。
「ただし、証明することはできない」
エインは眉をわずかに動かした。
「証明できない?」
「そうだ」
始祖は答える。
「見えないものを、誰もが見えるように証明することは難しい」
始祖は自分の手を見る。
「魔力とは違う。魔法とも違う」
「では、どうして始祖は存在すると?」
「見えるからだ」
エインは黙った。
「見える者には見える」
始祖はそう言った。
「感じる者には感じる」
それ以上の説明はなかった。
エインは始祖の言葉を考える。本当に神がいるのか。本当に加護があるのか。自分たちが今まで生き残ってきたのは、加護のおかげなのか。それとも、ただの偶然なのか。
分からない。
しかし、エミリーは祈った。それは間違いなく事実だった。自分たちが生きていけるように願った。そして、自分たちは生きている。
「一つ、聞いてもいいですか」
エインが言った。
「何だい?」
「僕たちを護っている神がいるなら」
エインは少しだけ言葉を選んだ。
「どんな神なんですか?」
始祖はエインを見て、少しだけ笑った。
「それは教えないでおこう」
「どうしてですか?」
「自分で気づく時が来る」
始祖は答えた。
「君たちが、本当に知るべき時になればね」
「……そうですか」
エインはそれ以上、聞かなかった。
始祖が教えないと言うのなら、今はまだ知る時ではないのだろう。ならば、いつか自分で気づけばいい。それもまた、エインには悪いことではなかった。
知らないことがある。だから、知ろうとする。分からないことがある。だから、考える。それは、今までの自分と変わらない。
エインは一度、息を吐いた。
そして、始祖を見る。
ここへ来た理由は、まだ残っている。聞きたいこと、そして、お願いしたいこと。
エインは、真っ直ぐに始祖を見た。
「始祖」
「うん」
「もう一度、お願いします」
始祖は少しだけ目を細めた。
エインが何を言おうとしているのか、すでに分かっているようだった。
「戦力になってもらえませんか」
地下牢に、静かな声が響いた。王も、始祖も、何も言わない。
エインは続ける。
「これから、竜や幻獣の死霊が攻めてくるかもしれません」
残された時間は、八日。その間に、できる限りの準備を進める。しかし、それでも足りない可能性がある。
「僕たちは戦います」
エインは言った。
「軍も戦います。王都を守るために、みんなが準備しています」
始祖を見つめる。
「でも」
エインは、ゆっくりと言葉を続けた。
「きっとあなたの力が必要です」
始祖は黙っていた。
その表情から、何を考えているのかは分からない。王もまた、始祖を見ている。これまで、王国によって閉じ込められてきた存在。その存在に、王国を守るための力を貸してほしいと頼んでいる。
「僕は」
エインは言った。
「あなたが何を選ぶのかを、決めることはできません」
どれほどお願いしても、始祖には自分の意思がある。戦うことを強制することなどできない。
「だから、お願いです」
エインは頭を下げた。
「力を貸してください」
地下牢の最奥に、沈黙が流れた。
エインは顔を上げない。
始祖が何を答えるのか。王が何を思っているのか。今は分からない。ただ、エインは自分がどうしたいのかを知っていた。
守りたい、生き残りたい、そして、一人でも多くの者と共に、この危機を乗り越えたい。
そのためにできることがあるならばする。知らないことがあるなら知る。助けを求める必要があるなら求める。
それが、自分の選んだ道だった。
しばらくして、始祖がゆっくりと口を開いた。
「……エイン」
エインが顔を上げる。
始祖は、静かにこちらを見ていた。その表情には、今までとは違う何かが浮かんでいた。
「君は、本当に変わらないね」
エインは首を傾げた。
「そうですか?」
「ああ」
始祖は小さく笑った。
「だからこそ」
その言葉の先を、エインは待った。
地下牢の最奥。王と始祖。そして、エイン。
長い時間続いてきた王国の慣わしと、これから起こる戦い。
その全てが交わる場所で始祖は、ゆっくりと答えようとしていた。




