第40話 愛情
墓地は、王都から少し離れた場所にあった。
街の喧騒から遠ざかるにつれて、人の声は少なくなり、代わりに風が草を揺らす音が聞こえるようになる。整えられた道の先には、小さな墓標がいくつも並んでいた。
エインとアインは、その間を黙って歩いていた。
あまりにも長い間、足を運んでいなかった。
「……ここだな」
アインが足を止めた。
エインもその隣に立つ。
二人の前にある墓標は、他のものと比べても特別に大きいわけではなかった。ただ、二人にとっては、どんな場所よりも重い意味を持っている。
墓標には、一人の名前が刻まれていた。
――エミリー。
二人が幼い頃、姉のように慕っていた女性。
エインはしばらく墓標を見つめていたが、やがてゆっくりと口を開いた。
「……遅くなりました」
風が吹いた。
返事があるはずもない。
それでも、エインは続けた。
「ずっと、来られませんでした。来ようと思ったことがなかったわけではありません。ただ……来れば、あの日のことを思い出す気がして」
隣にいるアインは何も言わない。
エインは墓標の前に持ってきた花を置いた。
「だから、逃げていました」
それは、今まで誰にも言ったことのない言葉だった。アインもまた、墓標へ視線を向けたまま動かない。
しばらくして、低い声で言った。
「俺もだ」
短い言葉だった。だが、その言葉には長い時間が詰まっていた。
「あの日から、何度もここへ来ようと思った。でも、来なかった。俺たちはあの後も生きて、王都に来て、それぞれ自分の居場所を見つけた。忙しかったこともある」
アインはそこで一度言葉を止めた。
「……でも、それだけじゃない」
「うん」
「忘れたかったわけじゃない。忘れられるわけがない。ただ、思い出すのが怖かった」
エインは静かに頷いた。
二人はしばらく何も話さなかった。目の前にある墓標を見つめていると、幼い頃の記憶が自然と浮かんでくる。
食事のこと、魔物を狩ること、傷ついた者を心配すること。そして、いつも二人より少し先を歩いていた姿。
「俺たち、変わったよ」
アインが言った。
「……ああ」
「エインは、相変わらずだ」
「何が?」
「興味を持ったら止まらないところだ」
エインは少しだけ笑った。
「アインも変わってないと思うけど」
「俺は変わった」
「そう?」
「昔より、考えるようになった」
「それはそうかも」
「お前のせいだ」
「どうして?」
「さあな」
二人の間に、わずかな笑いが生まれた。それは久しぶりに、この場所で生まれた穏やかな空気だった。
エインは墓標を見つめたまま、もう一度口を開く。
「今、王国が大変なことになっています」
「竜や幻獣の死霊が攻めてくるかもしれない」
アインが続ける。
「まだ、何が起こるか分からない。でも、俺たちは戦う」
エインは頷いた。
「今度こそ守るために」
幼い頃は、生きるために戦っていた。食べるために、誰かを守るために、次の日を迎えるために。
けれど今は違う。守るものが増えた。王都があって軍がいて、そして共に働く仲間がいる。
そして、未来の王国を守る者たちがいる。
「今の僕たちは、昔とは違います」
エインは墓標に向かって言った。
「だから、大丈夫です」
その言葉を口にした瞬間、エイン自身が少しだけ驚いた。
大丈夫。
何に対してなのかは分からない。
迫っている侵攻に対してか。自分たちの過去に対してか。それとも、目の前にいるエミリーに対してなのか。
「……そうかい」
突然、後ろから声がした。
二人が振り返る。
そこには、一人の女性が立っていた。
年齢を重ねていることは、その姿から分かる。しかし、エインとアインにとって、その顔は忘れられるものではなかった。
「あんたたち……」
女性は二人の顔を見て、目を細めた。
「元気そうだね、エイン、アイン」
二人の表情が変わった。
「シスター?」
エインが呟いた。
かつて二人がいた孤児院のシスターだった。
「久しぶりだね」
シスターはゆっくりと近づいてくる。
「大きくなったものだね。……いや、もう大きくなった、なんて言う年じゃないか」
アインが少し頭を下げた。
「お久しぶりです」
「本当に久しぶりだよ」
シスターはそう言いながら、エミリーの墓標を見た。
「今日、来るような気がしていたわけじゃないんだけどね。たまたまよ」
「シスターは、ここへ?」
「昔いた子たちの墓参りにね」
その言葉を聞いて、エインは少しだけ視線を落とした。シスターは二人の様子を見て、すぐに何かを察したようだった。
「長い間、来ていなかったんだろう?」
二人は否定できなかった。
「……はい」
「そうだろうと思ったよ」
責めるような声ではなかった。
むしろ、最初から分かっていたような穏やかな声だった。
「エミリーが死んだことを、自分たちのせいだと思っていたんだろう?」
エインの肩がわずかに動く。
アインも黙っていた。
「違います」
エインは反射的に答えようとしたが、言葉が続かなかった。違うと言い切れなかった。あの日、もっと早く気づいていれば。自分たちがもっと強ければ。
何かできたのではないか。
そんな考えを、意味のないたらればを、二人は何度も繰り返してきた。
「……あの日」
シスターが静かに言った。
「エミリーは、あんたたちのことを心配していたよ」
二人が顔を上げる。
「エミリーが?」
「ええ」
シスターは墓標を見つめた。
「あの子が魔物に殺される、その日よ」
風が止まったように感じた。
「エミリーは私のところへ来た。そして、エインとアインのことを話していた」
エインは息を止める。
「何を……?」
「二人とも、無茶をするから心配だって」
シスターは小さく笑った。
「特にエインは、気になったことがあると周りが見えなくなる。アインはアインで、それを止めるようでいて、一緒になって危ないことをする」
「……」
「今も、あまり変わっていないようだけどね」
アインが視線を逸らした。
エインも何も言えない。
シスターは、優しく続けた。
「あの日、エミリーは言ったのよ。二人がこれからも生きていけるように祈りたいって」
エインとアインが、同時にシスターを見る。
「祈る?」
「神の祝福を」
シスターの声は、静かだった。
「神の祝福は、一人の人間が人生で一度だけ祈ることができるものよ」
二人は知らなかった。
そんな話を聞いたことがなかった。
「誰かの人生を願い、その人に神の加護があるように祈る。何度もできるものではない。一度だけ。その人が一生で、本当に願いたいもののために使う祈りなの」
「……それを」
エインの声が震えた。
「エミリーが?」
「ええ」
シスターは頷いた。
「あの子は、エインとアインのために祈った」
二人は言葉を失った。
「二人がどんな場所に行っても、生きていけるように。どんな困難に出会っても、前へ進めるように。自分がいなくなった後も、二人が自分を責めずに生きていけるように、だったのかもね」
エインの視界が、わずかに揺れた。
アインも何も言わない。
神の祝福。人生で一度だけ。エミリーは、それを自分たちに使った。
「……どうして」
エインの口から、ようやく言葉が出た。
「どうして、今まで……」
「話す必要がないと思っていたの」
シスターは答えた。
「エミリーが、あんたたちに言ってほしいと頼んだわけじゃない。あの子は、ただ祈っただけだった。だから私も、二人が自分の力で生きていくなら、それでいいと思っていた」
シスターは二人を見た。
「でも、今日ここで会った」
その視線は、昔と変わらなかった。
二人を幼い頃から見守っていた人間の目だった。
「だから、今なら話してもいいと思ったの」
エインは墓標を見る。
自分たちは、ずっと守れなかったと思っていた。
あの日。姉のように慕っていた人を失った。そして、その死をきっかけに、自分たちは強くなろうとした。
強くならなければ、また誰かを失う。守れない。生き残れない。
そう考えてきた。
けれど。
「あの日から……」
エインが呟いた。
「僕たちは、守られていたんですね」
「ええ」
シスターは頷く。
「今もね」
アインが墓標を見た。
「……今も」
「神の加護が本当にあるのか、私には分からない」
シスターは正直に言った。
「目に見えるものではないから。でも、祈りは確かに存在した。エミリーは、あんたたちが生きていくことを願っていた」
アインはゆっくりと目を閉じた。
「俺たちは、生き残った」
「ああ」
「何度も、死にかけた」
「うん」
「でも、生きている」
エインは隣のアインを見る。
二人だけではなかった。幼い頃、一緒に生きてきた者たちがいた。失った者もいた。それでも二人は生き残り、今ここにいる。
偶然だったのか。自分たちの力だったのか。それとも、本当に加護があったのか。
答えは分からない。だが、一つだけ確かなことがあった。
「あの人は」
エインが墓標を見ながら言った。
「最後まで、僕たちのことを考えていた」
「そうよ」
シスターは答えた。
「だから、自分を責めて生きるのはおやめなさい」
その言葉は、静かだった。
けれど、二人の奥深くまで届いた。
「きっとエミリーは、二人が自分の死を引きずって生きることを望んでいない。前を向いて生きてほしいと思っているわよ」
シスターは少しだけ笑う。
「ただし」
二人を見る。
「たまには墓参りに来なさい」
エインは目を伏せた。
「……はい」
「今度はもっと早く来ます」
アインも言った。
「そうなさい」
シスターは満足そうに頷いた。
しばらくして、彼女は何かを思い出したように言った。
「そうだ。せっかく会ったんだから、贈り物をあげるわ」
「贈り物?」
「ええ」
シスターはそう言うと、墓標から少し離れた。
そして、ゆっくりと手を前へ出す。エインはその瞬間、魔力が動いたことを感じた。しかし、それは攻撃的なものではなかった。
静かで、柔らかい。まるで風のような魔力だった。
「これは、私だけが使える魔法なの」
シスターが言う。
「昔からね。あまり役に立つ魔法ではないけれど、今の二人にはぴったりな魔法よ」
その魔力が、ゆっくりと広がっていく。
二人の目の前の景色が揺れた。
次の瞬間。
そこには、別の場所が映し出されていた。
花が咲いていた。
見たことのない場所だが、ただ穏やかだった。優しい風が吹き、花が静かに揺れている。
そして、その中心に一人の女性が立っていた。
エインの呼吸が止まり、アインも動かなかった。
「……エミリー」
そこにいた。
あの日の姿のまま。二人の記憶の中にいる姿と、何も変わらないまま。
エミリーは二人の方を見て、そしてゆっくりと笑った。
その笑顔を見た瞬間、エインの胸の奥に、忘れていた感覚が戻ってくる。
幼い頃に、名前を呼ばれた時の声、何かを失敗した時に笑われたこと、無茶をすれば怒られたこと。
すべてが、一瞬で戻ってきた。
映し出されたエミリーが、口を開く。
「二人とも」
声が聞こえた。
それは、記憶の中の声と変わらなかった。
「振り返らなくていい」
エインの目から涙が落ちた。
アインは黙ったまま、その姿を見ている。
「でも、忘れないで」
優しい風が吹く。
「私は、二人が前に進むことを願ってる」
エミリーは、昔と変わらない笑顔を浮かべていた。
「だから、強く生きて」
それだけだった。
それ以上、何かを言うことはなかった。けれど、二人には十分だった。
景色が少しずつ薄くなっていく。花が消えら風が消え、最後に、こちらへ微笑みかけていたエミリーの姿が消えた。
そこには再び、墓地の風景だけが残った。
長い沈黙が流れる。
エインは涙を拭い、アインは何も言わなかったが、その表情はこれまでとは違っていた。
シスターが二人を見る。
「……最後に」
そして、ゆっくりと手を重ねた。
「あたしも祝福を祈らせてもらうよ」
エインとアインが顔を上げる。
「二人がこれからも、自分の選んだ道を歩けるように」
シスターの周囲に、柔らかな魔力が広がった。
「どれほど苦しいことがあっても。どれほど大きな壁があっても」
風が吹く。
「二人が、自分自身を見失わないように」
その言葉を聞いた瞬間だった。
エインは、不思議な感覚を覚えた。何か新しい力を得たわけではない。魔力が増えたわけでもない。けれど、自分の中にあった何かを思い出したような気がした。
なぜ、自分は前へ進んできたのか。
なぜ、知らないものを知ろうとしてきたのか。
なぜ、できないことをできるようになるまで続けてきたのか。
アインも同じように、静かに目を閉じていた。
二人の芯。
何度も迷いながら、それでも失わなかったもの。それが、もう一度はっきりと形になったような感覚だった。
「ありがとうございます」
エインが言った。
「……シスター」
アインも頭を下げる。
「また来ます」
「ええ」
シスターは笑った。
「待ってますよ」
墓地を離れる時、エインとアインは一度だけ振り返った。そこには、エミリーの墓がある。
もう、あの日から目を逸らす必要はなかった。失ったものは消えない。忘れることもできない。けれど、それを抱えたまま前へ進むことはできる。
エミリーが願ったように。
そして、自分たちが生き残ってきた意味を、自分たちなりに見つけるために。
「戻るか」
アインが言った。
「うん」
王都では、多くの者たちが動いている。
迫る侵攻、竜、幻獣、死霊。
これまで経験したどんな戦いとも違う危機が、すぐそこまで迫っていた。だが、二人の足取りに迷いはなかった。
過去を受け入れ、今を見つめる。そして、未来へ進む。
並んで歩き出した二人の目には確かな意志が宿っていた。来たる侵攻を、必ず乗り越える。今度こそ、自分たちの大切なものを守るために。二人は、王都へ向かって歩き出した。




