第39話 過去
地下牢から戻った頃には、王城の外はすっかり夜に包まれていた。
地下深くにある最奥の牢は、王城の中にありながら別の場所のようだった。幾重にも重ねられた扉と鍵、壁一面に刻まれた魔法陣。そして、その奥にいた魔の始祖。王国の初代国王を知り、その死後も長い年月をこの国で過ごしてきた存在との会話は、エインの中にこれまでとは違う重さを残していた。
王城の廊下を歩いていると、窓際に立つ一人の男が視界に入った。月明かりに照らされた横顔を見て、エインは自然と足を止める。
「まだ起きていたんですか」
声をかけると、アインは窓の外から視線を外した。
「お前こそだ。王に呼ばれてからずっと動いていただろう。少しくらい休め」
「それはアインも同じでしょう」
「俺はまだ仕事が残っている」
そう答えたアインの表情から、エインは何かを考えていることを察した。いつものように軍のことを考えているだけではない。少なくとも、今夜ここで待っていた理由は別にあるようだった。
「軍の配置ですか?」
「ああ。ちょうどお前にも現状を伝えておこうと思っていた」
二人は廊下を歩き始めた。夜になった王城は昼間とは違い、人の気配が少ない。遠くに見える松明の明かりが石造りの壁を照らし、その間を警備の兵士が静かに行き交っていた。
「前衛はガルドに任せた」
エインはその言葉に少しだけ意外そうな表情を浮かべた。
「アインが直接見るわけではないんですね」
「今の状況なら、その方がいい。俺が全体を見る。ガルドは前に立つ者たちを見るのに向いている。敵が竜や幻獣になる可能性がある以上、これまでのように隊列を整えて突っ込ませるわけにはいかない。前衛の役割は敵を倒すことだけじゃない。後ろにいる連中を生かして戻すことも必要になる」
エインは頷いた。ガルドの強さは、単純な戦闘能力だけではない。前に立ち続けることの意味を理解している人間だった。自分が倒れることで後ろに何人が危険に晒されるのかを考えながら戦える。今の軍に必要なのは、そういう戦い方を教えられる人間だった。
「アイン自身は?」
「俺は別の連中を集める」
その答えを聞いた瞬間、エインの足が止まった。
アインも数歩進んだところで立ち止まり、振り返る。
「……旧友ですか」
「ああ」
「まだ、連絡が取れるんですね」
「全員じゃない。だが、生きている奴はいる」
短い答えだった。しかしエインには、それだけで誰のことを言っているのか分かった。
王都で出会った仲間ではない。軍に入ってから知り合った兵士でもない。
まだ二人が幼く、王国の外で生きていた頃の仲間だった。
「昔から一緒に生き残ってきた連中を呼ぶ。多分今の軍よりは強くなってるだろ。少なくとも魔物を見て足が止まるような奴らじゃない」
アインは再び歩き始めた。エインもその横に並ぶ。
「急に、どうして彼らを?」
「分からん。ただ、今度の相手は普通じゃない」
アインの声は低かった。
「竜に幻獣、死霊術。お前が見つけた霧もそうだ。俺たちが今まで相手にしてきたものとは違う。だから、戦力が必要だ。それだけだ」
「そうですね」
「……それに」
アインは一度言葉を切った。
「久しぶりに、昔のことを思い出した」
エインは何も言わなかった。
始祖と話したことが関係しているのかもしれない。長い時間を生き、王国の歴史を見てきた存在を前にして、自分自身が生きてきた時間について考えた。死んでいった者たちのこと。自分たちが生き残ったこと。そして、なぜ今もこうして戦おうとしているのか。
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二人が育った場所は王国の中ではなく、王都から遠く離れた場所にある、小さな孤児院だった。
王都のように高い防護壁があるわけでもなく、十分な兵士が周囲を守っているわけでもない。人の住む場所から少し離れれば、そこには当たり前のように魔物がいた。
だから、魔物と戦うことは特別なことではなかった。
食料を手に入れるために森へ入り、獣を狩る。その中には魔物もいる。孤児院へ届く食料だけでは足りない日もあり、自分たちで何かを手に入れなければならなかった。幼い子供たちだけで遠くへ行くことはできなかったが、成長した者たちは少しずつ大人たちに連れられ、森の中で生きるための方法を覚えていった。
どの植物が食べられるのか。どの獣が危険なのか。魔物と遭遇した時、どこへ逃げればいいのか。そして、逃げられない時にはどう戦うのか。
エインとアインも、その中で育った。
二人にとって魔物は、王都の人間が考えるような遠い存在ではなかった。時には食料を奪う相手であり、時には自分たちを襲ってくる敵だった。森へ入れば遭遇することもあり、孤児院の近くまで現れれば、年長の者たちが武器を持って追い払う。
そんな生活の中で、二人には姉のように慕っていた少女がいた。血の繋がりはなかったが、エインにとってもアインにとっても、彼女は間違いなく家族だった。
幼い子供たちの世話をし、怪我をすれば手当てをする。食料が足りない日には、自分の分を年下の子供に渡すこともあった。エインが何かに興味を持って質問を繰り返せば、呆れながらも最後まで聞いてくれた。アインが誰かと揉めれば、最後には必ず間に入った。
二人が今でも互いを信用している理由の一つには、あの頃の生活があった。
三人で行動することも多かった。森へ行く時も、食料を探す時も、近くに魔物が現れた時も。
だから、その日も特別なことが起こるとは思っていなかった。
その日もいつものように孤児院の近くで魔物が現れた。決して強い魔物ではない。少なくとも、それまで何度も戦ってきた相手だった。年長の者たちが対応し、エインとアインもその中にいた。
一瞬だった。
魔物の動きが変わったことに気付いた時には遅かった。誰かを狙っていたはずの魔物が、別の方向へ動き、その先には彼女がいた。
助けようとした。エインもアインも、確かにそう思った。しかし、二人の体は間に合わなかった。その魔物は二人の姉の命を奪い逃げていく。追いかけようにも身体が動かない。
さっきまで普通に話していた。いつものように笑っていた。それなのに、彼女はもう動かない。
エインは何度も名前を呼んだ。声が枯れても、頭では分かっていても呼び続けた。
返事はなかった。
アインは何も言わず、その場から動くこともできず、倒れている彼女を見続けていた。
魔物は逃した。何も守れなかった。自分たちは戦ったのに。武器を持っていたのに。魔物を殺したこともあったのに。それでも、目の前にいた一人を助けることができなかった。
その事実だけが、二人の中に残った。
しばらくしてから、エインとアインは同じことを考えるようになった。
もっと強くならなければならない、と。あの魔物を倒せる程度では足りない。目の前にいる誰かを守るためには、もっと強くならなければならない。
そして二人は、魔物の生息地の中心へ向かった。
もちろん、誰かに許されたわけではない。むしろ、止められることは分かっていた。だから二人だけで行った。
最初は、ただ強い魔物と戦うつもりだったのかもしれない。自分たちがどこまで戦えるのかを知りたかった。もっと強い相手と戦い、今まで知らなかったことを覚えれば、次は誰かを守れるかもしれない。
しかし、魔物の生息地の中心は、二人が考えていた場所とはまったく違っていた。奥へ進むほど魔物の数は増え、出会う個体も明らかに強くなっていった。一体を倒しても、その先にはまた別の魔物がいる。逃げながら戦い、進んではまた襲われる。二人は引き返すこともできなくなり、いつの間にか、自分たちがどこまで来たのかさえ分からなくなっていた。
それでも、引き返すという選択は頭になかった。いや、正確には、引き返す余裕がなかった。前にも魔物がいる。後ろにもいる。気が付けば、二人は完全に囲まれている。
アインは武器を構えたまま、荒い呼吸を繰り返していた。体にはいくつもの傷があり、すでに満足に動ける状態ではなかった。エインも同じだった。魔力はほとんど残っておらず、手にした薙刀を支える腕にも力が入らなくなっていた。
それでも、魔物たちは待ってくれない。一体が近づけば、別の一体が回り込む。二人を逃がさないように、少しずつ距離を詰めてくる。
アインはその時、死ぬのだと思った。
ここまで来たことを後悔する余裕もなかった。ただ、隣にいるエインだけはどうにか生かして逃がせないかと考えていた。そして、二人の目にある魔物が映る。仲間を、家族を、姉を、殺した魔物。
その時だった。
エインの様子が変わった。髪を逆立て、全身から魔力が鋭く吹き出している。そこには、それまでアインが知っていたエインの姿がなかった。
普段のエインは、戦う時でも考えていた。周囲を見て、敵の数を数え、どのように動けば味方を傷つけずに済むのかを考える。魔法を使う時も同じだった。どれだけの出力なら問題ないのか、どこまで力を使えばいいのかを考えながら戦っていた。
しかし、その時のエインには、そんなものがなかった。
あの魔物を殺す
命にかえてでも、必ず殺す
それだけだった。
魔物が先に動いたが、その瞬間にはエインの体も動いていた。相手の動きを見てから反応したわけではない。魔物が攻撃しようとすれば、その前に避け、別の魔物が近付けば薙刀を振る。どこから攻撃が来るのかを考えているようには見えなかった。それでも、エインは一度も攻撃を受けなかった。
まるで、自分自身が考えるよりも先に体が動いているようだった。薙刀が振られ、魔物が倒れる。エインの目にはある一体の魔物しか見えていない。
一体を倒している間に別の魔物が近付いても、エインは止まらなかった。振り返ることもなく、その気配に合わせるように体を動かし、次の敵へ向かう。
アインは動けなかった。怪我のせいだけではない。目の前で起きていることを理解できなかった。それまで何度も一緒に戦ってきた。エインが強いことも知っていた。魔法の扱いが上手いことも、武器を持たせれば簡単には負けないことも知っていた。
それでも、これは違った。
アインの知っているエインではなかった。
魔物が襲い掛かる。
エインは薙刀を振る。
その動きに迷いはなく、次の敵を殺すために必要な動作だけが続いていた。生き残るために不要なものは何一つなく、敵を殺すために必要な動きだけが、異常な速度で繰り返されていく。
獣のようだった。
アインが後にそう表現することになる姿を、その時、初めて目にした。人間が考えて戦っているのではない。一体の魔物を殺すために、そして、敵を殲滅するために。ただ本能だけで動いている。
エインは魔物を薙ぎ払った。
薙刀を振るたびに魔物が倒れ、それでも数が減らなければ魔法を使った。すでに魔力が残っていないはずなのに、エインは止まらなかった。
魔法を使うと魔物が消し飛ぶ。さらに別の敵が現れても、エインは再び前へ出る。魔法と薙刀で人とは思えない速さで魔物を殲滅していく。
どれほど時間が経ったのか、アインには分からなかった。ただ、気が付いた時には、周囲にいた魔物がいなくなっていた。
目の前にいた魔物だけではない。周囲の魔物全てである。たった一体を残して。
エインは、そのまま歩き始めた。まだ目的を果たしていないと言わんばかりに。
止めようとしたが、声が出ない。アインはただ、エインの後ろ姿を見ることしかできなかった。
その間もエインは魔物に一直線に向かっていく。足元に倒れる死にかけている魔物を薙ぎ払い、踏み潰し一歩一歩進んでいた。
殺す。必ず殺す。
アインにはエインの背後にあり得ないものが見えていた。一見すると大鎌を持った死神のように見える。エインが一歩進むごとにおぼろげだった輪郭ははっきりと見えるようになり、大鎌の反射まで見えていた。
アインは理解することはもちろん、目を逸らすこともできなかった。昔、彼女が教えてくれた童話の話とそっくりだったのだ。
強い意志には神が宿る。神を宿したものは二度と離れられない。
エインと魔物の距離が縮まる。魔物は逃げ出そうとしていた。しかし、それよりも速くエインが回り込む。回り込むと同時に薙刀を振り、前脚を両方落とす。
魔物の悲鳴にも似た叫びが響き渡る。
エインはそれを聞こえていないかのように、魔物の顔を下から蹴り飛ばす。魔物はまるでボールのように地面を跳ねる。そこでアインは目を疑うものを目にする。エインと死神がゆっくりと重なっているのだ。
エインは動けなくなった魔物に近づき、ゼロ距離で魔法を放つ。アインはその魔法に見覚えがあった。白い光、光が膨れて周囲の空気の揺れる。かつてエインが遊びの中で編み出した魔法だった。
しかし、それまでのものとは密度も鋭さも比べ物にならない。白い光は少し膨れたかと思うと一気にエインの掌サイズに圧縮された。そんな見ただけで危険を感じる魔法を放った。
音が消え、世界が止まったのではないかと思えるほどの光。一拍遅れて地響きが始まる。
地響きが鳴り終わるころには、魔物も魔物の下にある地面までもが消えていた。掌の大きさの穴がどこまでも続いていた。
そこに戦略と呼べるものがあったのか、アインには分からない。
あの日、一人の少女を守れなかった二人の子供は、魔物を倒すためにその中心へ入り、死にかけた。そして、その中でエインは変わった。いや、本当は変わったのではなかったのかもしれない。あれが、最初からエインの中にあったものだった。
普段のエインは、それを抑えている。味方を傷つけないように。周囲を壊さないように。自分の力を考えながら使っている。
しかし、あの時だけは違った。
殺すため。
エインは、自分の持つものを何一つ抑えなかった。
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夜の王城の中庭に、静かな風が吹いた。
エインはしばらく何も言わなかった。アインも黙っている。遠い過去の話だが、二人にとって忘れられるような出来事ではない。
「……あの時以来ですね」
エインが小さく言った。
「ああ」
「アインが、僕の本気を見たのは」
「一度だけだ」
アインは迷わず答えた。
「だから、あの時に軍の連中へ言った。本気のお前を見たことがあるのかってな」
エインは苦笑した。
「見せる必要はないと思います」
「俺もそう思ってる」
アインは少しだけ笑ったが、すぐに表情を戻した。
「だからこそ、今回もそうならない方がいい」
エインは黙った。
「お前が本気になるってことは、それだけ追い詰められているってことだ。味方がいる場所では、あの時みたいには戦えない。お前自身が一番分かっているだろ」
「はい」
「だから、俺たちがいる」
アインはエインを見る。
「今回は一人で全部やるな」
エインはその言葉に、すぐには答えなかった。
以前なら、きっと自分一人で何とかしようとしたかもしれない。しかし今は違う。王国には軍がいる。ノエンがいる。ヴィタがいる。学院の教師たちもいる。そして、強くなったアインもいる。
「分かっています」
エインは頷いた。
「だから、みんなを集めました」
「ならいい」
アインはそう言って一度空を見上げ、何気ない口調で言った。
「なあ、エイン」
「なんですか?」
「墓参り、行くか」
エインは動きを止めた。
誰の墓なのか、聞く必要はなかった。二人は一度も行ったことがなかった。行けなかった。
彼女が死んだことを受け入れられなかったからだ。墓があることは知っている。どこに埋葬されているのかも知っている。それでも、二人とも一度も足を運ばなかった。
墓へ行くということは、彼女はもうこの世にいないと認めることだからだ。もう会えないのだと。
あの日から、自分たちは二人になったのだと。そう認めることが、できなかった。
「……急、ですね」
「まあな」
アインは正直に答えた。
「ただ、今日だけは行かないといけないような気がした」
エインは何も言わなかった。
始祖と会った夜だった。十日後には、王国を揺るがす戦いが始まるかもしれない。明日から先、自分たちがどうなるのかも分からない。そんな時だからこそ、過去を置いたまま前へ進むことができなくなったのかもしれなかった。
「……そうですね」
しばらくして、エインは答えた。
「僕も、同じです」
アインは何も言わず、ただ頷いた。
二人はこれまで、一度もその場所へ行かなかった。
けれど、その夜だけは。
どうしても、行かなければならないような気がしていた。




