第38話 始祖
地下牢の最深部。
最後の鍵が外されたあとも、エインはすぐに扉の向こうへ進むことはなかった。
王からも言われている。中へ入ることは許可しない。外から話をするだけだ。
エインは扉の前に立ったまま、暗闇の奥を見つめていた。
「初めまして。僕はエインといいます。少し、あなたと話がしたくて来ました」
返事はなかった。
地下の空気は冷たい。しかし、エインが感じているものは寒さだけではなかった。
誰かがいる。それだけは分かる。暗闇の奥から、こちらを見ている。長い沈黙が続いた。
やがて。
「……エイン」
声がした。
女性の声だった。
落ち着いている。
しかし、その声には僅かな警戒も、戸惑いもなかった。
ただ、エインという名前を確認するように呟いただけだった。
「そうです」
「最近よく聞く名前だね。何をしに来たの?」
短い問いだった。
エインはすぐに答える。
「協力を求めに来ました」
その瞬間、暗闇の奥で何かが動いた。
ゆっくりと。足音が近づいてくる。一歩、また一歩と。
そして、僅かに届く光の中へ、一人の女性が姿を現した。
エインは初めて、その姿を見た。
しかし、彼女の姿を見たからといって、すぐに何かが分かったわけではない。ただ、王が決して外へ出してはならないと言った存在。その人物が、目の前にいる。
女性はエインを見ていた。
「協力?」
「はい」
「王が?私に?」
「僕が、です」
女性は少しだけ目を細めた。
「王を通して、ここまで来たのに?」
「王には許可をもらいました。でも、あなたに会いに来ると決めたのは僕です」
エインの答えを聞き、女性はしばらく黙っていた。
「それで?」
「王国に危険が迫っています」
エインは、調査先で見たものを話し始めた。
人がいなくなった村、王都とは別の方向へ逃げていた人々、川へ続いていた足跡、そして、調査団の死体。
切断されていた者、溺れていた者、焼かれていた者、異常な速度で腐敗していた者。さらに、川の向こう岸を覆っていた霧、物質と魔力を分解する霧。
エインは、自分が行った確認についても説明した。
石を投げたこと。魔力を込めた石も同じように砕けたこと。魔法が霧の中で消えていったこと。そして、高出力の魔法だけが霧を押し切ったこと。
女性は一度も口を挟まずに、ただ、静かに聞いている。
エインは続けた。
霧の奥にあった館。そこで見つけた、死んでいるはずの調査団。死体のまま動いていた者たち。そして、館の中で聞いた会話。
死霊術、王国への侵攻、竜族と幻獣族の墓、死霊として増やされた戦力、十日後の夜明け前に王国を攻めるという計画。
すべてを話し終えると、エインは女性を見た。
「それが、今の状況です」
女性は何も言わなかった。
エインも、すぐに続きを話すことはしなかった。
しばらくして。
「それで、私に何をさせるつもり?」
「まだ決めていません」
女性の表情が僅かに変わった。
「決めていない?」
「はい」
エインは頷いた。
「僕はあなたのことを、ほとんど知りません。王からも詳しいことは聞いていません」
「それなのに協力を求めるの」
「だから、まず話をしたいと思いました」
女性はエインを見つめていた。
「あなたは、私が何者なのか知らない」
「知りません」
「危険かもしれないとも考えないの?」
「考えています」
「それでも来たんだ」
「はい」
エインは迷わず答えた。
「王国に危険が迫っています。戦力になる可能性があるなら、確認しなければいけません」
女性は少しだけ視線を逸らした。
「随分と変わった人間ね」
「そうでしょうか」
「少なくとも、今までの人間は、みんな違った」
エインはその言葉を聞いた。しかし、何を意味しているのかまでは分からない。
「王から、あなたを外へ出してはならないと言われています」
「そう」
女性の返事は短かった。
「理由は聞いた?」
「いいえ」
「聞かなかったの?」
「聞く必要がないと思いました」
女性が再びエインを見る。
「なんで?」
「あなた自身に聞けばいいと思ったからです」
地下牢の中が静かになった。女性はすぐには答えず、長い時間エインを見ていた。
「……昔、この国には一人の王がいた」
突然だった。しかし、エインは口を挟まなかった。
女性はそのまま話を続ける。
「私が初めて会った、自分より魔術の扱いに長けた人間」
エインの目が僅かに動いた。
「その人が、この王国の初代国王だった」
女性の視線は、エインではなく遠くを見ていた。まるで、ここにはない何かを見ているようだった。
「私は、それまで自分より魔術を扱える存在を知らなかった」
声は変わらない。感情を強く表すこともない。しかし、その言葉には、確かな事実だけがあった。
「魔法も、魔術も、魔力も。私にとっては、ずっと身近なものだった」
エインは静かに聞いている。
「そして、魔族も」
女性はそこで一度言葉を止めた。
「私は、魔の始祖」
エインは黙っていた。
女性は続ける。
「魔法。魔術。魔族。魔力」
一つずつ、確かめるように言葉を並べる。
「そのすべての始まりに、私はいる」
地下牢の空気が、先ほどまでとは違って感じられた。しかし、エインの表情は変わらなかった。
女性はそれを見ていた。
「驚かないのね」
「驚いています」
「そうは見えない」
「どう反応すればいいのか、分からないだけです」
女性は僅かに目を細めた。
「正直ね」
エインは少しだけ考えた。
「王が、あなたを外へ出してはならないと言う理由は分かりました」
「分かった?」
「少なくとも、普通の人ではないということは」
女性は何も言わなかった。
エインは続ける。
「初代国王と出会ったあと、あなたはどうして王国にいたんですか」
女性は少しだけ視線を落とした。
「初代が死んだあとも、この国が存続するように」
「そのために?」
「そう」
「初代国王のために?」
「初代が生きている間は、そうだったのかもしれない」
女性はゆっくりと言った。
「でも、彼が死んだあとも私はここにいた」
「王国のために」
「そうね」
エインはその答えを聞きながら考えた。
魔の始祖。
初代国王を認めていた存在。
そして、初代の死後も王国が続くように、この地に留まり続けていた。
「では、なぜここにいるんですか」
女性はエインを見る。
「二代目の王が、私を犯罪者にした」
「……犯罪者に?」
「そう」
「あなたが何かをしたわけではなく?」
「何もしてない。私は犯罪者として扱われた」
女性は、それ以上の説明をしなかった。
エインも追及しなかった。
まだ知らないことが多すぎる。
今ここで、自分の考えだけで判断するべきではない。
「それから、ずっとここに?」
「そうね」
「自分から王国を出ることは考えなかったんですか」
女性は少しだけ首を傾げた。
「なぜ?」
「投獄されたのなら、ここにいる理由はなくなったと思ったので」
「王国に留まる理由は、初代だけではなかった」
その答えを聞き、エインは黙った。
女性は地下牢の奥を見た。
「この国は続いてきた」
「はい」
「初代が死んでも」
エインは答えなかった。
女性も、答えを求めているわけではないようだった。
「だから、私はここにいる」
「牢の中でも?」
「ここにいることと、この国を見ていることは違わない」
エインはその言葉を聞いた。
王国を守るために残った。
二代目によって犯罪者に仕立て上げられた。
それでも、王国から去らなかった。
エインには、まだ理解できない部分があった。
しかし。
少なくとも、今この女性が王国を滅ぼそうとしているわけではない。
「それで」
女性が言った。
「あなたは、私に何を求めているの」
エインは答えた。
「王国を守るために、力を貸してほしい」
「私が断ったら?」
「諦めます」
女性の視線が止まる。
「諦める?」
「はい」
「あなたは、私を戦力として考えてここへ来た」
「可能性としては考えました」
「なら、断られても?」
「無理に協力させることはできません」
女性はしばらくエインを見ていた。
「ペア契約は使うつもりは?」
エインは首を横に振った。
「今のところは」
「今のところ?」
「あなたが誰と契約するべきなのかも、そもそも契約が必要なのかも分かりません」
エインの言葉に、女性は僅かに笑った。
「本当に何も決めずに来たのね」
「はい」
「変な人間」
「よく言われます」
「誰に?」
「……何人かに」
女性は再び笑った。ほんの僅かだったが、それまでとは違う表情だった。
エインは女性を見た。
「僕は、あなたの力を知りません」
「そうね」
「だから、協力してほしいとも、戦ってほしいとも、まだ言えません」
女性の表情が戻る。
「では、なぜ来たの?」
「あなた自身の考えを知りたかった」
その答えに、女性は黙った。
「王国が危険な状況にあります。僕は、王国を守るためにできることを探しています」
エインは続ける。
「あなたが王国をどう思っているのか。それを知りたかったんです」
「それを知って、どうするの」
「協力をお願いするかどうかを決めます」
「私を?」
「はい」
女性はゆっくりと目を閉じた。
「面白いわね」
エインは首を傾げた。
「何がですか」
「王は私を恐れている」
「そうでしょうね」
「二代目以降、この国の人間は、私を閉じ込め続けてきた」
女性は目を開いた。
「なのに、あなたは私が協力するかどうかを聞きに来た」
「閉じ込めることと、協力を求めることは関係ないと思います」
「そう」
女性は少しだけ考える。
「王国が危険だと言ったわね」
「はい」
「敵は、竜と幻獣の死霊」
「可能性ではなく、死霊術師自身がそう話していました」
「それに死霊術」
女性の声が僅かに変わった。
「禁止された魔法ですね」
「そうね」
「過去に、多くの争いを起こしたと聞いています」
「聞いているだけ?」
「はい。僕は実際に見たことがありません」
女性はエインを見ている。
「あなたは、死霊術師をどうするつもり?」
「止めます」
「殺す?」
エインは少しだけ沈黙した。
「必要なら」
「死霊は?」
「王国へ向かわせません」
「竜も、幻獣も?」
「はい」
女性は再び黙った。
「あなた一人で?」
「できるとは思っていません」
エインは答えた。
「だから、王に人を集めてもらいました。皆で対策を考えています」
「それでも、ここへ来た」
「はい」
「私が必要だと思った?」
「必要になる可能性があると思いました」
女性は、今度ははっきりと笑った。
「徹底しているわね」
「そうですか」
「自分で判断しない」
「判断できる情報がないので」
エインは女性を見る。
「だから、教えてください」
「何を?」
「あなたは、今でも王国が存続することを望んでいますか」
地下牢が静まり返った。
女性はすぐに答えなかった。
長い沈黙。
やがて。
「……分からない」
エインは何も言わない。
「初代がいた頃とは違う」
女性は続けた。
「二代目に犯罪者にされて、それから長い時間が経った」
その声に、初めて僅かな重さがあった。
「王も変わった。人間も変わった。この国も変わった」
女性はエインを見る。
「それでも、私はここにいる」
エインはその言葉を聞いた。
「だから」
女性は続ける。
「あなたの話を聞いてみようと思った」
「ありがとうございます」
「まだ協力するとは言っていないわ」
「はい」
「私は、あなたの言葉を聞いただけ」
「それで十分です」
女性は少しだけ呆れたように息を吐いた。
「あなたは本当に変ね」
「そうかもしれません」
「名前は、エインだったわね」
「はい」
「覚えておく」
その言葉に、エインは僅かに頭を下げた。
「僕も、あなたの名前を聞いてもいいですか」
女性は黙った。
そして。
「まだ早いわ」
エインは少しだけ目を瞬かせた。
「そうですか」
「また来なさい」
女性は言った。
「王国を守りたいのなら、あなたにはまだ知るべきことがある」
エインは女性を見た。
「それは、あなたについてですか」
「それだけじゃない」
「では、何を」
「次に来た時に話すわ」
女性はそう言うと、ゆっくりと暗闇の奥へ戻っていく。
「待ってください」
エインが呼び止める。
女性は止まらなかった。
「協力については?」
暗闇の中から、声だけが返ってきた。
「まだ決めていない」
そして。
少し間を置いて。
「でも、断ってもいない」
エインは、その言葉を聞き、安心したような不安が加速したような感覚にみまわれた。暗闇の奥には、もう女性の姿は見えない。残された地下牢は、再び静かになった。
エインはしばらく、その場から動かなかった。
魔の始祖。初代国王を認めた存在。初代の死後も、王国のために残った存在。そして、二代目によって犯罪者に仕立て上げられた女性。
彼女が今、何を考えているのか。まだエインには分からない。しかし、一つだけ確かなことがあった。王国に迫っている危機は、待ってはくれない。
残された時間は、八日か九日。
エインは扉の前から離れた。
「また来ます」
返事はなかった。それでもエインは、そのまま地下牢を後にした。王城の地上へ戻る階段を上りながら、エインは次にするべきことを考えていた。
敵への対策、防衛線の構築、霧への対抗手段、竜と幻獣の情報。
そして。
魔の始祖という、まだ何も分からない存在。
王国を守るために集められた者たちは、すでに動き始めている。
残された時間の中で、どこまで準備できるのか。
エインは足を止めなかった。
王国に迫る戦いは、すでに始まっていた。




