第36話 帰還
王国へ続く街道を、エインは走り続けていた。
すでにどれくらい走ったのか、自分でも分からない。途中で休息を取ることもなかった。魔力を身体へ巡らせ、疲労を可能な限り抑えながら、ただひたすら前へ進む。
本来なら、王都まで数日を要する距離だった。
しかし、エインには時間がなかった。館で聞いた言葉が、何度も頭の中を巡っている。
十日後の夜明け前、朝日を背に王国を奪る。
死霊術によって動かされる竜と幻獣。そして、それ以外にも存在するであろう大量の死霊。敵がどれほどの数を用意しているのか、正確なところは分からない。それでも、館の中で聞いた会話だけで理解できることがあった。
王国は、これまで経験したことのない規模の脅威に晒されている。
西から現れた魔物の群れとは違う。あの時は敵の目的がなかった。ただ魔物が王都へ近づき、結果として防護壁の外へ集まっただけだった。
しかし、今回は違う。敵には意思があり、計画がある。王都を攻めるという明確な目的がある。
エインはさらに速度を上げた。
地面を蹴るたび、靴底が土を削る。視界の端を木々が流れ、風が身体を押さえつけようとする。通常なら身体が悲鳴を上げる速度だったが、エインは魔纏を維持したまま走り続けている。
魔力を身体へ巡らせ、脚の筋肉を動かす。呼吸を整えつつ、周囲の魔力を探る。
疲労は蓄積していく。それでも止まる理由にはならなかった。王都へ辿り着くまでに少しでも時間を縮めることが、今のエインにとって最も重要だった。
やがて、遠くに巨大な防護壁が見え始める。円形に王都を囲む防護壁。その壁を見た瞬間、エインの表情がわずかに変わる。
戻ってきた。防護壁の向こう側には、多くの人間が暮らしている。百万を超える人々。商人、兵士、職人、子ども、そして、大切な人間たち。
もし、館で聞いた通りの敵が王都へ到達すれば、その全員が戦いに巻き込まれる。
エインはまだ速度を落とさなかった。
王都の門が近づく。
門の前では、いつも通り衛兵たちが出入りする人間を確認していた。しかし、地面を削るような速度で近づいてくる人影を見つけると、衛兵たちはすぐに警戒した。
「止まれ!」
複数の衛兵が前へ出る。
エインはようやく速度を落とした。急停止した身体の周囲で、砂埃が舞う。
衛兵たちは驚いたようにエインを見ていた。
息があがり、頬には小さな切り傷が見える。服には泥がついていた。
長距離を移動してきたことは一目で分かる。しかし、それ以上に異様だったのは、その目だった。
エインが衛兵たちを見た瞬間、周囲の空気が変わった。怒鳴ったわけではない。魔力を放ったわけでもない。ただ、見ただけだった。
それでも、衛兵たちは無意識に息を止めた。
そこにあったのは、これまで王都で見せていた穏やかな少年の目ではなかった。一瞬でも邪魔をすれば、その先に何が起きるか分からない。そんな感覚だけが、本能的に伝わってくる。
エインは衛兵たちを見据えたまま、静かに口を開いた。
「申し訳ありません。今は急ぎます。確認が必要なことは分かっていますが、後ほど必ず対応しますので、通してください」
言葉遣いは丁寧だった。声を荒げることもない。それなのに、誰もすぐには返事ができなかった。先頭に立っていた衛兵が、ようやく息を吐く。
「……エイン様、ですか」
「はい」
衛兵は一度、周囲を見た。
止める。それが仕事だったはず。
何があったのか確認しなければならない。しかし、今のエインを見てそれを言える者はいなかった。
「お通りください」
「ありがとうございます」
エインは短く頭を下げると、再び走り出した。
門を抜け、王都へ入った瞬間、人々の声が聞こえてくる。
商人が客を呼ぶ声、馬車の車輪が石畳を進む音、子どもたちの笑い声。
いつもと変わらない王都の中をエインは進んだ。
防護壁の内側では、人々はまだ知らない。何が近づいているのか。十日後、何が起ころうとしているのか。
だからこそ、今は一刻も早く動かなければならなかった。
王宮は王都の南端、防護壁に近い位置にある。そこへ向かう間にも、エインの頭の中では考えが止まらなかった。
最初に集めるべき人間。
ノエン、ヴィタ、アイン。
そして、学院の教師として集めた四人。
セドリック、ミレイア、ガルド、アレシア。
それぞれに必要な理由がある。
ノエンには未知の魔法を解析する力がある。ヴィタには、魔物や生物を解析する知識が、セドリックは既存の理論に囚われない魔法研究者だ。
ミレイアは、魔物を使役するという、この世界でもほとんど存在しない技術を持っている。ガルドは戦闘技術を体系化し、兵士を鍛えることができる。アレシアは戦いを知っている。
そしてアインは、今の王国軍を最も理解している人間の一人だった。
誰か一人では足りない。今必要なのは、それぞれの知識だった。
エインは王宮へ到着すると、入口の衛兵へ自分の名前を告げた。
「王にお会いしたい」
「申し訳ありません。現在、陛下は――」
「緊急です」
衛兵の言葉が止まる。エインの表情を見て、衛兵も何かを察したのだろう。
すぐに別の衛兵が王宮の奥へ走っていった。
待つ時間が長く感じる。エインは落ち着いているように見えたが、右手は無意識に握られていた。爪が掌へ食い込むほどに。
自分でも分かっている。冷静でならなくてはならない。焦って判断を誤ることはできないと。
しばらくして、先ほどの衛兵が戻ってくる。
「陛下がお会いになります」
「ありがとうございます」
案内に従い、王宮の奥へ進む。長い廊下を歩き、いくつもの扉を通り過ぎる。そして、目的の部屋へ辿り着き、扉が開く。
部屋の中には、王がいた。
エインを見ると、王はすぐに表情を変えた。
「エイン。戻ったのか。遠方の調査へ向かったと聞いていたが、一体何が――」
「陛下」
エインは王の言葉を遮った。普段の彼なら、まずしないことだった。王も、そのことに気づく。
「申し訳ありません。説明は後で必ずします。ただ、今は時間がありません。今から名前を挙げる人間を、できる限り早くここへ集めてください」
王は沈黙し、エインの目を見る。その表情から、冗談ではないことを理解した。
「分かった。誰だ」
「まず、ノエン・ヴァルディスとヴィタ・セレナ」
エインは間を置かずに続けた。
「次に、軍事学院の教師として招いた四人。セドリック・アーヴェル、ミレイア・セレナ、ガルド・ヴェイン、アレシア・ヴァルド」
王の眉がわずかに動く。
「そしてアインを」
そこまで言って、エインは一度だけ息を吐いた。
八人。
自分を含めれば、九人になる。
これから話す内容は、誰か一人の知識だけで判断できるものではない。
「全員を、ここへ?」
「はい」
王はエインを見たまま、しばらく考えた。
「理由を聞いてもいいか」
「集まってから説明します」
エインは即座に答えた。
「一人ずつ説明している時間がありません。全員が揃ってから、僕が見たもの、聞いたものを話します。その上で、それぞれの意見が必要です」
王は椅子から立ち上がった。
「分かった」
その声には迷いがなかった。
「すぐに人を動かす」
王は近くにいた側近へ視線を向ける。
「今、名前を聞いた者たちを集めろ。どこにいるか分からなければ探せ。理由を聞かれても、国王の命令だと伝えればいい。エインが呼んでいると」
「承知しました」
側近たちが一斉に動き出す。
部屋を出ていく足音を聞きながら、エインはようやく小さく息を吐いた。
最初の準備は整った。しかし、これからだ。館で聞いたことを伝える。竜、幻獣、死霊、未知の霧。そして、十日後に迫る王都への侵攻。
それを聞いたとき、彼らは何を考えるのか。そして、この王国に何ができるのか。
エインは窓の外へ目を向けた。王都はいつもと変わらない。人々は何も知らずに生活している。だからこそ、守らなければならない。隔たりなく、全ての人を。
残された時間は、十日。エインはその数字を頭の中で繰り返した。
十日しかない。いや、まだ十日ある。その時間をどう使うかで、この王国の未来は変わる。
エインは王の前に立ったまま、静かに次の瞬間を待っていた。




