第35話 死霊
霧の中をどれほど歩いただろうか。
エインは二重に施した魔纏を維持したまま、慎重に足を進めていた。周囲を覆う白い霧は、先ほど自らの魔法によって道を作った場所から離れるにつれ、再び濃さを増している。視界は狭く、数歩先さえ曖昧だった。
魔力の流れに異常はない。身体にも変化はない。それでもエインは、魔纏を解除するつもりはなかった。一度でも霧に触れれば終わる。
魔力を分解し、物質を砕く。この霧がどこまで影響を及ぼすのか、まだ完全には分かっていない以上、自分自身を使って確かめるほど愚かな真似をするつもりもなかった。
しばらく歩き続けた頃、白い景色の奥に黒い影が浮かんだ。
エインは足を止める。
最初は岩かと思った。しかし、霧がわずかに揺れ、その全体が見えた瞬間、エインは眉をひそめた。
館だった。
周囲には何もない荒地が広がっているはずの場所に、一軒だけ、古びた大きな館が建っている。外壁には長い年月による汚れが残り、窓のいくつかは割れている。それでも完全に崩壊しているわけではない。むしろ、この何もない土地に、その館だけが不自然なほど形を保っていた。
霧は館を中心に広がっているように見えた。
エインは館へ近づいた。
その途中で、人影を見つける。
一人、二人。さらに、その奥にもいる。
エインはすぐに足を止めた。
「……調査団か」
服装に見覚えがあった。
王国から派遣された調査団が身につけていた装備。その一部が、目の前に立っている人間たちにも残されている。
帰ってこなかった者たち。
しかしエインは近づくことができなかった。一目見ただけで分かる。あれは、人間ではない。正確には、人間だったものだ。
一人の男が、館の前をゆっくりと歩いている。足取りは不自然で、身体の動きには生気がない。腕は力なく垂れ下がり、首もわずかに傾いている。
顔色は死人のものだった。肌には生気がなく、目も、何も見ていない。
それでも、動いている。奥にいる者たちも同じだった。
死体が、そのまま歩いている。誰かの命令に従うように。
「……死霊術」
エインは小さく呟いた。
この世界において、死霊術は禁術だった。単に危険だから禁止されているわけではない。死者を冒涜する行為であり、死者を道具として扱う行為である。そして何より、過去に多くの争いを生み出した魔法だった。
死者は命令に従う。恐怖を感じない。疲労もしない。痛みも関係ない。
死霊術を軍事利用した国があったという記録も残っている。兵士を失っても、その兵士が次の兵士として再び戦場へ戻ってくる。戦争が終わっても、命令を受けた死者だけが動き続けた例もある。その危険性から、死霊術は世界規模で禁じられた。現代の王国では、研究対象として扱われることすらほとんどない。
それを目の前の誰かは使っている。
エインは館を見上げた。
「少なくとも、普通の人間じゃない」
死霊術を使えるということは、過去の文献を知っている可能性が高い。
封印された魔法、失われた術式、意図的に探さなければ辿り着けない知識。
そして、その知識を使い、死体を操っている。まともに会話ができる人間ではないだろう。少なくとも、常識的な倫理観を持っている可能性は低い。
エインは館の周囲を確認した。
死霊たちは一定の範囲を歩いている。館から離れる者はいない。そして、館の内部にも人影が見えた。
死霊術には一つの特性がある。
術者は、命令を更新するために自身の魔力と死体を繋ぐ必要がある。その繋がりは、どこまでも維持できるものではない。距離が離れれば、制御は難しくなる。当然、死霊の数が増えれば、その負担も大きくなる。
つまりらこれだけの死体を操っている術者がいるのであれば、遠くにはいない。
「館の中ですね」
エインは視線を上げた。
最も高い場所。館全体を見渡せる位置。そして、魔力を広範囲へ繋げるためにも都合がいい場所。おそらく、術者はそこにいる。
エインは死霊たちの動きを観察した。
正面から戦うこともできる。しかし、戦う必要はない。術者を見つける前に死霊を破壊すれば、館の中にいる人間へ警戒される可能性がある。
目の前にいる者たちは、かつて王国の調査団だった。
敵ではある。しかし、エインは剣を向けることにわずかな抵抗を覚えた。死んだ者たちだ。自分の意思で戦っているわけではない。
「できれば、壊さずに終わらせたいですね」
エインは館の側面へ回り、死霊たちの視界を避ける。
動きは鈍い。だが、完全に無能ではなかった。一定の間隔で周囲を確認し、何かを探すように首を動かしている。
エインは魔纏によって強化された身体能力を利用しながら、物音を立てずに移動した。館の壁へ背を預け、窓を確認する。
一階、誰もいない。
エインは窓から中へ入った。
館の内部は暗く、長い廊下が続いている。壁には古い絵画が掛けられ、床には埃が積もっていた。
しかし、人が歩いた跡がある。
いや、人ではない。引きずるような足跡が、廊下の奥へ続いていた。
エインは音を殺して進んだ。
途中で何度か死霊と遭遇した。一度は廊下の角から、一人の男が現れた。エインはすぐに近くの部屋へ身を隠す。男は気づく様子もなくゆっくりと廊下を歩いていく。
エインは顔を確認する。やはり、調査団の一人だった。
「……帰ってきた人たちが、相手を説明できなかった理由も分かりますね」
帰還した調査団の生存者たちは、何に襲われたのかを明確に説明できなかった。
当然だ。死んだはずの仲間が歩いている。さらに、その周囲には別の何かがいた。それを正常な状態で説明できる者が、どれだけいるだろう。
エインは階段を見つけ、上へ向かう。一階、二階。
館は予想以上に大きかった。そして上へ進むほど、人の気配が濃くなっていく。死霊の数も増えていた。しかし、それはエインの予想を裏付けるものでもあった。
術者に近づいている。
やがて、最上階へ続く階段を見つけた。その先には、一つだけ大きな扉がある。館の中で最も高い場所。
エインは壁際へ寄り、ゆっくりと近づいた。
扉は完全には閉じられておらず、わずかに開いている。
中から声が聞こえ、エインは足を止める。
そして、開いた隙間から中を確認するのではなく、壁に背を預けたまま耳を澄ませた。
「王国が力を持ち過ぎている」
低い男の声だった。
「軍の数も増え、王都の防衛も強化されている。あの防護壁だけでも厄介だ。時間を与えれば、さらに手をつけられなくなる」
別の声が答えた。
「だが、隣国は使えない。あの国は、滅ぼされかけて以来、反乱を起こすことに異常な恐怖心を持っている。協力を求めたところで、まともな戦力にはならないだろう」
エインの目がわずかに細くなった。
複数人。最初の判断が揺らぐ。しかし、すぐに次の言葉が聞こえた。
「隣国など頼らなくてもいい。死霊どもがいる。戦力としては十分だ」
エインは呼吸を止める。
「それに、あの霧も使える。王都へ向けて放てば、それだけでも向こうの戦力はかなり減るだろう。防護壁がどこまで対応できるのかは知らんが、兵士どもが魔法を使えなくなるだけでも十分だ」
「死霊の数が、まだ足りないのではないか」
「心配するな」
男の声が答えた。
「竜族や幻獣族の墓で、すでに死霊を増やしてきた。数は問題ない。そのためにリード族を使っていたのだ。今となっては無用だがな」
エインの表情が変わった。
竜族。
幻獣族。
一瞬、その言葉の意味を整理する。
しかし、すぐに次の声が続いた。
「リードはよく働いた。死体の匂いを辿る能力は大したものだった。墓を探すにも、戦場跡を探すにも役に立った」
リード族。
エインは、その名前を知っていた。かつて、戦場の掃除屋と呼ばれていた種族。戦争が起きると、どこからともなく現れる。そして、死体を食らう。一体の大きさは手のひらほどしかない。それでも数が異常だった。
一晩で集まり、翌朝には戦場から死体が消えている。
そんな記録さえ残っている。
旺盛な食欲、死肉を好む習性、そして、死体の匂いを辿る能力。
「いつ攻める?」
部屋の中から、別の声がした。
「いつでもいい」
答えは、あまりにも軽かった。
「今からでもな」
「なら、決めよう。今から動き始める。十日後の夜明け前に侵攻を開始する」
短い沈黙があった。
そして。
「朝日を背にする。こちらは東から攻める。王都の西側には以前、魔物の群れが現れた。向こうは警戒を続けているだろう。なら、反対側から攻める方がいい」
エインの視線が扉へ向く。
「十日後の夜明け前。朝日を背に、王国を奪る」
その言葉を聞いた瞬間、エインは目を閉じた。
十分だった。これ以上聞く必要はない。
少なくとも、今この場所にいる者たちが王国への攻撃を計画している。それは間違いない。
さらにエインは、もう一つのことを理解していた。
術者を殺せば終わりというほど単純ではない。死霊術は、術者が死ねばすべての死霊が止まる魔法ではない。命令を受けた死霊は、最初に与えられた命令を完遂するまで動き続ける。術者が死んでも、魔力の供給が断たれても、すでに命令が与えられているのであれば、死霊は動く。
つまりここで術者を殺せば、竜と幻獣の死霊が自動的に王国へ向かう可能性がある。何体いるのかも分からない。
「……まずいですね」
エインは静かにその場を離れた。
今は戦うべきではない。この館を消し飛ばすこともできる。エインの力なら、館どころではない。この霧を含め、この一帯を消し去ることさえ可能だった。
だが、それでは駄目だった。
この計画が、完全にこの場所だけで完結しているとは限らない。
先ほど聞こえた会話ら複数人の声、死霊術、霧、竜と幻獣の死体。
どこまでが、この場所にいる者たちの計画なのか。背後に組織がいるのか。他にも協力者がいるのか。それを確認する必要がある。何より、今は王国を守る方が先だった。
エインは来た道を戻り始めた。
死霊を避け、音を立てないように館の外へ出る。霧の中の道を進み、川へ向かう。
歩きながら、頭の中で情報を整理していく。全てが繋がった。調査団を殺した存在は一体ではない。竜、幻獣、そしてそれまでに死霊として使われていた何か。
死因が多岐にわたっていた理由も説明できる。
鋭利なもので切断された者、焼かれた者、川で溺れた者、異常な速度で腐敗した者。
竜には多くの種類が存在する。
炎を吐く竜もいれば、毒を持つ竜もいる。毒竜の中には、身体の腐敗を急速に進める毒を持つものもいる。
そして幻獣。
幻獣については、さらに情報が少ない。存在そのものを疑問視する者さえいる。姿を変えら特性を変える。記録によって能力が違う。同じ存在を別々の名前で記録している可能性すらある。それが死霊になっている。
エインは川へ到着すると、足を止めずに魔法を使った。
再び水の流れを制御して、足場を作るら、そのまま川を渡った。
対岸へ着いた瞬間、背後を振り返る。
霧は静かだった。館も見えない。あの場所に、何体の死霊がいるのか。竜が何体いるのか。幻獣が何体いるのか。
何も分からない。しかし、一つだけ分かっている。
王国に、これまで経験したことのない危険が迫っている。先日の魔物の大群とは比べものにならない。戦争とも違う。
竜は、一体で街を滅ぼすと言われている。そして幻獣は、何ができるのかすら分からない。その存在が複数。しかも、死霊として操られている。
「十日……」
エインは呟いた。
十日後。
夜明け前。
王国までの距離を考える。
エインがここまで歩いてきた時間。
通常であれば、数日は必要になる。
しかし竜は飛ぶ。
途中で休息を取ったとしても、三日もあれば王国へ到達できる可能性がある。
十日という期限は、猶予ではない。
相手が侵攻を始めるまでの時間だ。
それまでに、王国の守りを固めなければならない。
「急がないと」
エインは走り出した。
最初は魔纏を維持したまま、地面を蹴る。一歩で距離を稼ぎ、速度を上げる。周囲の景色が後ろへ流れていくが、構わずさらに加速する。身体の隅々まで魔力を流し、筋肉を動かす。疲労を感じても速度を落とさない。
今は休んでいる時間が惜しい。
王国にはアインがいる。鍛え上げてきた軍もいる。ノエンも、ヴィタも、ルカもいる。しかし、それでも足りるとは思えなかった。
竜、幻獣、死霊、そして全てを分解する霧。これまで王国が経験してきた戦いとは、まったく違う。
エインは走る。
ただ、一秒でも早く。王国へ戻るために。風が顔を叩く。景色が流れる。その間も、頭の中では次々と対策が組み立てられていた。防護壁は、空からの魔物には絶対的な効果を持つ。触れた瞬間に塵になるが、竜の死霊にも同じ効果があるのか。死者を対象として、防護壁はどう判断するのか。魔法によって動いている存在を、生物として認識するのか。
分からない。分からないことが多すぎる。
そして、霧。あれを王都へ向けて放つと言っていた。
全てを分解する霧。兵士たちの多くは、エインとアインによる訓練を受けている。魔力を扱える者も増えた。魔纏を目指している者もいる。だが、その魔力そのものが使えなくなれば。
「……最悪ですね」
エインは歯を食いしばった。
だからこそ急がなければならない。今から戻れば、まだ間に合う。相手が十日後に攻撃すると決めているのであれば、それまでに準備できる。
軍を動かす。王へ報告する。ノエンとヴィタへ情報を共有する。アインにも知らせる。そして、必要であれば学院の建設など、後回しにする必要がある。
今は王国を守る。それが最優先だった。
エインはさらに速度を上げた。
魔纏によって強化された身体が、地面を蹴り、土が後方へ飛ぶ。身体はすでに疲労を感じ始めている。しかし、止まらない。走りながら、エインは一度だけ背後を振り返った。
遠く。すでに霧は見えない。もちろんその中にある館も、死者たちも、王国を奪うと語った者たちも。
今は、まだ動いていないが、それは、もうすぐ動き出す。
十日後の夜明け前。王国へ向けて。
エインは前を向いた。
王都は遠い。それでも、行かなければならない。自分が見たものを伝えなければならない。王国に迫る危険を知らせなければならない。最大限の備えをしなければならない。
これまでの戦争や魔物の襲来など、比較にならない。王国の歴史そのものを変えるほどの危機が、すぐそこまで迫っている。
エインは、ただ走り続けた。
一秒でも早く。一歩でも遠くへ。
王国へ。仲間たちのいる場所へ。迫り来る死者たちよりも早く、王国の守りを固めるために。




