第34話 霧中
調査地へ到着したのは、王都を出てから数日後のことだった。
エインは街道を外れ、人気のない細い道を歩いていた。周囲には人の手が入っていない草原が広がり、その向こうには低い山々が連なっている。王都周辺とは違い、ここまで来ると人の気配はほとんどなかった。
地図を確認する必要はなく、目的地は、すでに目の前にあった。
小さな村。正確には、小さな村だった場所、と表現するべきだろう。
簡素な木造の家屋が並び、その間を細い道が通っている。畑だったと思われる土地も残っていた。しかし、人影は一つもない。家の扉は開いたままになっているものがあり、風が吹くたびに古びた扉がゆっくりと揺れていた。
エインは村の入り口で足を止めた。
「……ここか」
今回の調査目的は明確だった。
この村が滅びた原因を調べること。そして、その原因が王国の国防にどの程度の影響を与えるのかを判断することだった。
遠方の調査へ向かった一団は、当初の半分以下になって帰還した。生き残った者たちは何かに怯え、まともな説明をすることもできなかったという。
その調査団が何を見たのか、何に襲われたのか、そしてなぜこの村の人間たちは消えたのか。
エインは慎重に村へ足を踏み入れた。
最初に探したのは戦闘の痕跡だったが、それはすぐに見つからなかった。
建物に大きな破損はない。壁が壊された形跡もなく、魔物が暴れたような痕跡も見当たらない。地面にも大量の血痕はなかった。村そのものは、ほとんど無傷だった。それが、かえって不自然に見える。
エインは一軒の家へ入った。
室内には生活の痕跡が残っている。机の上には食器が置かれたままになっていた。食べ物らしきものも残っている。急いで荷物をまとめた様子はない。
寝室には衣服が残されていた。棚には日用品が並んでいる。
村人たちは、生活を捨てて逃げた。少なくとも、その可能性が高い。
エインは家を出て、村の中央へ向かい地面に視線を落とす。
時間は経っているが、人が移動した痕跡は完全には消えていなかった。
複数人。
いや、村全体の人間が同じ方向へ移動したような跡がある。
エインは、その方向を見た。
王都とは逆だった。
「……なぜ」
村から王都へ向かうのであれば、助けを求めることができる。途中で他の町や街道へ合流することも可能だ。それなのに、村人たちは王都とは反対方向へ逃げていた。その先には大きな川しかない。
エインは村を出た。
足跡のような痕跡を追いながら歩く。
草は踏み倒されている。複数の人間が、同じ方向へ移動しており、途中で引き返した形跡もない。
そして、しばらく進んだ先で、川の音が聞こえ始めた。
エインは歩く速度を落とした。
水の流れる音。それ以外には何も聞こえない。やがて視界が開け、幅の広い川が目の前を横切っていた。
しかし、エインの視線は川には向かなかった。川岸に、人が倒れている。
「……」
エインはすぐに近づいた。
一人ではない。二人、三人。さらに、その先にもある。
エインはそのうちの一人のそばへ膝をついた。
服装を確認し、王国の調査団が使用しているものと一致していた。この地へ派遣された調査団の一員だ。
間違いない。
だが、死体の状態は異常だった。
一人は、身体が鋭利な何かによって切断されていた。剣、あるいは、それに近いもの。傷口は荒れていない。力任せに引き裂かれたものではなく、一撃で切断されたように見えた。
エインは次の死体へ移動した。
こちらには目立った外傷がない。しかし、すでに腐敗が始まっていた。
「早すぎる……」
死んでから、それほど時間が経っているようには見えない。それでも皮膚は変色し、異様な臭いが漂っている。
何らかの毒、病気、あるいは別の何か。現時点では判断できなかった。
さらに調べる。
三人目は焼けていた。
衣服も、皮膚も黒く焦げている。近くの地面にも焼けた跡が残っていた。そして、少し離れた場所には、川の中で死んでいる人間がいた。
溺死。
少なくとも、一つの原因だけでは説明できない。
エインは立ち上がり、周囲を見渡した。
切断された者、異常な速度で腐敗した者、焼かれた者、溺れた者。
「……一体ではない」
自然と、その言葉が口から漏れた。
仮に一種類の魔物に襲われたとしても、これほど異なる死に方を説明するのは難しい。もちろん、一体の魔物が複数の能力を持っている可能性はある。しかし、それよりも単純な仮説がある。
調査団が遭遇したものは、一体ではなかった。
複数の何か。異なる能力を持つ存在。あるいは、異なる種族。
エインは再び川岸を見た。
死体は、ここで終わっていなかった。川の向こう岸にも、人影のようなものが見える。
「……向こうへ行ったのか」
村人たちが逃げた先、調査団が死んだ場所。その先は、川の向こう側へ続いていた。
橋はなく、流れも速い。泳いで渡ることはできるだろうが、今の状況では避けるべきだった。
エインは右手を前へ出した。
魔力を集める。
水面の上で空気がわずかに揺れた。
次の瞬間、川の流れの一部が押し分けられた。
水そのものを完全に止めるのではない。エインは流れを制御しながら、その上へ空気の足場を作った。魔力で圧縮された空気によって生まれた足場を、一歩ずつ進んでいく。
川を渡り終えた頃には、向こう岸の異様さがはっきりと見えていた。
地図を確認する。この先は荒地のはずだ。草木は少なく、人が住む場所ではない。記録にも、特別な危険地帯としては記されていない。しかし、実際の光景はまったく違っていた。
その先には、霧があった。
深い霧だった。
地面を覆う程度ではない。視界を完全に遮るほど濃く、白い壁のように広がっている。
風が吹いている。それでも霧は流れなかった。まるで、そこに固定されているかのようだった。
エインは足を止めた。
「……自然の霧じゃないな」
近づくほど、違和感が強くなる。
鳥の声がない。虫の音もない。霧の向こう側から、何かが聞こえることもなかった。まるでこの世界でそこだけ音が消えたかのように。
ただ、静かだった。静かすぎた。
エインは足元から石を拾った。何の変哲もない石だった。
それを霧へ向かって投げる。石は回転しながら飛んだ。そして霧に触れると、
――パキッ。
石に亀裂が入った。
空中で割れる。さらに進んだ瞬間、細かく砕けた。
エインは目を細める。
石の破片は霧の中へ落ちていく。しかし、地面へ到達する頃には、ほとんど粉になっていた。
「……」
エインはしばらく霧を見つめた。右手を上げ、風の魔法を発動する。目に見えないほど鋭い風が生まれ、霧へ向かって進む。本来なら、霧を押し流す程度の力はある。
しかし。
風は霧に触れた直後、消えた。何かに防がれたわけではない。霧が風を押し返したわけでもない。魔法そのものが、途中から存在しなくなった。
エインは魔力の流れを確認した。
「……魔法を分解した?」
確証はない。だが、可能性はある。
エインは再び石を拾った。
今度は、その石へ魔力を流し込む。一定量を均等に、石の内部まで魔力を行き渡らせる。魔力によって強化された石は、通常の石よりも硬くなる。
簡単には割れない。
エインはその石を霧へ投げた。
結果は、変わらなかった。
霧に触れた瞬間、石に亀裂が入る。砕ける。さらに細かくなる。地面へ落ちる頃には、最初に投げた石と同じように粉々になっていた。
エインは腕を組んだ。
「物質も分解する……」
ただし、先ほどの風の魔法と比べると、石の方がわずかに長く形を保っていた。魔力を使ったもの、物理的なもの。どちらも分解される。しかし、効果には差がある。
「魔力の方が、分解が速いのか」
エインは一度、頭の中を整理した。
現時点で分かっていることは少ない。
この霧は、物質を分解する。魔力によって構成された魔法も分解する。そして、おそらく魔力を多く含むものほど、その影響を強く受ける。
「……仮説としては、それくらいか」
だが、まだ確認する必要がある。
エインは右手を上げ、小さな魔法を放つ。
弱い魔法だった。霧に触れる。消える。
次に、出力を上げる。消える。
さらに上げる。やはり消えた。
エインは何度も魔法を放った。
風、火、圧縮、単純な魔力弾。
種類を変えても、結果は同じだった。霧に触れた瞬間から魔法は崩壊し、その形を失っていく。
ならば、さらに出力を上げればどうなる。
エインは徐々に魔力を増やしたが、小さな魔法が消える。大きな魔法も消える。
さらに大きくするが、それでも変わらない。霧は魔法を飲み込み、何もなかったかのように静止していた。
「……どこまでだ」
エインは、霧を見つめた。
普通の魔法では意味がない。それは理解した。ここで引き返すこともできる。今回の目的は、この霧を突破することではない。
調査だ。
危険性を確認し、王国へ持ち帰るだけでも十分な成果になる。しかし、川の向こう岸には死体があった。調査団は、この霧の先へ進んだ可能性が高い。そして、帰ってこなかった。村人たちもまた、何らかの理由でこちらへ逃げてきた。ここで調査を終えれば、何が起きているのかは分からないままだ。
エインは小さく息を吐いた。
「あまり使いたくはないんですが」
右手を前へ出し、魔力を集める。その瞬間、周囲の空気が変わった。
右手の前に、光が生まれる。小さな光だった。しかし、それは急速に大きくなっていった。
白い。あまりにも白い光。エインが以前、巨大な魔物を前にして使用しようとした魔法。
すべてを消し飛ばす。
物質も、魔力も、その場に残された痕跡さえも。本来なら、使いたくない魔法だった。しかし今回は、対象が霧だ。
「……加減はします」
光が、さらに膨らむ。
エインは一度だけ周囲を確認した。
村から十分に離れている。間には川もある。近くに人の姿もない。それでも、出力は必要最低限に抑える。
エインは前方は魔法を放った。光が一直線に霧へ向かって進む。そして光が霧に触れた。
――。
音はなかった。爆発も、衝撃もない。ただ、そこにあった空間が削り取られた。
霧が晴れる。いや、吹き飛んだのではない。そこに存在していた霧そのものが、空間ごと切り取られたように消えていた。
一直線の道が現れる。その先には、まだ濃い霧が続いている。しかし、エインの目の前から霧の奥へ向かって、一本の道だけが生まれていた。まるで最初から、そこには何もなかったかのように。
エインは右手を下ろした。
「……やっぱり、こっちの方が強いか」
当然といえば当然だった。
この魔法は、対象を破壊する魔法ではない。存在そのものを消し飛ばす。分解する霧に対して、分解される前に、その領域ごと消し去った。だから、道ができた。
しかし。
エインはその道を見つめながら、表情を変えなかった。奥が見えない。消えた霧の先にも、まだ何かがある。
「行くしかないな」
エインは剣を抜き、魔力を身体へ流し始める。
魔纏。
身体能力を大幅に引き上げる高等技術。
しかし、今回は一重ではなかった。
エインは全身を覆う魔力の流れを安定させたあと、さらにもう一つ、別の流れを作り始めた。
二重の魔纏。
外側と内側。
二つの魔力の層を、同時に維持する。
もし霧が再び発生したとしても、直接身体が分解される可能性を少しでも下げるためだった。
当然、負担は大きい。
二つの魔力を同時に、全身へ均等に流し続けなければならない。少しでも制御を誤れば、魔力の流れが乱れる。
それでも、エインは止めなかった。
「……これで、多少はましでしょう」
完全な安全などない。この霧の正体も分からない。二重の魔纏が本当に意味を持つのかさえ、まだ確認できていない。それでも何もしないよりはいい。
エインは、霧の消えた道へ足を踏み入れた。
一歩、二歩、三歩。
周囲は異様なほど静かだった。自分の足音だけが聞こえる。しかし、その足音さえも、少し進むと霧の中へ吸い込まれていくような気がした。
背後を振り返る。
川が見える。まだ戻れる。だが、その景色も霧によって少しずつ隠され始めていた。
エインは前を向いた。
二重の魔纏を維持したまま、魔力の流れを確認する。剣を握る。そして、さらに歩く。
霧の奥へ。調査団が消えた場所へ。村人たちが逃げてきた先へ。
何がいるのかは分からない。魔物なのか、魔族なのか、それとも、これまで王国が存在すら知らなかった別の何かなのか。
エインにはまだ何もわからない。ただ一つだけ確かなことがあった。
この霧の向こう側には、これまでの常識では説明できない何かがある。そして、それはすでに王国の外側で静かに存在している。
エインは歩き続けた。
霧の奥へ。何も見えない白い世界の中へ。二重に纏った魔力を絶やすことなく、ただ一人、前へ進んでいった。




