第33話 真実
エインが王都を離れたという知らせは、軍の訓練場にもその日のうちに届いた。
知らせを受けた直後、訓練場の空気は目に見えて変わった。それまで走りながら魔力を操作していた兵士たちも、素振りを繰り返していた前衛の者たちも、次第に手を止めていく。
理由は単純だった。
エインが、一人で王都の外へ出た。
遠方の調査隊が半数以下になって帰還した。その調査先へ、何が起きたのかを確認するために向かったのだという。
しかも同行者はいない。護衛も、兵士も、誰も連れていない。
「……アインさん」
最初に声を上げたのは、後衛部隊に所属している若い兵士だった。
アインは返事をしなかった。訓練用の大剣を肩に担いだまま、前方を見ている。
「エインさんは、本当に一人で行ったんですか」
「そうらしいな」
「止めなかったんですか」
「止める理由がない」
あまりにも迷いのない答えに、兵士たちは顔を見合わせた。
「でも、調査隊は半分以上の人間を失って帰ってきたんですよ。何がいたのかも分からない。それなのに一人で行くなんて――」
「だから何だ」
アインが振り返った。
その視線だけで、兵士の言葉が止まる。
「危険だから一緒に行くって言いたいのか」
「……はい」
「お前らが?」
低い声だった。
怒鳴っているわけではない。
しかし、その声には妙な冷たさがあった。
「そうです。俺たちだって、この一ヶ月ずっと訓練してきました。前よりは戦えるようになったはずです。少しでも力になれるなら――」
「ならない」
言葉が途中で切られた。訓練場が静まり返る。アインは大剣を地面へ立て、その柄に手を置いた。
「お前らに何ができる」
誰も答えられなかった。
「遠方の調査隊が何人で行ったか知っているか」
「……聞いています」
「その半分以上が帰ってこなかった。帰ってきた奴らもまともじゃない。何があったのか説明することすらできない状態だ」
アインの視線が、一人ひとりへ向けられる。
「そんな場所へ、お前らが行って何をする」
「それは……」
「戦うのか」
誰も答えない。
「何と戦う」
答えられない。
「逃げるのか」
また沈黙が落ちる。
アインは短く息を吐いた。
「分からない相手のところへ、大人数で行けば何とかなると思っているなら、今まで何を教わってきた」
その言葉に、兵士たちの表情が変わった。
アインは続ける。
「エインは調査に行った。討伐じゃない。戦争でもない。何が起きたのかを確認しに行ったんだ。そんな場所へ、お前らがぞろぞろ付いていってどうする」
「でも……!」
「邪魔になる」
今度の言葉は、さらに冷たかった。
「エインの邪魔になる」
その場にいた誰も、反論できなかった。しかし、それでも一人の兵士が前へ出た。
「それでもです」
アインが視線を向ける。
兵士は拳を握っていた。
「俺たちは、何もできなかったから訓練してきたんです。西から魔物が来たときも、俺たちは最後まで何もできなかった。エインさんとアインさんが戦っているのを見て、少しでも強くなりたいと思ったから、ここまでやってきました」
他の兵士たちも、その言葉を否定しなかった。
「だから、またエインさん一人に任せるなんて……」
「任せる?」
アインが眉をひそめる。
「勘違いするな」
兵士たちは顔を上げた。
「エインは、お前らに任されているわけじゃない」
その言葉の意味が分からず、何人かが首を傾げる。アインはゆっくりと大剣を肩へ戻した。
少しだけ。
本当にわずかに、アインの表情が変わった。
「俺たちが、あいつに守られている」
誰も言葉を発しなかった。
アインは訓練場の外へ視線を向けた。エインが去った方向ではない。ただ、遠い場所を見るように。
「よく言われるんだよ」
アインは独り言のように言った。
「俺とエインは同格だってな」
何人かの兵士が顔を見合わせる。実際、そう考えている者は多かった。
二人は幼馴染であり、共に王都を守ってきた。エインは魔法と剣を扱い、アインは圧倒的な身体能力と大剣を扱う。
戦い方は違う。
だが、並んで戦う姿を見れば、二人は同じ強さを持っているように見えた。だからこそ、アインの次の言葉は予想外だった。
「違う」
大剣を握る手に、わずかに力が入る。
「全然違う」
アインは兵士たちを見た。
「俺とエインが本気でやり合ったら、俺は一分も持たない」
空気が止まった。誰かが息を呑む音が聞こえる。
「……そんな」
「嘘じゃない」
アインは即座に答えた。
「魔法を使われたら、まず近づけない。距離を取られれば終わりだ。俺がどれだけ速くなっても、あいつの魔法を突破する前に潰される」
「でも、魔法を使わなかったら……」
「それでも負ける」
今度は迷いすらなかった。
「純粋な武器戦でも、俺はエインに勝てない」
兵士たちは言葉を失った。
それまで誰も知らなかった。エインは確かに強い。それは誰もが知っていた。しかし、アインより強いとは思っていない。しかも本人が、まるで当然のことのように認めるほどの差がある。
「エインさんは、頭を使って戦っています」
誰かが言った。
「ああ」
アインは頷く。
「今はな」
その言葉に、兵士たちの視線が集まる。
「今のあいつは、まず考える。相手を見て、周囲を確認して、魔力を読む。どう動けば味方を巻き込まないか。どの魔法なら被害が少ないか。何を残せば後で調べられるか」
アインは笑った。
「立派になったもんだ」
「……昔は違ったんですか?」
アインは静かに語りだす。
「昔のエインは、俺より直感で動いていた」
兵士たちの間に小さなざわめきが起きる。
「あいつは考える前に動く。俺が右へ行こうとした瞬間には、もう左から敵の後ろへ回っている。敵が剣を振ったら、それを見て避けるんじゃない。振る前に避けている」
「そんなこと……」
「できる」
アインは言った。
「あいつは、昔からできた」
その声には誇張がなかった。
ただ、幼い頃から隣で見てきた事実を話しているだけだった。
「俺は力で突破する。壁があれば壊す。敵がいれば正面から叩く。それが一番早いと思ったら、それをやる」
アインは自分の胸を指した。
「分かりやすいだろ」
誰かが小さく笑った。
「でも、エインは違う。あいつはその瞬間に、一番生き残れる場所を見つける。俺が見えないものを見て、俺が気づかない動きをする」
「それなら、どうして今は……」
「味方がいるからだ」
アインの声が低くなる。
「王都では、昔みたいには戦えない」
その言葉には、兵士たちも理解できる理由があった。
「昔のあいつなら、目の前に敵がいれば飛び込んでいた。相手が強ければ強いほど、考えるより先に身体が動いていた」
アインは遠くを見る。
「獣みたいだった」
その表現に、誰も笑わなかった。
「獣?」
「ああ。直感と本能だけで動く。敵の動きを読むんじゃない。感じている。考えて避けるんじゃない。身体が先に動く」
アインは大剣の柄を握り直した。
「今では頭で考えることが板についている。でも、本来のあいつは違う」
少しの沈黙が流れた。
そして、一人の兵士が恐る恐る口を開く。
「……アインさん」
「何だ」
「誰か、エインさんの本気を見たことがあるんですか」
アインはすぐには答えなかった。
兵士たちも、同じ疑問を持っていた。西から魔物の大群が現れたときも、巨大な魔物と戦ったときも、近くで見ていたからこそわかる。
あれが本気じゃないのか。
エインは強大な魔法を使おうとした。空を消し飛ばしそうなほどの光を生み出した。
「あの時は、本気じゃなかったんですか?」
別の兵士が言った。
「訓練中も、あれだけ無茶をしていました」
「最高速で走って、魔力を全身に流して、そのまま魔法を撃ち続けていましたよね」
「あれでも本気じゃないんですか?」
次々と声が上がる。
アインはそれを聞いてから、ゆっくりと首を横に振った。
「あれは本気じゃない」
兵士たちの顔から表情が消えた。
「……じゃあ」
「俺も、一度しか見たことがない」
アインの言葉に、全員が黙る。
「一度だけだ」
それ以上、アインはすぐに続けなかった。
何かを思い出しているようだった。
そして、少しだけ困ったように頭を掻く。
「あんまり勝手に喋るのも良くないんだがな」
「お願いします」
誰かが言った。
「知りたいんです」
アインは兵士たちを見た。
その目には、以前とは違うものがあった。ただエインを追いかけたい。一緒に戦いたい。
そんな感情だけではない。
自分たちが守ろうとしている人間が、本当はどんな存在なのか。知りたいという目だった。
「……簡単にだけ教えてやる」
アインは大剣を地面へ下ろした。
「まず、エインの本来の武器は、剣じゃない」
兵士たちが息を呑む。
「薙刀だ」
誰かが小さく呟いた。
「薙刀……」
「ああ」
アインは頷いた。
「長い柄の先に刃がある武器だ。ただし、あいつの薙刀は普通のものじゃない」
「何が違うんですか?」
アインは少しだけ考えた。
どう説明すればいいのか。その光景を知らない人間に伝えるのは難しい。
「刃がない」
兵士たちは意味が分からず、顔を見合わせた。
「正確には、刃そのものが魔力でできている」
静寂が落ちる。
「柄だけを持って、そこへ魔力を流す。すると、先端に刃ができる」
「魔力を……武器に?」
「そうだ」
アインは続ける。
「しかも、あいつはその刃の大きさを変えられる」
「どれくらいですか」
「……さあな」
アインは苦笑した。
「俺も測ったことはない」
そして、次の言葉を口にする。
「一振りすれば、この間の西から来た魔物の大群くらいなら消し飛ぶ」
今度こそ、誰も声を出せなかった。兵士たちは理解できなかった。理解したくなかった。
西から押し寄せた魔物の数を、彼らは知っている。街の外に配置された兵士たちが迎撃し、エインとアインが最前線で戦った。それでも撃ち漏らした魔物が門から王都へ入り込んだ。ルカが戦い、兵士たちが追いかけ、それでも混乱は起きた。
あの規模の魔物の群れを。一振りで。
「……あり得ません」
誰かが呟いた。
「あり得る」
アインは即答した。
「俺は見た」
その声には、一切の迷いがなかった。
「ただし」
アインの表情が変わる。
「本人も完璧に制御できていない」
兵士たちは再び息を呑んだ。
「敵だけを完全に消し飛ばせるか、あいつ自身にも分からない」
「そんな……」
「味方まで消し飛ばす可能性は極めて低い」
アインは言った。
「でも、ゼロじゃない」
その一言が、訓練場に重く落ちた。
「だから使わない」
アインは兵士たちを見渡す。
「使えないんじゃない。使わないんだ」
エインが巨大な魔物を前にして、あの光を生み出した。
勝つだけなら。
そう言っていた。そして使わなかった。原因が分からなくなるから。何も残らなくなるから。
しかし、それだけではなかったのかもしれない。強すぎる力は、敵だけを傷つけるとは限らない。
アインは大剣を持ち上げた。
「だから、あいつは真剣にはなる」
兵士たちを見ながら、ゆっくりと言った。
「でも、本気にはならない」
誰も言葉を発しなかった。
「本気になった時のあいつを、俺は一度しか見たことがない」
アインの視線が、王都の外へ向けられる。
「そして、できれば二度と見たくない」
その言葉に、兵士たちは何も返せなかった。
アインが一度しか見たことがないエインの本気。幼馴染であり、最も近くでエインを見てきた男でさえ、一度しか知らない姿。
その戦いで、何があったのか。なぜアインは、二度と見たくないと言ったのか。
誰も聞けなかった。
しばらくして、最初にエインへの同行を申し出た兵士が前へ出た。
「……それでも」
アインが視線を向ける。
「それでも、俺たちは強くなりたいです」
兵士は拳を握った。
「エインさんのようになれるとは思っていません。アインさんに追いつけるとも思っていません。でも、何もできないまま待っているだけなのは嫌です」
他の兵士たちも頷いた。
「エインさんが帰ってきた時、少しでも強くなっていたい」
「次に何かが起きた時、守られる側じゃなくなりたい」
「俺たちにできることがないなら、できるようになりたいです」
アインはしばらく黙っていた。
そして。
大剣を肩に担ぐ。
「……そうか」
短く言うと、訓練場の中央へ歩いた。
「なら、今まで通りだ」
兵士たちが顔を上げる。
「エインを追いかける必要はない」
アインは振り返った。
「今のお前らが行っても、あいつの邪魔になるだけだ」
誰も反論しなかった。
「だったら、あいつが帰ってくるまでに強くなれ」
アインは地面を大剣で叩いた。轟音が響く。
「走れ」
兵士たちが動き出す。
「止まるな!」
さらに速度が上がる。
「魔力を流せ! 走るだけで満足するな!」
兵士たちは走りながら、身体へ魔力を巡らせ始めた。
「前衛は俺のところへ来い!」
前衛の兵士たちが集まる。
「中衛と後衛は走りながら魔力操作を続けろ! 昨日できなかった奴は今日できるようになれ!」
アインの声が訓練場に響く。
その日、誰もエインを追いかけなかった。誰も王都の外へ出なかった。代わりに全員が、これまで以上に身体を動かした。
走り。魔力を流し、魔法を発動する。剣を振る。倒れても立ち上がる。
自分たちがまだ弱いことを、誰よりも理解していた。
だからこそ。
止まる理由はなかった。
訓練場の中央で、アインはそんな兵士たちを見ていた。そして、誰にも聞こえない声で呟く。
「……あいつが戻ってくるまでには、少しくらい驚かせてやりたいな」
返事はない。
ただ、遠くから兵士たちの足音が響いている。その音は、以前よりも少しだけ大きかった。
一方その頃。
エインはすでに、王都から遠く離れた場所を歩いていた。
何がいるのか、何が起きたのか。なぜ調査隊は半数以上を失ったのか。まだ何も分からない。
けれどエインの足は止まらなかった。
そして彼はまだ知らない。
自分がいない間にも、王都では人々が前へ進もうとしていることを。自分の背中を追いかけるのではなく、いつか、その隣に立つために。




