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分からないまま、歩いていく 〜それが無理だと、誰が決めたんですか?〜  作者: ChikA


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第32話 遠征


王都の朝は、いつもと変わらなかった。


防護壁の内側では商人たちが店を開き、荷車が石畳の上を行き交っている。南端に位置する王宮の周辺では、早朝から役人たちが慌ただしく動き始めていた。王立領務院でも同じように、多くの書類が机の上を行き交っていたが、その中でエインだけは一枚の報告書を手にしたまま、しばらく動かなかった。


窓の外へ目を向ける。


王都の向こう側には防護壁がある。高く、長く、都市を囲む巨大な壁。空から侵入しようとする魔物は壁に触れた瞬間、塵となって消える。地上からの侵入も、限られた門を通らなければならない。


それだけの防衛機構がありながら、エインの頭から最近の出来事は離れなかった。


西から現れた魔物の大群、北東で発見された異常なダンジョン、そして、これまで王都の周辺では考えられなかった変化。


一つひとつを別の出来事として考えることはできる。


偶然が重なっただけだと言うこともできる。


しかし、エインはその考え方を好まなかった。


偶然かもしれない。だからといって、調べなくていい理由にはならない。


「エインさん」


扉の外から声がした。


エインが振り返ると、そこにはノエンが立っていた。


「少し、お時間よろしいでしょうか」


「はい。どうしましたか」


ノエンは普段よりも、わずかに疲れた表情をしていた。


それだけで、エインには何となく分かった。防護壁の外で見つかった魔法の痕跡について、何か分かったのだろう。


「解析結果が出ました。まだ全容は把握できていませんが、少なくとも一つだけ、ほぼ間違いないことがあります」


「聞かせてください」


「できれば、ヴィタも一緒の方がいいと思います。彼女の方からも、魔物について報告があるようですので」


エインは頷いた。


「分かりました」


その日の昼過ぎ、三人は王立領務院の一室に集まっていた。


机の上には、二種類の資料が並んでいる。一つは、魔物の行動について記録されたもの。もう一つは、魔法の痕跡について記された解析資料だった。


ヴィタは椅子に座ることなく窓際に立っており、机の上の資料を眺めながら、何かを考えている。


エインが部屋へ入ると、ヴィタはすぐに振り返った。


「来たね。ちょうどいい」


「何か分かったんですか」


「分かったというより、仮説がかなり固まった」


ヴィタは机の上へ資料を広げた。そこには、複数の地域名と、魔物の種類が記されている。


エインは一枚ずつ目を通した。


「西から現れた魔物について調べていたんだよね。種類だけじゃなくて、身体の状態、胃の内容物、歯の摩耗、移動した距離、それから過去の目撃記録まで、できるだけ集めた」


ヴィタは一枚の地図を指した。


「最初は単純に、生息域が広がっているんだと思った。でも、それだけじゃ説明できない部分があった」


地図には、王都の西側から複数の矢印が引かれていた。それらはすべて、王都へ近づいている。


「魔物たちは、住んでいる場所を少しずつ変えている。以前ならもっと西側で確認されていた種類が、今はかなり近い場所まで来ている」


「それは以前、言っていましたね」


「うん。でも理由までは分からなかった」


ヴィタは別の資料を手に取った。


「そこで、魔物の状態を見た」


エインは視線を資料へ落とす。


魔物の体格から筋肉の状態、胃の内容物、狩りをした形跡まで。全て細かく記録されていた。


「結論から言うと、魔物たちは獲物を求めて移動している可能性が高い」


エインは少し考えた。


「餌が足りなくなったからですか」


「そう。魔物の大移動なんて珍しいものじゃない。今までにも何度かあった」


ヴィタはさらに資料を広げる。


「でも、過去の記録と比べると変なんだよ」


エインが顔を上げた。


「何がですか」


「過去の移動は、ほとんど決まった順序だった。ある地域で獲物をほとんど狩り尽くして、それでもまだ足りなくなったところで別の地域へ移動する」


ヴィタは指で資料を叩いた。


「言い方を変えると、食料を無くしてから移動してた」


「どのくらいですか」


「地域によって差はあるけど、ほとんど残っていない状態。大体、九割前後かな」


エインは資料を見直した。


「今回の魔物は違うんですか」


「違う」


ヴィタは即答した。


「今、移動が始まっている地域は、まだ獲物が残ってる」


その声は、いつものように落ち着いていた。しかし、エインはヴィタの表情にわずかな違和感を覚えた。


「七割くらいしか狩ってない」


「七割?」


「正確には地域によって違う。でも、大体そのくらい。まだ獲物を狩り尽くしていない」


エインは、しばらく何も言わなかった。


普通なら、魔物はそこに留まる。まだ食べるものがあるのだから。それでも移動している。


「最初は、計算が間違っているのかと思った」


ヴィタは腕を組んだ。


「過去の記録を調べ直した。別の地域も見た。昔の大移動も確認した。でも、やっぱり違う。今回だけ、移動するのが早い」


「なぜでしょう」


「分からない」


ヴィタは素直に答えた。


「獲物が減っているから移動してる、という仮説自体はほとんど合ってると思う。でも、何かが違う」


彼女は地図の西側を見た。


「七割で移動する理由が分からない」


部屋の中が静かになる。


エインは地図を見ながら考えた。


獲物を求めている。それは間違いない可能性が高いが、本来ならまだそこに留まれる。それなのに移動する。


まるで、


「……何かに追われているようにも見えますね」


ヴィタがエインを見る。


「それは考えた」


「魔物より強いものが現れた可能性は?」


「ある。でも、それなら痕跡が残る。大量の魔物が逃げているなら、もっと分かりやすい行動になるはずなんだよね」


ヴィタは首を横に振った。


「今回の移動は、逃げている感じじゃない。ちゃんと移動してる」


「では、何か別の理由がある」


「そう。でも、それが分からない」


エインは資料を閉じた。


「十年後に、生息域が王都周辺とぶつかるという予測は変わりませんか」


「変わらない。むしろ、今回のことを考えると早まる可能性もある」


ヴィタの言葉に、エインの表情がわずかに険しくなった。


魔物の生息域が近づく。その変化が自然なものであれば、それだけでも十分に問題だった。


しかし、自然ではないとしたら、別の可能性を考える必要がある。


「分かりました。この資料は預かります」


エインがそう言うと、ヴィタは頷いた。


「それで、ノエンは?」


その言葉を受け、ノエンが一歩前へ出た。


机の上に置かれた別の資料へ手を伸ばす。


「私の方も、いくつか分かりました」


ノエンは丁寧に資料を並べた。


そこには、複雑な図形と数値が書かれている。防護壁の外で発見された、魔力の痕跡。何者かが魔法を使用したと思われる場所から採取した記録だった。


「最初は人間の魔法だと考えていました。しかし、解析を進めるにつれて、その可能性は低くなりました」


「人間ではない」


「はい」


ノエンは頷いた。


「痕跡そのものは、魔力です。しかし、扱い方が人間のものとは異なっています」


エインは資料を見た。


「具体的には?」


「人間が魔法を使う場合、魔力には一定の癖が残ります。魔法の構成、魔力の流れ、発動の方法などです。個人差はありますが、人間の魔術師には共通する特徴があります」


ノエンは一枚の紙を指した。


「しかし、今回の痕跡にはそれがありません」


「魔物のものでは?」


「違います」


ノエンは静かに答えた。


「魔物が魔力を使う場合は、より本能的です。魔法を構築するというより、身体の一部として魔力を扱っています。今回の痕跡には、明確な意図があります」


「意図?」


「はい」


ノエンは続けた。


「ですが、人間ではありません」


エインの視線がノエンへ向く。


「断定できますか」


「現時点では、かなり高い確率で」


ノエンは少しだけ言葉を選んだ。


「正確には、人間が扱ったものではない、と断定できます。魔族の可能性、または、私たちがまだ確認していない別の種族」


ヴィタが小さく息を吐いた。


「未知の種族ってこと?」


「その可能性は否定できません」


ノエンは頷いた。


「魔力の扱いには高度な制御があります。しかし、人間の魔術体系とは明らかに違います。私が知る限り、このような痕跡はありません」


「魔族については?」


「魔族の魔力について、十分な資料がありません」


ノエンは困ったように眉を寄せた。


「存在そのものは知られています。しかし、実際に接触した記録は極めて少ない。今回のものが魔族によるものかどうかは、確認できません」


エインは黙って聞いていた。


未知の種族、魔族、人間とは異なる魔力の扱い。そして、防護壁の外。何者かが、そこで魔法を使っている。


「何のために使ったかは分かりますか」


「分かりません」


ノエンは首を横に振った。


「魔法そのものが何を目的としていたのかも、まだ解析できていません。ただ、攻撃魔法ではない可能性が高いと思います」


「では、何の魔法だったんですか」


「それが分からないのです」


ノエンは資料へ視線を落とした。


「魔法を使った痕跡はある。しかし、それが何をしたのかは分からない。正直に申し上げれば、私自身もかなり困惑しています」


エインは二人の資料を並べた。


魔物の生息域が変化している。しかも、本来なら移動するには早い段階で。そして、王都の外では人間ではない何者かが魔法を使っている。


二つの出来事に関係があるのか現時点では分からない。それぞれが偶然である可能性もある。


しかし。


エインの頭の片隅には、以前から消えない考えがあった。


誰かが意図的に、何かを変えているのではないか。


魔物の生息域、獲物の減少、異常な移動、そして、未知の魔法。


まだ証拠はない。考えすぎかもしれない。だが、可能性を考えること自体は無駄ではない。


「二人とも、調査を続けてください」


エインは言った。


「ヴィタは過去の移動記録をもう一度確認してください。特に、獲物が残っている状態で移動した例がないか調べたいです」


「分かった」


「ノエンは魔力の痕跡を引き続き解析してください。可能であれば、過去の記録に似たものがないかも」


「承知しました」


二人が頷いた。


その日の夕方、さらに別の報告が王立領務院へ届いた。


遠方の調査に出ていた一団が帰還した。最初にその知らせを聞いたとき、エインはすぐに違和感を覚えた。


帰還予定より早い。


それだけなら、調査が順調だった可能性もある。しかし、報告を読み終えた瞬間、その考えは消えた。帰ってきた人数が少なすぎた。


「……半分以下ですか」


「はい」


エインの上司が、机の前で重い表情をしていた。


「出発時は三十人以上いた。帰還したのは十三人だ」


「残りは」


「分からん」


部屋の空気が重くなる。


「全滅したわけではないんですね」


「少なくとも、帰ってきた者たちはそう言っている」


「話を聞きましたか」


「まだまともに話せる状態じゃない」


上司は報告書を机へ置いた。


「医療班が診ている。怪我をしている者もいるが、それより問題なのは精神状態だ」


エインは資料を見る。


帰還者。


十三名。


負傷者。


十三名


会話可能。


三名。


残りは、まともに受け答えできない。


「何があったんですか」


「それを調べている」


エインはすぐに立ち上がった。


「会わせてください」


医療施設へ向かうと、帰還した者たちは、それぞれの寝台に座っていた。


添木をしている者、腕に包帯を巻いている者、四肢が欠損している者。


しかし、エインが最も気になったのはそこではなかった。


目だった。


誰も、まともに前を見ていない。虚ろな目のまま何かを見ているようで、何も見ていない。


一人の男が、壁を見つめていた。もう一人は両手を握り締めたまま動かない。エインが近づいても、反応しない。


「……逃げてきたんですね」


隣にいた医療師が頷いた。


「そのようです」


「何から?」


「分かりません」


医療師は低い声で答えた。


「話せる者に聞いていますが、証言が一致しないのです」


「一致しない?」


「魔物だったと言う者もいます。何かがいた、としか言えない者もいます」


「姿を見ていない?」


「見た者もいるようですが……」


医療師は言葉を止めた。


「どう説明すればいいのか」


エインは、会話が可能だという一人のもとへ向かった。


寝台に座っていた男性は、エインを見るとわずかに視線を動かした。


「話を聞かせてもらえますか」


しばらく返事がなかった。


やがて、男の口が動いた。


「……調査は、順調だった」


声は掠れていた。


「予定通り、進んでいた。何もなかった」


「何が起きたんですか」


男の顔から血の気が引いた。


「分からない」


「覚えていることを教えてください」


「……音がした」


エインは黙って待った。


「最初は、風だと思った。でも違った」


男の指が震え始める。


「何かが近づいてきた」


「何が?」


「分からない」


男は顔を覆った。


「見えなかった」


エインの表情が変わる。


「見えなかった?」


「いや……見た。たぶん」


男は混乱していた。


「でも、思い出せない」


「仲間はどうなりましたか」


男は答えなかった。


ただ、しばらく沈黙したあと、小さく呟いた。


「逃げろと言われた」


「誰に?」


「……分からない」


「それで逃げたんですね」


男はゆっくりと頷いた。


「走った」


その目から、涙が流れた。


「振り返らずに。見殺しにした」


それ以上、聞くことはできなかった。


エインは医療施設を出たあと、しばらく廊下を歩いていた。


調査団は何かに遭遇し、その結果、半数以上を失った。帰還者たちは、まともな状態ではない。そして、何が起きたのかすら分からない。


エインにとって、それが最も問題だった。


分からないものに対して、対策は立てられない。想像だけで軍を動かすこともできない。


魔物なのか、未知の種族なのか、魔族なのか、あるいは、まったく別のものなのか。


現時点では、何一つ確定していなかった。


だからこそ。


「……自分の目で確認しないと」


エインは小さく呟いた。



翌日、エインは上司の執務室を訪れていた。


「単独で行くつもりです」


エインの言葉に、上司は顔を上げた。


「どこへだ」


「調査団が遭遇した地域です」


「駄目だ」


即答だった。


「何がいるか分かっていない」


「だから調べます」


「三十人以上の人間が行って、半分も帰ってこなかった」


「だから、大人数で行くのは危険です」


上司が眉をひそめる。


エインは続けた。


「人数が多ければ、できることは増えます。でも、目立ちます。何かに襲われたとき、守るべき人数も増える」


「一人なら安全だと?」


「そうは言っていません」


エインは首を横に振った。


「一人なら、逃げられます」


上司は黙った。


エインは戦闘能力だけを考えれば、王国でも最上位にいる。


魔法、剣、魔纏、そして、状況を見て判断する能力。


それでも、未知の存在を相手に一人で行くのは危険だった。しかし、大人数で行けば安全とも言えない。今回の調査団が、その証明になっている。


「国防はどうする」


「アインがいます」


エインは答えた。


「あの訓練を続けてきた兵士たちもいます。今なら、以前の軍とは違います」


上司は深く息を吐いた。


「ルカはどうだ」


エインは少しだけ考えた。


「戦力として数えられると思います」


それは、すでに王都の中では半ば当然のことになっていた。ルカは正式に軍へ所属しているわけではない。命令を受けるわけでもない。階級もない。


それでも、誰もが知っていた。


何かが起きれば、ルカは動く。街に魔物が入れば、人を守る。危険な者がいれば、前へ出る。


かつては恐れられていた巨大な魔物は、今では王都の人々にとって別の存在になりつつあった。市場の近くでは、子供たちが遠くからルカを見つけて手を振る。肉屋の前では、店主が困ったような顔をしながら肉を渡す。ルカは相変わらず多くを話さない。


「にく」


「たすける」


「いたい?」


言語の習得は緩やかになっていた。


それでも、人々は理解していた。


彼が何をするのか。誰を守ろうとしているのか。


軍の名簿に名前はない。しかし、王都全体が、すでにルカを王都の戦力として認め始めていた。


「……分かった」


長い沈黙のあと、上司が言った。


「ただし、勝手に行くな。王への報告と必要な手続きを済ませる」


「はい」


「それと、いつ帰るかを決めておけ」


「分かりました」


「帰還予定を過ぎたら、捜索隊を出す」


エインは頷いた。


「ありがとうございます」


その後、調査へ出る準備が始まった。


エインが不在になる以上、領務院の仕事を止めるわけにはいかない。


学院の建設も進んでいる。


選抜を通過した九十五人への連絡も必要だった。第零期生についても、今後の扱いを決めなければならない。机の上には、相変わらず大量の書類が積まれていた。


「本当に行くんですか?」


書類を抱えたリナが、不安そうな顔でエインを見ていた。


「はい」


「一人で?」


「その予定です」


リナは黙った。


エインがいない間、自分と上司で仕事を回す。


それはすでに決まっていた。


「書類の方は、私たちで何とかします」


「お願いします」


「……でも」


リナは言葉を止めた。


エインが顔を上げる。


「必ず帰ってきてください」


エインは少しだけ笑った。


「そのつもりです」


「つもりでは困ります」


「そうですね」


エインは頷いた。


「帰ってきます」


翌朝。


王都の門の近くには、まだ人が少なかった。防護壁の向こう側には、広い世界が広がっている。


魔物がいて、人の手が届かない場所がある。そして今、何がいるのか分からない場所もある。


エインは門の前で足を止め、振り返る。


遠くには、巨大な王都が見えた。自分が不在の間、リナと上司が書類を処理する。国防はアインを中心に、鍛えられた軍が担う。ノエンとヴィタは、それぞれの調査を続ける。


そして、ルカもいる。


正式な兵士ではない。けれど、何かが起きれば、あの巨大な身体はきっと誰かの前へ立つだろう。エインは、それぞれの姿を思い浮かべた。


「……任せます」


誰に聞かせるわけでもなく、そう呟いた。そして門の外へ足を踏み出す。


調査団が帰ってきた。半数以下になって。何かから逃げるように。その先には、まだ名前すら分からないものがいる。


魔物の生息域が動いており、未知の魔力が残されている。そして、遠方では調査団何かに遭遇した。


すべてが繋がっているのか、それとも、すべて別の出来事なのか。


エインには、まだ分からない。


だから調べる。分からないことを放置しない。分からないなら、確かめる。


それが、これまでエインがやってきたことだった。


王都を背に、エインは歩き始める。まだ何が待っているのかも知らないまま。ただ、その足だけは迷わず、調査団が消えていった遠い土地へ向かっていた。

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