第29話 変革
王立領務院の中央棟、その最上階にある評議会の会議室には、朝から重い空気が漂っていた。
長い机を囲むようにして座る評議員たちの前には、数枚の資料が置かれている。学院の建設予定地、必要となる建物の規模、訓練場の面積、研究設備、医療設備、鍛冶場、魔物を扱うための施設。そして、それらを建設するために必要となる費用。
問題は、その最後の一項目だった。
エインは席に座ることなく、机の端に置かれた資料を見ていた。
「結論から申し上げますと、この計画は規模が大きすぎます」
最初に口を開いたのは、財政を担当する評議員だった。
「学院を設立するという王のご意向そのものに異論はありません。しかし、提出された計画を見る限り、これは単なる軍事施設ではない。研究設備を備え、医療を扱い、鍛冶場まで設置する。さらに魔物学の研究区画まで必要だという。建設費だけでも相当な額になりますし、完成後の維持費も無視できません」
「必要な設備を必要なだけ挙げた結果です」
エインは静かに答えた。
「削れる部分があるなら教えてください。僕は、それを検討します」
「問題はそこです」
別の評議員が資料をめくった。
「すべてが必要だと主張されている。魔法を学ぶための施設。武術を学ぶための施設。戦略を考えるための場所。医療設備。鍛冶設備。魔物の研究施設。どれも重要だと言えば重要でしょう。しかし、今の王国にそこまでのものが必要でしょうか」
「必要です」
エインは即答した。
会議室の空気がわずかに張り詰める。
「理由を聞かせていただけますか」
「これまでの王国では必要なかったからです」
その答えに、数人の評議員が眉をひそめた。
エインは机の上に置かれた資料へ視線を落とした。
「今までの王国は、大きな問題が起きなかった。少なくとも、王都の周辺ではそうだったと思います。魔物が大量に現れることは稀で、軍の役割もある程度は明確だった。だから、今までの規模で問題はなかったんです」
「それが、これからは違うと?」
「違う可能性が高いです」
エインは顔を上げた。
「北東ではダンジョンに異常が起きました。その後、王都の西から大量の魔物が現れた。今まで起きなかったことが、すでに複数起きています。僕たちは、過去の常識だけを基準にして判断するべきではないと思います」
「しかし、先日の魔物の襲来は偶然だった可能性もあるでしょう」
「そうですね」
「ならば、これほどの費用を投じる理由にはならないのでは?」
その言葉に、エインは一度だけ黙った。
否定はできない。
先日の襲来が偶然だった可能性は、確かにある。
しかし。
エインは別の資料を取り出した。
「では、こちらをご覧ください」
机の中央へ、数枚の紙を置く。
「先日の西側からの魔物襲来による被害報告です。王都の外で戦闘を行った軍の装備損耗、負傷者の治療費、戦闘によって破損した設備の修復費用、街道の補修費用。王都内部へ侵入した魔物による建物の損害も含まれています」
評議員たちが資料へ目を落とした。
「これが、一度の襲来による被害額です」
静かな声だった。
「もし同規模の襲来が、今後も起きるとしたらどうなりますか」
誰も答えない。
「年に一度なら、まだいいと思います。数年に一度なら、学院を作る必要がないかもしれません。でも、もし年に数回起きるようになったら。あるいは、さらに大きな規模の魔物が現れたら」
エインは資料の一枚を指した。
「この金額は、一度の被害です。軍事力が足りなければ、負傷者は増えます。戦闘時間が長くなれば、設備の損害も増える。王都内部への侵入を許せば、建物だけでは済みません」
「……脅しているのですか」
「いいえ」
エインは首を横に振った。
「比較しているだけです」
その一言で、会議室が静かになった。
「学院を作るには金がかかります。維持にも金がかかるでしょう。でも、何もしなければ金がかからないわけではありません。問題が起きてから対処すれば、そのたびに費用が発生します。しかも、被害が大きくなれば、人間の命まで失うことになる」
エインは続けた。
「学院にかかる費用を高いと考えるか、将来の被害を減らすための投資だと考えるか。それは皆さんの判断です。ただ、僕は後者だと思っています」
財政担当の評議員が、ゆっくりと資料を閉じた。
「しかし、それでも金額は大きい」
「分かっています」
「必要だと言われても、すぐに承認することはできません」
「ただ、何もしないことは決して安いということではない」
エインは語気を強めたあと、一度だけ息を吐いた。
「だから、王へ報告してください」
評議員たちの視線が集まる。
「最終的にこの計画を進めるかどうかは、王の判断です。皆さんが反対するなら、その意見も含めて報告すればいいと思います。ただし、僕の意見もそのまま伝えてください。今の軍事力のまま、これから起こるかもしれない問題に対応できるとは、僕は考えていません」
しばらく、誰も口を開かなかった。
やがて評議会の議長が、ゆっくりと頷く。
「分かりました。評議会として意見をまとめ、王へ報告します。建設計画については、その判断を待つことにしましょう」
完全な承認ではなかった。
しかし、完全な拒否でもない。
エインはそれで十分だと思った。
「お願いします」
会議室を出ると、廊下の窓から午後の光が差し込んでいた。
エインは一度立ち止まり、外を見た。
王都はいつも通りだった。
遠くを歩く人々。荷物を運ぶ商人。通りを走る子供たち。評議会の中では大きな問題が話し合われていても、外の日常は何も変わらない。
エインはそのまま領務院へ戻り、残っていた書類の処理を始めた。
学院の建設予定地に関する書類。
教師となる四人の仮契約。
必要な資材の概算。
軍から提出された人員に関する報告。
気づけば、外はすでに夕方になっていた。
エインは最後の書類を机へ置き、椅子の背にもたれかかった。
「……今日はもういいか」
書類を片付け、領務院を出る。
王都の中央部へ向かう通りは、夕方になると人が増える。仕事を終えた人々が家へ戻り、店の前では夕食の準備が始まっていた。
エインは特に目的もなく歩いていたが、途中で小さなカフェの前を通りかかった。
そして、窓際の席に見覚えのある二人を見つけた。
「エインじゃん」
ヴィタが、窓越しに手を振っている。
その隣にはノエンが座っていた。
エインは少しだけ迷ったあと、店の扉を開いた。
「偶然ですね」
「そうですね。私はちょうどヴィタに捕まっていたところですが」
ノエンが少し疲れたように言った。
「捕まえるってひどくない? せっかく面白い話があるから呼んだだけだよ」
「その面白い話を聞くために、私の仕事が増えることになる気がしてならないのですが」
「たぶん増えるよ」
「……でしょうね」
ノエンは諦めたように息を吐いた。
エインは二人の向かい側へ座る。
「それで、何かあったんですか」
「うん。西から来た魔物について、ようやく調べ終わった」
ヴィタは机の上に置かれていた紙を、エインの方へ押し出した。
「前から気になっていたんだよね。あの魔物たちは、どこから来たのか。西の地域に住んでいたのか、それとも何か別の理由で移動してきたのか。だから、死体の状態や体内に残っていたもの、それから生息環境の痕跡をできるだけ集めて調べてみた」
エインは資料を手に取った。
ヴィタの文字は相変わらず読みにくい。
しかし、内容は整理されていた。
「結論から言うと、あの魔物たちは自然発生した集団だった。ダンジョンの影響はないし、誰かが人工的に作った形跡もない。西の地域に生息していた魔物が、そのまま移動してきたと考えるのが一番自然だと思う」
「移動してきた理由は?」
「それが分からない」
ヴィタは椅子の背にもたれた。
「でも、一つだけはっきりしていることがある。魔物の生息域が、少しずつ変わってる」
エインの手が止まった。
「変わっている?」
「うん。昔の記録と比べたんだ。十年前、二十年前、さらにその前の資料まで。全部が正確とは言えないけど、魔物が確認された場所を地図に落としていくと、少しずつ王都の方へ近づいている」
「どれくらいの速度ですか」
「今までと同じような変化が続いた場合だけど、十年くらいかな」
ヴィタは指を一本立てた。
「十年後には、生息域が王都周辺の人間の生活圏とぶつかる可能性が高い」
ノエンが、静かにカップを置いた。
「つまり、今回のようなことが特別ではなくなる可能性があるということですね」
「そういうこと」
ヴィタは頷いた。
「今までは魔物がいる場所と人間が生活している場所に、ある程度の距離があった。でも、その境界が近づいている。どちらかが移動すれば、いつかぶつかるよ」
エインは資料を見つめた。
十年。
長いようで、短い。
学院を作り、教師を集め、生徒を育てる。そのために必要な時間を考えれば、決して余裕があるとは言えなかった。
「原因は分からないんですか」
「まだね」
ヴィタは肩をすくめる。
「気候が変わった可能性もあるし、魔物同士の勢力関係が変わったのかもしれない。餌になる生物の生息域が変化した可能性もある。自然現象として説明できる理由はいくつもあるよ」
「でも、自然現象ではない可能性もある」
エインの言葉に、ヴィタは少しだけ目を細めた。
「まあね。ゼロとは言えない」
「エイン、私からも一つあります」
ノエンが言った。
その声は、ヴィタほど軽くなかった。
「何か分かったんですか」
「分かったというより、分からないことが増えました」
ノエンは机の上に小さな紙を置いた。
「防護壁の外で、何者かが魔法を使った形跡があります」
エインが顔を上げる。
「いつですか」
「西側の魔物が現れる少し前から、いくつかの場所で確認されています。ただ、魔法そのものを見た者はいません。残っているのは魔力の痕跡だけです」
「どんな魔法ですか」
「それが分からないから困っているのです」
ノエンは苦笑した。
「普通の攻撃魔法なら、もっと分かりやすい痕跡が残ります。地面が焼ける。木が倒れる。何かしらの変化がある。でも、今回見つかった痕跡は妙なのです。確かに魔力が使われているのに、何をしたのか分かりません」
「魔法陣は?」
「見つかっていません」
「誰が使ったかも?」
「もちろん分かりません」
ノエンは首を横に振った。
「だから今、かなり忙しいのです。複数の場所から魔力の残滓を集めて比較しているところです。もし同じ人物が使ったものなら、何か共通する特徴が見つかるかもしれません」
エインは黙った。
魔物の生息域が王都へ近づいている。
そして、防護壁の外では、正体の分からない誰かが魔法を使っている。
二つの出来事に関係があるとは限らない。
ヴィタの言う通り、生息域の変化には自然な理由があるかもしれない。ノエンが見つけた魔法の痕跡も、魔物とは無関係な誰かのものかもしれない。
偶然かもしれない。
関係ないかもしれない。
だが。
エインの頭の片隅には、一つの可能性が浮かんでいた。
誰かが、魔物を動かしている。
あるいは、魔物が移動する環境を意図的に作っている。
根拠はない。
今の段階では、ただの推測だった。
だからこそ、口にはしなかった。
「エイン?」
ノエンに呼ばれ、エインは顔を上げた。
「すみません。少し考えていました」
「何か気になることでもあるのですか?」
「まだ、何とも言えません」
エインはそう答えた。
「ヴィタの調査も、ノエンの解析も、まだ途中です。今の段階で二つを結びつけるのは早いと思います」
「それはそう」
ヴィタはあっさりと頷いた。
「でも、調べる価値はあるよ。私も生息域の変化をもう少し詳しく調べる。十年後っていうのも、今の資料から出した予測だから。もっと昔の記録を探せば、違うことが分かるかもしれない」
「私も解析を続けます。もし何か分かれば、すぐにお知らせします」
「お願いします」
エインは二人に頭を下げた。
カフェを出た頃には、王都はすっかり夜になっていた。
通りには魔法灯が灯り、防護壁の内側に広がる街を淡い光が照らしている。
エインは歩きながら、防護壁の向こうを見た。
今、この壁の外側で何が起きているのか、誰かがいるのか、魔物たちは、なぜ移動しているのか。
分からないことばかりだった。しかし、分からないからといって、何もしない理由にはならない。
むしろ逆だ。
分からないものが増えているからこそ、人を育てる必要がある。自分一人では、すべてを調べられない。アイン一人でも足りない。ノエンやヴィタがいても、まだ足りない。
これから起きるかもしれない問題に備えるためには、考えられる人間を増やさなければならない。
戦える人間。
魔法を扱える人間。
魔物を理解できる人間。
傷ついた者を治せる人間。
武器を作れる人間。
そして、何が起きているのかを自分で考えられる人間。
学院は必要だった。
今日、評議会で話したときよりも、その考えは強くなっていた。
翌朝。
エインは早い時間から王宮へ向かった。
王都の南端に位置する王宮は、防護壁の内側でも特に警備が厳しい場所だった。広い敷地の向こうには高い建物が並び、その中心部には王の執務を行う区画がある。
エインは案内を受け、王のもとへ通された。
部屋に入ると、王はすでに机の前に座っていた。
「エインか。昨日の評議会について聞いている」
「それなら話が早いですね」
エインは軽く頭を下げた。
「学院の建設について、回答をいただきたいと思って来ました」
王は少しだけ笑った。
「急ぐな」
「急ぐ必要があります」
その言葉に、王の表情がわずかに変わった。
エインは続けた。
「昨日までは、建物が完成してから生徒を集めてもいいと思っていました。しかし、それでは遅いかもしれません」
「理由は?」
「建物の完成に時間がかかります」
「魔法を使えば早くなるだろう」
「それでも三か月は必要です」
エインはすでに建設関係の資料を確認していた。
魔法によって資材を運び、基礎工事を補助し、一部の工程を短縮することはできる。
それでも、三か月。
大規模な施設を安全に完成させるには、それだけの時間が必要だった。
「三か月後に建物が完成してから生徒を選び始めれば、さらに時間がかかります。選抜基準を決め、候補者を集め、適性を確認する。それから訓練を始めるのでは遅すぎます」
「つまり?」
「建設と同時に、生徒の選抜を始めるべきです」
王は黙ってエインを見ていた。
「学院が完成する三か月の間に、人を集める。選抜する。そして、入学する人間を決める。建物が完成した時点で、すぐに始められる状態にしておくべきです」
「学院の建設が承認されなかった場合は?」
「その時は、選抜した人材を軍の訓練へ回せます」
エインは答えた。
「無駄にはなりません」
王は椅子の背にもたれた。
「昨日の評議会では、かなり反対されたそうだな」
「費用が大きいので」
「それでも、進めたいと」
「はい」
迷いはなかった。
「昨日、ヴィタとノエンから新しい報告を聞きました。魔物の生息域は、少しずつ王都へ近づいています。そして、防護壁の外では正体不明の魔法が使われた形跡がある」
王の表情から、わずかに笑みが消えた。
「詳しく聞かせてくれるか」
エインは、昨夜聞いた内容を順番に説明した。
ヴィタの調査。
生息域の変化。
十年後には人間の生活圏とぶつかる可能性。
そしてノエンが見つけた、正体不明の魔法の痕跡。
すべてを聞き終えたあと、王はしばらく何も言わなかった。
「二つの出来事に関係があると思うか」
「分かりません」
エインは正直に答えた。
「関係があるという証拠はありません。ただ、関係がないという証拠もありません」
「なるほど」
「だからこそ、準備をしたいんです」
エインは一歩前へ進んだ。
「何も起きなければ、それでいいと思います。でも、何かが起きてから準備を始めるのでは遅い。魔物が王都の近くに来てから軍を育てても間に合わない。誰かが何かをしていると分かってから、専門家を探しても遅いかもしれない」
王は静かに聞いていた。
「学院を作る理由は、戦争をするためだけではありません。王国に何が起きても対応できる人間を育てるためです。魔物が増えるなら魔物を調べる。新しい魔法が現れるなら魔法を調べる。怪我人が増えるなら治療方法を考える。今までの常識で対応できないなら、新しい方法を探す」
エインは一度だけ言葉を切った。
「そのための場所が必要です」
部屋の中に沈黙が落ちる。
窓の外から、遠く王都の音が聞こえていた。
王はゆっくりと立ち上がり、窓の方へ歩いていく。
南端にある王宮から見える景色の向こうには、防護壁に囲まれた広大な王都が広がっている。
人々は今日も生活している。
何も知らずに。
魔物の生息域が近づいていることも。
防護壁の外に、正体の分からない魔法使いがいるかもしれないことも。
「評議会からの正式な報告は、まだ受けていない」
王が言った。
「しかし、お前の意見は聞いた」
エインは黙って待った。
「回答は、評議会の報告を受けてから出す」
「分かりました」
「ただし」
王が振り返る。
「生徒の選抜については、準備を始めていい」
エインの目がわずかに開いた。
「建設が承認された場合に備え、選抜基準を作れ。候補者を集める準備も始めていい。三か月を無駄にはするな」
「ありがとうございます」
エインは深く頭を下げた。
王は小さく笑った。
「まだ学院の建設を認めたわけではないぞ」
「分かっています」
「本当に分かっているのか?」
「はい。でも、やるべきことは増えました」
エインは顔を上げた。
「選抜基準を作らないといけません」
王は少しだけ呆れたような顔をした。
「お前は本当に忙しくするのが好きらしいな」
「そうでしょうか」
「そうだ」
エインは王宮を出た。
南端の高い場所から階段を下り、王都の中へ戻っていく。
学院の建設は、まだ決まっていない。費用の問題も残っている。評議会を完全に説得できたわけでもない。しかし、止まっているわけにはいかなかった。
三か月。
建物が完成するまでにできることは、多い。
選抜基準を作る。候補者を集める。教師たちと相談する。学院が完成した瞬間から始められるように準備する。
エインは歩きながら、頭の中で次に必要なことを並べていった。
そして同時に、昨夜の話を思い出す。
少しずつ近づいている魔物の生息域。防護壁の外に残された魔法の痕跡。
偶然かもしれない。自然な変化かもしれない。しかし、もし誰かの意図がそこにあるのなら。
十年という時間は、決して長くない。
エインは足を止め、防護壁の向こうを見た。
高く広がる壁の外側には、まだ知らない世界がある。
分からないことがある。調べなければならないことがある。
だからこそ。
「……急がないと」
小さく呟き、エインは再び歩き出した。
学院はまだ存在しない。
建物すら完成していない。
けれど、そこで学ぶ者たちを探す準備は、今日から始められる。
三か月後。
その時、何が起きているのかは分からない。
ただ一つだけ、エインには確信があった。
これからの王国は、もう過去と同じではいられない。
ならば、人も変わらなければならない。
変化を恐れるのではなく。
変化した世界で、生き残るために。
エインは、王都の中心へ向かって歩き続けた。




