第27話 異彩
翌日、エインは再び王立領務院の資料室に籠もっていた。
窓から差し込む朝の光が、机の上に積まれた資料を照らしている。昨日までに探し出した二人の名前が、机の脇に並んでいた。
セドリック・アーヴェル。
ミレイア・セレナ。
既存の理論から外れ、王国の中で居場所を失った者たちだった。
エインが求めているのは、ただ知識のある教師ではない。これまでの答えを正しく教えるだけなら、王国中に候補はいる。しかし世界は変わり始めていた。
北東のダンジョンで起きた異常。これまで知られていなかった核の存在。そして、西から現れた魔物の大群。
過去の常識だけでは説明できないことが増えている。
だからこそ、知らないものを前にして考える者が必要だった。正解がない場所で立ち止まらず、自ら答えを探そうとする者が。
エインは次の資料を手に取った。
そこには、ガルド・ヴェインという名前が記されていた。
かつて王都で武術を教えていた男。
最初は多くの門下生がいた。しかし、年を追うごとに人数は減り、最後には誰も残らなかった。
理由は単純だった。
厳しすぎた。
ガルドは剣技を教える前に、まず身体を知ることを求めた。腕の振り方、足の位置、重心、呼吸。少しでも無駄があれば最初からやり直しだった。
百回振ったところで姿勢が崩れれば、また一回目へ戻る。
走る速度が落ちれば走り直し。
身体が動かなくなれば、なぜ動かなくなったのかを考えさせる。
普通なら嫌になる。
それでもガルドは、誰もいなくなったあとも訓練を続けていた。
毎日、一人で。
エインは資料を閉じた。
「……行ってみますか」
資料に記された場所は、王都の外れだった。
古い訓練場はすでに使われなくなっていた。壁にはひびが入り、敷地の隅には雑草が伸びている。
しかし、エインが門をくぐった瞬間、空気を裂く音が響いた。
木剣が振られていた。
訓練場の中央に、一人の男が立っている。
短く刈られた髪には白いものが混じり、身体は年齢を感じさせないほど引き締まっていた。
男は、ただ木剣を振っていた。
一度振る。
元の位置へ戻る。
そして、また振る。
エインはしばらく黙って見ていた。
何十回繰り返しても、動きが変わらない。足の位置も、腰の回転も、剣の軌道も寸分違わず同じだった。
やがて男が動きを止めた。
「何の用だ」
「ガルド・ヴェインさんですか?」
男が振り返る。
「そうだ」
「僕はエインといいます」
「知っている」
「軍事学院の教師を探しています」
「帰れ」
エインは瞬きをした。
「まだ何も言ってませんけど」
「その顔で武術を教わりに来たわけじゃないだろう」
「はい。スカウトです」
ガルドは木剣を地面へ突き立てた。
「断る」
「理由を聞いても?」
「俺は武術を教える場所を探している。だが、王国が欲しがっているのは、兵士を効率よく強くする方法だろう」
「そうですね」
「なら、俺とは合わん」
ガルドはエインを見た。
「技だけを覚えて強くなれると思っている人間が多すぎる。剣を振るなら、まず自分の身体を知らなければならん。どこまで動けるのか。何が足りないのか。そこを飛ばして技術だけ教えても、いざという時には何もできん」
「僕もそう思います」
ガルドの視線がわずかに変わった。
「身体を鍛えずに魔法だけを覚えても、できることには限界があります。長く走れない。重いものを運べない。怪我をすれば戦えない。それは魔術師でも同じです」
しばらくガルドはエインを見ていた。
そして木剣を拾う。
「やってみろ」
「何をですか?」
「俺の訓練を一日受けろ」
エインはすぐに理解した。
「僕を見極めるんですね」
「そうだ」
翌朝、まだ空が薄暗いうちから訓練は始まった。
「走れ」
「どこまでですか?」
「止まるまでだ」
エインは走り出した。
一定の速度を保ち、王都の外れを走る。しかし、背後からすぐに声が飛んだ。
「遅い」
速度を上げて呼吸が乱れ、脚が重くなっても止まらない。
「止まるな!」
さらに走る。
身体が限界を訴え始めた頃、ようやくガルドの声が響いた。
「止まれ!」
止まったエインへ、今度は木剣が差し出された。
「千回」
「分かりました」
一回。
二回。
百回を超えた頃には腕が重くなり、五百回を過ぎる頃には肩が焼けるように熱くなった。
それでもエインは振り続けた。
途中から、動きが変わる。
腕だけで振ることをやめ、足と腰を使い始めた。一振りに必要な力を減らしながら、千回まで動きを維持する。
「なぜ変えた」
「最初の方法では最後まで持たないと思ったので」
「俺は変えろとは言っていない」
「はい」
「なら、なぜ変えた」
「同じ方法を続ける理由もありません」
千回目を終えた頃には、エインの腕は震えていた。
その後も訓練は続き、足運び、体幹、受け。何度も木剣を弾かれた。
「遅い」
「力を入れすぎだ」
「目で追うな」
失敗するたび、エインは次の動きを変えた。同じ失敗を繰り返さない。
日が傾く頃、ようやくガルドが木剣を下ろした。
「今日は終わりだ」
エインはその場に座り込んだ。
「どうだ」
「効率がいいですね」
ガルドが呆れたように息を吐いた。
「普通は一日でそんな感想を言わん」
「そうですか?」
「そうだ」
エインは震える手を見た。
「でも、身体がどう動くのか分かりました」
「一日で全部分かるわけがない」
「全部ではありません。でも、分からなかったことが分かりました」
ガルドは黙った。
「僕は、あなたの訓練が必要だと思います」
「……俺の弟子になる気はないのか?」
「ありません」
ガルドが初めて笑った。
「即答か」
「僕は教師を探しに来ただけですから」
しばらくして、ガルドは木剣を肩へ担いだ。
「なら、俺も学校へ行こう」
「引き受けてくれるんですか?」
「俺は甘やかさん」
「そのほうがいいです」
「逃げる生徒が出るぞ」
「それでも必要なら、やるべきです」
「……変わったやつだ」
「よく言われます」
こうして、三人目が決まった。
王都へ戻ったエインは、そのまま最後の資料を開いた。
アレシア・ヴァルド。
彼女の名前を探すため、エインは何日も古い記録を読み漁った。
最初に見つけたのは、隣国との国境で起きた小規模な戦闘記録だった。次に砦の陥落、そして都市の陥落。
記録を追うごとに、同じ名前が現れる。
アレシア・ヴァルド。
そして、その周囲には必ず三人の名前があった。
セドリック。
ミレイア。
ガルド。
四人は、かつて同じ戦場にいた。
エインは最後の記録を読んで、手を止めた。
隣国の中枢目前。
王が自ら現場へ赴き、戦闘停止を命じた。
それ以上の詳しい記録は、どこにもなかった。
翌日、エインは王都の地下牢へ向かった。
湿った石壁の間を進み、最も奥の牢で足を止める。
鉄格子の向こうに、一人の女がいた。壁にもたれ、静かにこちらを見ている。
「アレシア・ヴァルドさん」
「誰?」
「エインです」
「最近よく聞く名前ね」
「そうですか」
「用件は?」
「軍事学院の教師として、あなたをスカウトしに来ました」
一瞬の沈黙のあと、アレシアは笑った。
「私を?」
「はい」
「断るわ」
「理由を聞いても?」
「私は戦争しか知らない」
「だからです」
笑みが消えた。
「……何?」
「戦争を知らない人間だけで軍を作るのは危険です」
アレシアはエインを睨んだ。
「私の知識を使って、また誰かを殺すつもり?」
「分かりません」
「……正直ね」
「でも、知らないよりは知っていたほうがいいと思います」
「綺麗事よ」
「そうかもしれません」
エインは鉄格子の前から動かなかった。
「戦い方しか知らなければ、戦うしかなくなります。でも、戦うことを知らなければ、戦わなければならない時に何もできない」
「だから教えるの?」
「選べるようにするためです」
アレシアの視線が止まった。
「戦うか、戦わないかを」
しばらく、誰も口を開かなかった。
やがてアレシアは立ち上がった。
「あなたを試す」
「僕を?」
「学校を作る人間として相応しいか確かめる」
翌日、二人の前には一枚の地図が広げられていた。
「敵は三倍。援軍なし。食料は三日分」
アレシアが駒を置く。
「目的は?」
「敵軍を倒すこと」
「違います」
「何?」
「なぜ戦うのかが分かりません」
アレシアの手が止まる。
「守るためなのか。時間を稼ぐためなのか。誰かを逃がすためなのか。それによってやるべきことは変わります」
「……では、敵軍を倒す必要はないとする」
「なら、戦う必要はありません」
エインは駒を動かした。
「移動します」
「逃げるの?」
「必要なら」
「敵が追ってきたら?」
「さらに移動します」
アレシアはしばらく地図を見つめていた。
やがて、小さく息を吐く。
「昔の私に教えてあげたいわね」
彼女は駒を一つ手に取った。
「敵がいる。倒せる。だから進む。それだけだった」
「だから隣国を攻めたんですか?」
アレシアは顔を上げた。
「記録を読んだんだ」
「はい」
「記録には、最初に何があったか書かれていた?」
「詳しいことまでは」
「書かれていないでしょうね」
アレシアは静かに笑った。
「書けるような話じゃないもの」
その笑みは、どこか冷たかった。
「私は戦争を始めたかったわけじゃない。ただ、終わらせたかったの」
エインは黙って聞いていた。
「敵を倒せば終わると思った。次の敵を倒せば終わる。その次も。そのうち、引き返す場所なんてなくなった」
アレシアは地図を見つめる。
「気づいた時には、国を一つ滅ぼせる場所まで来ていた」
「だから止まったんですか?」
「王が止めたの」
「従ったんですね」
「あれだけお願いされると、流石にね」
アレシアはエインを見る。
「でも、あの時の私が一人だったら、どうしていたか分からない」
再び沈黙が落ちた。
「あなたは、私に何を教えさせたいの?」
「勝つ方法だけではありません」
エインは答えた。
「戦わない方法も教えてください」
アレシアの目がわずかに見開かれた。
「それを私に?」
「あなたが一番考えていると思うので」
しばらくして、アレシアは笑った。
今度は、少しだけ柔らかい笑みだった。
「……変わった子ね」
「よく言われます」
「引き受けるわ」
「ありがとうございます」
「ただし、条件がある」
「なんでしょう?」
「文句を言わないこと」
「よろしくお願いします」
こうして、最後の一人も決まった。
王立領務院へ戻ったエインは、机の上に四人の資料を並べた。
それぞれ、まったく違う道を歩いてきた。
しかし、エインはふと気づいた。
四人の記録には、同じ事件が残っている。
かつて隣国を滅亡寸前まで追い詰めた戦い。
既存の理論では説明できない魔法。
大量の魔物。
圧倒的な武力。
そして、それらを一つにまとめた戦略。
セドリック。
ミレイア。
ガルド。
アレシア。
四人は一度だけ、同じ場所にいた。
エインは資料を閉じた。
自分が探していたのは、優秀な教師だった。
しかし集まったのは、ただ優秀なだけの人間ではない。
王国の常識から外れた者たち。それでも、自分の道を捨てなかった者たちだった。
エインは新しい紙を取り出した。
そこには、まだ何も書かれていない。
王国軍事学院。
正式な名前すら決まっていない場所。けれど、これから多くの人間がここへ集まる。
答えを覚えるだけではない。
分からないことを考え、失敗し、また立ち上がる者たちが。
窓の外では、夕暮れの王都が静かに色を変えていた。
世界は変わっている。
ならば、人も変わらなければならない。
エインは四人の資料を抱え、ゆっくりと立ち上がった。
まだ学院は存在しない。生徒もいない。建物すら完成していない。
それでも。
何かは確かに始まっていた。
新しい時代に備えるための場所が。
そして、これまで居場所を失っていた者たちが、もう一度集まるための場所が。
エインは資料室を出た。
問題があるなら考えればいい。分からなければ調べればいい。一度でうまくいかなければ、もう一度やればいい。
それだけだった。
廊下を歩くエインの足音が、夕暮れの領務院に静かに響いていた。
まだ何もない。
だからこそ、これから作れる。
その未来は、もう始まっていた。




