第23話 基礎
指導が始まってから、一ヶ月。
訓練場に集まった兵士たちの姿は、以前とは明らかに変わっていた。
一ヶ月前なら、朝の走り込みだけで息を切らしていた者も多い。今では全員が最後まで走り切り、倒れ込む者もほとんどいない。素振りの回数も、筋力訓練の量も増えている。それでも訓練を終えた後には、まだ立っていられるだけの余力が残っていた。
身体は確実に強くなっている。
それを一番実感しているのは、他でもない兵士たち自身だった。
「一ヶ月でここまで変わるもんなんだな」
「最初の三日間は、本気で死ぬかと思ったけどな」
「俺は五日目だ」
「変わらねぇよ」
そんな声があちこちから聞こえる。
前衛の列では、アインが兵士たちの身体を眺めながら満足そうに笑っていた。
「悪くねぇ」
その声に、兵士たちが少し誇らしげな顔をする。
しかし、その隣に立つエインは、彼らの身体を確認したあと、静かに告げた。
「では、次に進みます」
その瞬間、空気が変わった。
一ヶ月間、ひたすら身体を鍛えてきた。
それが終わる。
次に何をするのか。
兵士たちの視線がエインへ集まった。
「今日から魔法の訓練を始めます」
前衛の何人かが思わず顔を上げた。
「魔法……!」
期待が一気に膨らむ。
特に前衛の兵士たちは、一ヶ月間ずっと身体を鍛えてきた。自分たちがどれだけ強くなったのかは分かっている。
だからこそ、その身体に魔力を纏わせるという話を聞けば、胸が高鳴るのも当然だった。
エインはそんな彼らを見渡した。
「その前に、見本を見せます」
「おっ!」
声が上がる。
アインも興味深そうにエインを見る。
「何をするんだ?」
「魔法です」
「それは見りゃ分かる」
エインは答えず、空を見上げた。
その日は朝から空が重かった。
厚い雨雲が王都の上空を覆っている。今にも雨が降り出しそうな空だった。
エインは右手を上げる。
瞬間、訓練場に集まっていた魔力が変質した。
空気が震える。
地面に落ちていた砂が浮き上がり、兵士たちの衣服が風もないのに大きく揺れた。
「……なんだ?」
誰かが呟く。
エインの周囲に光が集まっていく。
最初は小さかった。
だが、それは瞬く間に膨れ上がった。
掌ほどの大きさだった光が、人の背丈を越え、やがて訓練場そのものを包み込むほどの大きさになる。
眩しくて目を開けていられない。
「うわっ!」
兵士たちが腕で顔を覆う。
アインでさえ目を細めた。
「おいおい……」
エインは構わず右手を空へ向けた。
次の瞬間。
手から放たれた光が爆発した。
音が遅れて届く。
轟音とともに巨大な光柱が空へ突き上がり、王都の上空を覆っていた雨雲を真正面から貫いた。
雲の一部が吹き飛ぶ。
それでも止まらない。
さらに光が膨張する。
まるで空そのものを押し退けるように、雲が次々と消えていく。
東の空まで。
西の空まで。
王都を覆っていた灰色の雲が、巨大な光に呑み込まれていった。
やがて最後の雲が消え、青空が現れた。
訓練場の上だけではない。王都の空一面が、雲一つない青に変わっていた。遅れて、王都のあちこちから歓声が上がった。訓練場にいた兵士たちは、しばらく誰も動けなかった。
アインが空を見上げる。
「……派手すぎだろ」
エインは何事もなかったかのように右手を下ろした。
「そうですか?」
「そうだよ」
前衛の兵士たちの目は完全に輝いていた。
「俺もあれを使えるようになるのか?」
「どうやったらあんな魔法が……」
「すげぇ……」
エインはその様子を見て、少しだけ首を傾げた。
「では、訓練を始めます」
兵士たちが姿勢を正す。
エインは足元に落ちていた小さな石を拾った。
「まず、これです」
「……石?」
「はい」
先ほどまで空を覆っていた雨雲を消し飛ばした男が、今度は小石を手のひらに乗せている。
あまりの落差に、兵士たちが戸惑う。
「この石に魔力を流してください」
「それだけですか?」
「それだけです」
前衛から不満そうな声が上がる。
「せっかく一ヶ月鍛えたんだぞ?」
「だからです」
エインは石を指で軽く叩いた。
「魔纏を使うために必要なのは、魔法の威力ではありません。魔力を正確に扱うことです」
「……」
「一定量の魔力を、一定の速度で、この石へ流してください」
エインが実際にやってみせる。
石には何も起こらない。光もしない。熱も出ない。
ただ、エインの手の中にあるだけだ。
「これを続けます」
「……地味だな」
アインが呟いた。
「地味です」
「認めるのかよ」
「百聞は一見にしかず、ですね。見ていてください。」
そう言うとエインは魔力を流した石を地面に叩きつけた。
地響きと共に石が大地を削り進んでいく。1メートルほど削ったところで地響きが止まり、エインが話しだした。
「実のところ魔力の量はそこまで流していません。ただ、石の表面のみに魔力を流し続けました。魔力を正しく扱うことは、長く戦う時、格上の者と戦う時、必ず役に立ちます。」
その言葉を聞くと、兵士たちは次々に石を握った。
一ヶ月前なら、こんな訓練を命じられれば不満が噴き出していただろう。
だが、今は違った。
一ヶ月間、何度も限界まで身体を追い込んできた。だからこそ、エインが意味のないことをさせているわけではないことも、少しずつ分かってきている。
兵士たちは石に魔力を流し始めた。
「多いです」
エインの声が飛ぶ。
「今度は少なすぎます」
「速度が変わっています」
「一定にしてください」
「もう一度」
地味だった。
ひたすら地味だった。
さっきまで空を覆う雨雲を消し飛ばした魔法など、どこにもない。
ただ石に魔力を流す。
それだけを繰り返す。
しかし、しばらくするとエインの視線が一部の兵士たちで止まった。
石に流れる魔力が、明らかに少ない。
本人がどれだけ集中しても、一定量まで届かない。
エインはその兵士の前で足を止めた。
「魔力の総量が足りませんね」
「……やっぱり、無理でしょうか」
「今のままでは、難しいです」
兵士の顔が曇る。
だが、エインはそこで終わらなかった。
「なので、別の訓練をします」
「別の?」
「魔力を増やします」
その言葉に、兵士が顔を上げる。
「魔力は使えば減ります。ですが、枯渇した状態から回復すると、扱える総量が少し増える場合があります」
エインは淡々と説明した。
「個人差はあります。どの程度増えるかも分かりません。だから、実際にやって確認します」
「どうやって?」
エインはその兵士を見た。
「魔法を使ってください」
「魔法を?」
「はい。とにかく使う。使って、使って、魔力を空にする」
兵士たちの顔が引きつる。
「そして、回復したらまた使う」
アインが吹き出した。
「結局、また限界までやらせるのか」
「効率がいいので」
「お前、ほんとそれ好きだな」
「好き嫌いではありません」
エインは真顔だった。
「必要だからです」
魔力が少ないなら、増やす。
増えるかどうか分からないなら、試す。
試して増えたなら続ける。
増えないなら別の方法を考える。
それだけだった。
「では、魔力の総量が足りない人は、こちらへ」
数人の兵士が別の列へ移動する。
「皆さんは今日から、魔力を使い切る訓練です」
「……どのくらい?」
「枯れるまでです」
「やっぱりか……」
笑い声が上がる。
一ヶ月前と同じだった。ただし、今度は少しだけ違う。誰も逃げようとはしなかった。一ヶ月前より、自分たちは強くなっている。ならば、魔力だって強くできるかもしれない。そんな期待が、兵士たちの中に芽生え始めていた。
エインは再び石を手に取る。
空は晴れている。
先ほどまで雨を降らせようとしていた雲は、どこにもない。
その空を見上げたあと、エインは手の中の小さな石へ視線を落とした。
空を消すほどの魔法と、石に魔力を流し続けるだけの訓練。
一見すれば、まったく違うものに見える。
だが、エインにとっては同じだった。
大きな魔法も、小さな魔力操作も、結局は積み重ねの先にある。
だからこそ、まずは小さな石から始める。
「では、続けてください」
訓練場に、再び静かな時間が流れ始めた。




