第22話 弱者
王都を襲った魔物の群れが討伐されてから三日。
街ではまだ壊れた建物の修復や瓦礫の撤去が続いていたが、大きな混乱は収まりつつあった。防護壁も機能を取り戻し、負傷した兵士たちも少しずつ日常へ戻っている。
その一方で、王城の訓練場には普段とは違う空気が流れていた。
集められた兵士は百人を超えている。いずれも軍の中で鳴かず飛ばずの、言い方を変えると落ちこぼれと呼ばれるものたちだった。
前衛、中衛、後衛。それぞれが分かれて並び、その先頭にはエインとアインが立っていた。
アインは前衛の列を眺めながら腕を組み、エインは全員の姿勢や装備、身体つきを一通り確認していく。
やがて、エインが口を開いた。
「今日から皆さんの訓練を始めます」
ざわめきが起こる。
王国でも数えるほどしかいない魔纏の使い手。その二人から直接指導を受けるのだから、期待するなというほうが難しい。しかし、エインは兵士たちの期待を煽るようなことは言わなかった。
「その前に、いくつか決めておきます」
訓練場が静かになる。
「分からないことを放置しないこと」
エインの声は大きくない。それでも、不思議と全員に届いた。
「分からないなら調べる。聞く。試す。それでも分からなければ、また別の方法を試す。分からないこと自体は問題ではありません」
そこでエインは一度言葉を切った。
「分からないままにすることが問題です」
兵士たちは黙って聞いている。
「それから、分からないことと、できないことは別だということも覚えてください」
エインは隣に立つアインへ視線を向けた。
「アインを見れば分かると思います」
「おい」
「何ですか?」
「なんで俺なんだよ」
「分からなくてもできることがある。その一番分かりやすい例だからです」
アインはしばらくエインを睨んだあと、諦めたように息を吐いた。
「……まあ、否定はできねぇな」
「そういうことです」
エインは何事もなかったように兵士たちへ向き直った。
「理解していなくても、身体が先にできることはあります。逆に、頭では理解しているのに身体が動かないこともある。そこを勘違いしないでください」
次に、エインの目が兵士たちをまっすぐ捉えた。
「三つ目。自分が弱すぎることを自覚してください」
空気が変わった。
何人かの兵士が顔をしかめる。
「皆さんは兵士です。訓練もしている。実戦も経験している。ですが、弱いです」
はっきりと言い切られた。
「今回の魔物の群れと戦って、それでも自分は十分強いと思った人がいるなら、今ここから出ても構いません」
誰も動かなかった。
「戦場では、自分が強いと思っているかどうかなんて関係ありません。魔物より弱ければ死ぬ。それだけです」
エインの言葉には脅すような響きはなかった。
だからこそ、重かった。
「最後です。本気でやってください」
兵士たちの視線が集まる。
「死ぬ気でやること」
何人かが息を呑んだ。
「もちろん、本当に死んでくださいという意味ではありません。死ぬ寸前まで、自分を追い込んでください」
エインは訓練場の端へ視線を向けた。
「限界までやれば、自分がどこまでできるのか分かります」
そして、何の迷いもなく告げた。
「分からないなら、分かるところまでやればいい」
それだけ言うと、エインは前衛の列を見た。
「前衛はアインに任せます」
アインが一歩前へ出る。
「中衛と後衛は僕が見ます」
兵士たちの表情が引き締まった。
「では、始めましょう」
エインが最初に指示したのは、走ることだった。
「走ってください」
兵士たちは走り出す。
最初はまだ余裕があった。訓練場を何周しても、会話をする者までいる。
エインはその様子をしばらく眺めていた。
「もう少し速く」
速度が上がる。
「もっと」
さらに上がる。
「止まらないでください」
一周、また一周。
やがて笑っていた兵士の顔から余裕が消え、呼吸が荒くなる。足が重くなり、隊列が崩れ始める。
それでもエインは止めなかった。
「まだです」
「エイン殿……もう……」
「まだ動けます」
「無理です!」
「無理かどうかは、身体が教えてくれます」
その言葉に、兵士たちの顔が絶望に染まった。
訓練場の反対側では、もっと激しい声が響いている。
「遅ぇ!」
アインだった。
前衛の兵士たちを引き連れ、こちらも走っている。ただし、アインは走りながら巨大な剣を振っていた。
「足を止めるな! 敵は待ってくれねぇぞ!」
「アイン、走るだけでは?」
エインが叫ぶ。
「こっちはこっちのやり方だ!」
「それで倒れたら効率が下がりますよ」
「倒れねぇように鍛えてんだよ!」
互いに言い合いながら、それぞれの訓練は続いていく。
そして、最初の訓練が終わったときには、訓練場のあちこちで兵士たちが地面に手をついていた。立っている者はほとんどいない。
エインは倒れている兵士たちを一通り確認した。
「次は素振りです」
「……まだあるのか」
誰かが呟いた。
「あります」
木剣が配られる。
兵士たちは震える腕でそれを握った。
「振ってください」
「何回ですか……?」
「できなくなるまで」
絶望的な声が上がった。
それでも木剣が振られる。
一度。
二度。
何度も。
エインはその中を歩きながら、フォームを見ていく。
「肘を開かない」
「足を止めない」
「力を入れすぎです」
「今の動きなら、十回後には腕が上がらなくなります」
「もっと身体を使ってください」
兵士たちは息を切らしながら、それでも振り続けた。
それが終われば、今度は筋力訓練だった。
腕立て。
腹筋。
スクワット。
そして、また限界まで。
日が傾く頃には、訓練場に立っている者はほとんどいなかった。
そんな中、一人の後衛兵が苦しそうに顔を上げた。
「エイン殿……」
「はい」
「俺たちは後衛です」
「知っています」
「前線で剣を振るわけじゃない。それなのに、どうしてここまで身体を鍛える必要があるんですか」
エインはその兵士を見た。
「必要ないと思いますか?」
「そういうわけでは……ですが、前衛ほど必要ではないでしょう」
「では、魔力が切れたら?」
兵士が黙る。
「魔法が使えなくなったら?」
答えはない。
「魔物に距離を詰められたら?」
兵士は視線を逸らした。
エインは静かに続けた。
「そのとき、自分の身体だけで逃げられますか?」
誰も答えられなかった。
「後衛だから安全だと思っているなら、それは違います。戦場では、前衛が崩れれば後衛も戦うことになります。弓が壊れることもある。杖を失うこともある。魔力が尽きることもある」
エインは兵士たちを見渡した。
「そのとき、自分の身体が弱すぎれば死にます」
誰も口を挟まない。
「僕は皆さんを前衛にするつもりはありません。中衛には中衛の、後衛には後衛の役割があります」
そこで、エインはわずかに首を傾けた。
「ですが、役割を果たせる身体を作ることまで嫌だと言うなら……」
淡々とした声だった。
「もっと別の職業が向いています」
兵士は何も言えなかった。
エインも、それ以上は言わない。怒っているわけではない。馬鹿にしているわけでもない。ただ、戦うことを選ぶなら、それに必要なものを身につけるべきだと考えているだけだった。
少し離れた場所で、それを聞いていたアインが笑う。
「相変わらず容赦ねぇな、お前」
「必要なことを言っただけです」
「それを容赦ねぇって言ってんだよ」
アインは肩をすくめた。
「まあ、俺は嫌いじゃねぇけどな」
エインは返事をせず、訓練場を見渡した。
倒れている兵士たち。震える腕、動かなくなった足。
今日一日で、彼らは自分の限界を知った。
それなら、明日は今日より少しだけ先まで行けばいい。
エインはそれだけを考えていた。
「明日は、今日より一回多くできるようにしましょう」
誰も返事をする余裕はなかった。
だが、その言葉を聞いた兵士たちの何人かが、地面に伏せたまま小さく拳を握った。
それを見て、エインは満足そうに頷いた。
強くなるというのは、特別なことではない。
できなかったことを、できるようにする。そのために何が足りないのかを知り、足りないものを埋めていく。
ただ、それだけだ。
そしてエインにとって、その最初の一歩はいつだって同じだった。
まず、自分が弱いと知ること。
そこから先は、いくらでも変えられる。




