第2話 奇妙
町を出てから、エインたちは北東へ向かっていた。
昨夜、町へ侵入した魔物が残した足跡を追っている。街道から外れ、木々の間へ入ると、地面は次第に湿り気を帯びてきた。ところどころに残る足跡は一つではない。大きさも形もばらばらで、何種類もの魔物が同じ方向へ向かっているようだった。
エインは歩みを緩めると、地面にしゃがみ込んだ。泥の縁に残った跡を指先でなぞり、少し離れた場所に落ちている折れ枝へ目を移す。枝の折れ方と足跡の向きをしばらく見比べてから、立ち上がった。
「……こっちです」
先を歩きながら、エインは振り返らずに言った。
「何か分かった?」
ヴィタが尋ねると、エインは少し考えてから首を傾けた。
「町へ向かっているのは間違いないと思います。でも、最初から町を目指していた感じじゃないです」
「なら、何を目指していたの?」
「分かりません。ただ……」
エインは足元へ視線を落とした。
「逃げているように見えます」
その言葉の先で、赤黒い染みが土に残っていた。
近づいてみると、血の跡は木の根元から斜面の上へ続いている。ヴィタがしゃがんで周囲を調べると、血に混じって灰色の毛が何本か落ちていた。
「昨日の魔物と同じですね」
「傷を負ってる?」
「ええ。でも、この傷……」
ヴィタは毛を指先でつまみ、しばらく眺めた。
「人間につけられたものじゃないと思います」
エインは返事をせず、周囲を見回した。
少し先の地面に、別の跡がある。土が大きくえぐれていて、その脇には何かを引きずったような線が伸びていた。
さらに進むと、骨が見つかった。
一本、二本ではない。白くなった骨が木の根元や岩陰に散らばり、そのいくつかには噛み砕かれた跡が残っている。
「魔物の骨ですね」
エインは骨を拾い上げ、表面を眺めた。歯形は一種類ではない。大きさの違う傷がいくつも重なっている。
「……食べたんでしょうか」
「たぶん」
ヴィタは周囲に目を向けた。
「それも、一体じゃない」
ノエンが黙って奥を見た。骨は一か所に集まっているわけではなく、森のさらに奥へ向かって途切れ途切れに続いている。
エインは立ち上がった。
「行ってみましょう」
「危険ですよ」
ノエンが言った。
「分かっています」
そう答えながら、エインはすでに歩き始めていた。
森の奥へ進むにつれ、魔物の痕跡は増えていった。倒れた木の幹には爪痕が残り、地面には何かが争った跡がある。けれど、生きた魔物の姿は見えない。
静かすぎる。
エインがそう感じた直後、右手の茂みが大きく揺れた。
灰色の影が飛び出してくる。
四本の脚で地面を蹴り、低い姿勢のままエインへ迫った。口元から覗く牙は鋭く、身体は昨夜の魔物より一回り大きい。
エインが剣へ手を伸ばすより早く、ノエンの術式が発動した。
足元の地面が淡く光り、魔物の動きが鈍る。
その一瞬で、エインは踏み込んだ。魔物が爪を振り抜くより先に身体を滑り込ませ、首元へ刃を走らせる。勢いを失った身体が地面へ転がった。
しばらくして、ヴィタが死骸のそばへしゃがみ込んだ。
「……やっぱり痩せてる」
腹部を確かめ、続いて口元や脚の傷を見る。
「昨日の魔物もそう。食べていない期間が長い。それに、この傷は別の魔物につけられたもの」
エインは開いた口の中を覗いた。牙が何本か折れている。前脚の爪も欠けていた。
「ここでも、魔物同士で戦っている」
「そう考えるのが自然でしょうね」
立ち上がるヴィタを横目にエインは死体を眺めている。
「問題は、どうしてそんなことになっているかです。魔物は本来食べる目的で同族と争いません。」
その答えを探すように、エインは森の奥へ目を向けた。
しばらく歩くと、木々の向こうが突然開けた。
そこだけ地面が大きく陥没している。
崩れた土の下から、黒い石でできた階段が現れていた。森の中に、そこだけぽっかりと口を開けたような穴がある。
ノエンが足を止めた。
「……これは」
エインも階段を見つめた。
「何ですか?」
「ダンジョンです」
ノエンの答えは短かった。
エインは首を傾げる。
「ダンジョンって、こんなところにもできるんですか?」
「本来なら、できません」
ノエンは穴の周囲を見回した。
「自然に発生するダンジョンは、人の住む場所から遠く離れた土地でしか確認されていません。人の気配や魔力が近くにあると、発生しない。なぜそうなるのか、その仕組みまでは分かっていませんが、それが今までの記録です」
エインは森の向こうへ目をやった。
町までは、それほど遠くない。
「じゃあ、ここにあるのは……」
「異常です」
ノエンはそう言った。
エインは少し考えたあと、階段へ足を向けた。
「なら、中を見れば何か分かるかもしれません」
誰も止めなかった。
階段を下りると、空気が変わった。湿った土の匂いに混じって、鉄のような臭いがする。壁には淡い光を放つ鉱石がところどころ埋まっているが、奥へ進むほどその光は弱くなっていった。
そして、また骨があった。
今度は数が違う。
通路の隅、壁際、足元。大小さまざまな骨が散らばっている。どれも傷だらけで、肉を食いちぎったような跡が残っていた。
ヴィタが一つを拾い上げる。
「……これは、食べられてる」
エインは周囲を見回した。
骨だけではない。爪や牙の欠片、乾いた血の跡まで残っている。そこかしこで魔物同士が争い、その死骸を別の魔物が食べたのだろう。
「食べるものがなくなった」
エインが呟くと、ヴィタが頷いた。
「町に来た魔物も、同じだったのかもしれない。ここで他の魔物を食べ、それでも足りなくなって外へ出た。外に餌がなければ……」
「人を襲う」
エインが続けた。
町へ入ってきた魔物が、妙に痩せていた理由がつながった。
逃げていたのだ。
食べるものがなくなった場所から。
その先に町があり、そこには生きた人間がいた。
エインはしばらく骨を見つめていたが、やがて立ち上がった。
「もっと奥を見ましょう」
進むにつれて、足元の骨は減っていった。
代わりに、別のものが現れた。
壁に残る巨大な爪痕。
エインが手を伸ばしても、一番下の傷にすら届かない。床には深く沈み込んだ足跡があり、その大きさはこれまで見てきたどの魔物とも比べものにならなかった。
ノエンが息を潜める。
「……何ですか、これ」
答えは返ってこなかった。
奥から、音がした。
低く、重い音だった。
何か巨大なものが、暗闇の中で身体を動かしたような音。
エインは剣の柄へ手を置いた。
暗闇の奥で、何かがこちらを見ている。
次の瞬間、二つの光が浮かび上がった。
目だ。
大きさを測ることさえできない。
エインは一歩下がった。
戦えるかどうかなら、おそらく戦える。
けれど、今の自分たちは相手のことを何も知らない。どれほど速いのか、どんな攻撃をするのか、魔法を使うのか。それすら分からない。
ならば、今ここで戦う理由はない。
「戻りましょう」
エインが言った。
ヴィタが驚いたように振り返る。
「戦わないの?」
「情報が足りません」
エインは暗闇を見たまま答えた。
「分からないものを、分からないまま相手にするのは危ないです」
三人は来た道を戻った。
地上へ出ると、森の空気が妙に明るく感じられた。エインは振り返り、木々の向こうに隠れた穴を見つめる。
町の防護壁が壊れた。
その近くに、いるはずのないダンジョンができていた。
そこから逃げてきた魔物は、飢えていた。
そして、ダンジョンの奥には、これまで知られていない何かがいる。
けれど、一番分からないことが残っている。
なぜ、ここにダンジョンができたのか。
「……戻りましょう」
エインは町へ向き直った。
「調べることが増えました」
そう言って、三人は森を抜けていった。




