第1話 無理
「エインさん。これ以上は無理です」
そう言われても、エインは返事をしなかった。
目の前にあるのは、鉄と石で組まれた大きな装置だった。人の背丈ほどもある円筒形の金属筒を中心に、いくつもの管が伸び、その先が地面に埋め込まれた魔力路へと繋がっている。
街の外周を囲む防護壁。その一部を維持している装置だ。
「無理、というのは?」
「修復できません」
答えたのは、淡い色の髪をした青年だった。
ノエン・ヴァルディス。王立魔術院に所属する三級魔術師で、この街の防護壁術式の管理を任されている。
ノエンは装置に手を触れたまま、静かに首を振る。
「術式に破綻はありません。魔力路も正常です。交換できる部品はすべて交換しました。これ以上調べても、おそらく結果は変わらないでしょう」
「おそらく、ですか」
「私にも分からないことはありますよ」
少しだけ苦笑して、ノエンは手を離した。
その横で、しゃがみ込んでいた男が鼻を鳴らす。
「魔法の話は俺には分からん。だが、こいつが普通じゃねえことくらいは分かる」
大きな手で装置の金属部分を叩く。
コン、コン。
乾いた音が響いた。
男の名はフェリガン・グラウス。
この街で工房を構える一級鍛冶師であり、古くから防護壁の装置や魔力機器の金属部品を請け負ってきた職人だ。
ただ、エインを含め、彼を正式な名で呼ぶ者はほとんどいない。
「フェリ」と呼ばれるのが、もう何十年も当たり前になっていた。
「ここの部品、三日前に替えたんだろ?」
「そうだ」
「なら、部品が悪いわけじゃねえ。少なくとも、最初から壊れてたわけじゃない」
フェリは金属部分を指でなぞった。
「じゃあ、何が悪いんですか?」
エインが訊く。
フェリは眉を寄せた。
「それが分からねえから困ってんだろ」
「なるほど」
エインは装置の前にしゃがんだ。
壊れている。
けれど、どこが壊れているのかが分からない。
それは少し妙だった。
壊れたものには、普通なら何かしらの理由がある。金属が割れた。歯車が摩耗した。魔力路が焼けた。術式が崩れた。
原因が分かれば、対処する方法を考えられる。
では、原因が分からない場合はどうするか。
エインは装置の周囲をゆっくり歩いた。
「これ、いつから調子が悪くなったんですか?」
「三週間ほど前です」
ノエンが答える。
「最初は出力が少し落ちただけでした。その後、数日かけて低下していって……一週間前から、この状態です」
「それまでは?」
「正常でした」
「何十年も?」
「記録上は、そうです」
エインは足を止めた。
「……じゃあ、どうして今なんですか?」
ノエンが黙る。
フェリも答えない。
風が吹き抜け、防護壁の向こうから乾いた砂埃が舞った。
「古くなったから、じゃないんですか?」
ノエンが言う。
「もちろん、その可能性はあります。ただ、それなら他の装置にも同じ兆候が出ていなければおかしい」
「他は?」
「今のところ、問題ありません」
「なら、やっぱり変ですね」
エインは装置を見上げた。
「一つだけ壊れた理由があるはずです」
「だから、それを探してるんだよ」
フェリが呆れたように言った。
「探して分からなかったから、お前まで呼ばれたんだろ」
「そうでしたね」
エインは笑った。
そのときだった。
遠くで、甲高い鐘の音が鳴った。
一度。
二度。
三度。
街の空気が変わる。
ノエンが顔を上げた。
「侵入警報です」
フェリが立ち上がる。
「またか」
「どこです?」
「北東側です」
エインはすぐに走り出した。
防護壁の向こうから、何かが飛び込んでくる。
四本脚の獣だった。
大きさは人間の腰ほど。灰色の毛皮に覆われ、口から鋭い牙が覗いている。
兵士が剣を抜いた。
魔物が跳ぶ。
エインはその横をすり抜けるように踏み込み、剣を抜いた。
一閃。
魔物の前脚が地面に落ちる。
勢いを失った身体が転がり、兵士がとどめを刺した。
「怪我人は?」
「いません!」
「ならよかった」
エインは剣についた血を払った。
周囲を見る。
侵入した魔物は一匹だけだった。
今までと同じだ。
低位の魔物なら、街の兵士でも十分に対処できる。
だからこそ、誰もまだ大きな問題だとは考えていない。
エインだけが、先ほどの防護壁を見ていた。
「……一匹」
「何か?」
ノエンが追いついてくる。
「いえ」
エインは防護壁へ戻った。
故障した装置をもう一度見る。
それから、少し離れた場所にある別の装置を見る。
さらに、その先。
「ノエン」
「はい」
「防護壁って、全部同じ術式なんですよね?」
「基本構造は同じです」
「なら、どうしてここだけ壊れるんでしょう」
ノエンは答えなかった。
エインは装置の周囲を見回した。
「ここだけ、何か違うことが起きてる?」
「……」
「魔力の流れ?」
「それも調べました」
「地面?」
「異常ありません」
「じゃあ、魔物は?」
その言葉に、ノエンが顔を上げた。
「魔物?」
「最近、侵入する場所に偏りはありませんか?」
「あるよ」
今度は別の声だった。
振り返ると、白い外套を着た女性が立っていた。
ヴィタ・セレナ。王立医術院に所属する上級医術師で、この街では魔物による傷病の診療と、生態調査を担当している。
白い外套の袖には、薬草を煮出した染みが残っている。いつからいたのか分からないが、彼女は倒れた魔物を観察していた。
「北東側が多い。ここ二週間で七件。そのうち五件が、この辺り」
「魔物の種類は?」
「ばらばら。ただ、少し妙だね」
ヴィタは魔物の死骸を指差した。
「この子たち、以前より痩せてる」
「痩せてる?」
「うん。食べるものが減ったか、別の場所へ移動している可能性がありそう」
エインは黙って考えた。
防護壁が壊れた。
魔物が侵入する。
北東側に偏っている。
そして、その魔物たちには以前とは違う変化がある。
一つずつなら、偶然かもしれない。
けれど。
「フェリ」
「なんだ」
「この装置、金属の減り方は全部同じですか?」
「……いや」
フェリが装置を覗き込む。
「こいつだけ妙に削れてる」
「どこが?」
「内側だ。外から見ても分からん」
エインはしゃがみ込み、金属筒の隙間から内部を覗いた。
黒く焼けた跡がある。
だが、焼け方がおかしい。
一方向から熱を受けたようには見えない。
「ノエン」
「はい」
「この装置って、魔力を外に出してるんですよね?」
「ええ」
「じゃあ、逆に入ってくることは?」
ノエンが黙った。
「……理論上は、ありません」
「理論上は?」
「防護壁側から装置へ魔力が逆流することは想定されていません」
「でも、跡があります」
エインが黒く焼けた部分を指す。
「ここ、外から内側に向かって焼けてませんか?」
フェリが目を細めた。
ノエンも身を寄せる。
三人でしばらく黙っていた。
「……確かに」
ノエンが呟いた。
「もしこれが本当に逆流によるものなら、装置が壊れた原因は部品でも術式でもありません」
「じゃあ何だ?」
フェリが訊く。
エインは防護壁の向こうを見た。
魔物がいる。
今までよりも、この街の近くに。
「防護壁の外側で、何かが変わったんじゃないでしょうか」
風が吹く。
遠くの森が揺れていた。
「まず、魔物がどこから来ているのか調べたいです」
「待て」
フェリが腕を組んだ。
「その前に、こいつを直さねえとまた入ってくるぞ」
「そうですね」
エインは頷いた。
「だから、両方やりましょう」
「簡単に言うな、お前は」
「簡単じゃないですよ」
エインは壊れた装置を見た。
「でも、今のまま直しても、また壊れるかもしれません」
その言葉に、フェリが口を閉じた。
ノエンは防護壁を見上げ、ヴィタは魔物の死骸を見つめている。
誰もまだ答えを持っていなかった。だから、エインは少しだけ笑った。
「エイン」
ノエンが呼び止めた。
「何ですか?」
「君は、どうしてそこまで気になるんです?」
エインは少し考えた。
どうして。
そう聞かれると、昔から答えに困る。
気になったから、分からないから、知らないままなのが嫌だから。
けれど、それをわざわざ説明するほどのことでもない気がした。
「……だって、壊れてるじゃないですか」
それだけ答えて、エインは防護壁の向こうへ目を向けた。
まだ見たことのない場所がある。
まだ知らないことがある。
そして、そのどこかで何かが起きている。
「調べに行きましょう」
エインはそう言って歩き出した。
分からないなら、調べればいい。
昔から、それだけは変わらなかった。




