第18話 不動
巨大な魔物が地面を踏みしめるたび、足元から低い振動が伝わってきた。エインは剣を構えたまま、その姿を見上げている。これまで戦ってきた魔物とは明らかに違う。身体の大きさだけではない。まとっている魔力の密度が異常だった。周囲にいる魔物たちでさえ、その存在を恐れるように距離を取っている。
隣では、アインが大剣を握り直した。
「でかいな」
「ええ」
「勝てるか?」
エインは巨大な魔物を見ながら、ほんの少しだけ考えた。
「勝つだけなら」
アインが横目でこちらを見る。
「……やっぱり、お前はそういうこと言うよな」
「何か問題がありますか?」
「昔から変わらねえってことだ」
そう言って笑った直後、巨大な魔物が吠えた。
空気が震え、地面が大きく砕ける。
「来るぞ!」
アインが前へ飛び出した。魔物の巨体が一直線に突っ込んでくる。アインは真正面から迎え撃ち、大剣を振り上げた。衝突した瞬間、凄まじい轟音が響き、アインの身体が後ろへ押される。それでも足は止まらない。
「ぐっ……!」
歯を食いしばって踏みとどまるアインの横を、エインが駆け抜けた。
魔物の横へ回り込み、脚、関節、首、腹部と斬れる場所を探す。だが、どこも硬い。剣が表皮を裂いても、浅い傷が残るだけだった。
「硬いな!」
アインが叫ぶ。
「ええ。魔力で強化されています」
「じゃあどうする!」
エインは答えず、魔物の動きを見た。一度。二度。攻撃の速度、踏み込みの癖、身体を動かしたときの魔力の流れ。そのすべてを追いながら、エインは一つの可能性に手を伸ばした。
「少し、試します」
そう言って剣を収める。アインが目を見開いた。
「おい。何する気だ?」
エインは答えず、右手を前へ出した。魔力が集まり、空気が震える。周囲にいた兵士たちが、何かを察したように一斉に距離を取った。
エインの手に光が生まれた。
最初は小さかったそれが瞬く間に膨れ上がり、白い輝きとなって前方を覆っていく。光の中では空気そのものが歪んでいるように見えた。
アインが息を呑む。
「……お前、それ」
「使うつもりはありません」
「じゃあ、何で出した!」
「威嚇です」
「威嚇でそれを出すな!」
エインは答えず、光の向こうにいる巨大な魔物を見つめた。この魔法を使えば、おそらく勝てる。だが、それは倒すという言葉では足りない。魔物も、地面も、木々も、そこに残された魔力の痕跡も、すべてをまとめて消し飛ばす。何があったのかを調べるための手掛かりすら残らない。
「……使えば、あれは倒せると思います」
「なら使えよ」
アインの声に迷いはなかった。
「ここにいる連中を守れる」
「それはそうです」
「だったら――」
「でも、何も分からなくなります」
アインが黙った。
エインは魔物から目を離さない。
「この魔物がどうしてここへ来たのか。なぜこれほどの数が西から現れたのか。何がこいつらを動かしたのか。あれを使えば、全部消えます」
「……魔物も?」
「魔物もです」
光に照らされたエインの顔には、いつもの静かな表情があった。
「魔物が死ぬだけなら、まだいい。でも、その周りにあるものまで消えてしまえば、原因を調べることもできなくなる」
一瞬だけ、エインの脳裏に別の光景が浮かんだ。ダンジョンの奥で見た核。そのときも、壊してしまえば話は早かった。けれど、分からないものを分からないまま壊してしまえば、同じことが起きたときに何もできない。
「分からないまま壊すことは、僕は好きじゃないんです」
エインがそう言うと、アインはしばらく黙っていた。それから小さく息を吐き、大剣を握り直す。
「……相変わらず面倒くせえな、お前」
「よく言われます」
「でも」
アインが巨大な魔物を見る。
「そういうところ、嫌いじゃねえよ」
エインが横を見ると、アインはもう笑っていた。
「それじゃ、残したまま倒す方法を考えろ」
「もちろんです」
エインは光を消した。白い輝きが一瞬で消え、戦場に再び怒号と足音が戻ってくる。二人はほとんど同時に地面を蹴った。アインが正面から魔物の注意を引きつけ、その隙にエインが横へ回る。言葉を交わす必要はなかった。長い付き合いの中で、互いの動きはすでに身体に染みついている。アインが踏み込めばエインが空いた場所へ入り、エインが魔物の動きを止めればアインの大剣が叩き込まれる。巨大な魔物が吠え、その身体を大きく振り回した。二人は同時に跳び退き、地面へ着いた瞬間にはまた前へ出る。
その頃、王都の内側では別の戦いが始まっていた。
防護壁の外で魔物を食い止めているとはいえ、すべてを止められるわけではない。一体、また一体と隙間を抜けた魔物が王都へ入り込み、通りでは人々が逃げ惑っていた。警備兵が追っているものの、魔物の足は速い。
「危ない!」
誰かの叫び声が響いた。
通りの先に、小さな女の子がいた。突然のことに身体が動かず、その場に立ち尽くしている。魔物が低く身を沈め、爪を振り上げた。
次の瞬間、地面を叩きつけるような轟音が響いた。
巨大な影が、魔物と少女の間へ飛び込んできた。
ルカだった。
巨大な身体が地面を滑り、魔物を横から弾き飛ばす。魔物は建物の壁へ叩きつけられ、その衝撃で石壁が大きく揺れた。ルカは少女を背に庇うように立ち、ゆっくりと振り返る。
少女は尻餅をついたまま、目の前にある巨大な身体を見上げていた。ルカの身体はあまりにも大きい。少女が立っても、その脚に届くかどうかというほどだった。それでも、ルカは少女へ襲いかかることなく、心配するように首を下げる。
「いたい?」
少女は震えながら、呆然としている。
ルカは少女から視線を外し、再び魔物を見る。低い唸り声が響いた。魔物が起き上がる。だが、その瞬間にはルカが踏み込んでいた。巨大な前脚が振り抜かれ、魔物が地面を転がる。それでも立ち上がろうとした魔物へ、ルカはさらに踏み込んだ。今度こそ魔物は動かなくなった。
遅れて警備兵たちが駆けつける。「ルカ!」呼びかける声に、ルカが振り返った。その足元には、まだ少女がいる。
「いたい?」
少女は首を横に振った。
そのとき、人混みの向こうから一人の男が駆けてきた。
「おい!」
少女が顔を上げる。
「お父さん!」
男は娘のところまで走ると、すぐに抱き寄せた。
「無事か!」
「うん……」
「怪我は?」
「ないよ」
何度も娘の身体を確かめ、それからようやく男は顔を上げた。目の前には、巨大な魔物がいる。少し前までなら、恐怖しか感じなかっただろう。けれど今、自分の娘が無事でいられるのは、その魔物のおかげだった。
男はゆっくりとルカを見上げる。
「……あんたが、助けてくれたのか」
ルカは首を傾げた。
「たすけた」
男は一瞬、言葉を失った。
娘が父親の服を握る。
「お父さん。この子、怖くないよ」
「この子って……」
男は思わず苦笑した。どう見ても「この子」と呼ぶには大きすぎる。けれど、娘にとってはそうなのだろう。
ルカは倒れた魔物へ一度だけ目を向け、それから少女へ視線を戻した。
「げんき?」
少女は今度は、はっきりと笑った。
「うん。元気」
ルカの目が細くなる。
その様子を見ていた男は、しばらく何も言えなかった。やがて娘の頭を撫でながら、自分の腰に下げた道具へ目を落とす。肉を切るための包丁。血の染みついた革の前掛け。男はこの王都で肉屋を営んでいた。そして、助けられた少女は、その一人娘だった。
男はもう一度ルカを見上げた。
「……今度、うちの店に来い」
ルカは首を傾げる。
「ごはん?」
少女が笑った。
「お父さん、お肉あげるの?」
「ああ」
男は少し照れくさそうに頷いた。
「助けてもらった礼くらい、させてくれ」
「おにく?」
「ああ。肉だ」
ルカの目が、ほんの少しだけ輝いた。
「……おにく」
その言葉に少女が笑い、男もつられるように笑った。
「たくさん用意しておく」
「おにく」
「ああ。約束だ」
ルカは満足そうに頷いた。
王都の外では、まだ戦いが続いている。エインもアインも、兵士たちも、誰もまだ戦いの終わりを見てはいない。けれど、その戦いの中で、王都の片隅には小さな変化が生まれていた。
ルカが人を助けた。
助けられた少女は、ルカを怖がらなかった。
そして、その父親はルカに肉を渡すと約束した。
それだけのことだった。
けれど、たぶん、最初はそれでいい。
大きな何かが変わるときは、いつだって、そういう小さな出来事から始まるのだから。
そしてその頃、王都の外では、エインが巨大な魔物へ向かって剣を振り下ろしていた。
消してしまえば、戦いは終わる。
けれど、消えてしまえば分からない。
だからエインは、消さないように残したまま、目の前の答えを探し続けていた。




