第14話 残置
エインは、ルカが横たわっている空間を出る前に、もう一度だけ壁を見た。
淡い魔力の光が、岩肌に刻まれた回路を静かに流れている。何度見ても、特別な術式には見えない。少なくとも、エインがこれまで知ってきた魔力回路の範囲では、理解できない部分はほとんどなかった。ただ、それがこの場所で使われていることだけが気になった。
ルカは、この場所に来ることで苦しみから逃れていた。核の近くでは身体を震わせ、まともに立っていることさえできなかったのに、ここへ来れば呼吸が落ち着く。ならば、この回路が核そのものを変えているわけではない。核がそこにあることも、核から生まれる魔力も変わっていない。ただ、その影響だけがルカのいる場所まで届かなくなっている。
エインは床に手をつき、もう一度魔力を流した。
回路を通った魔力が空間を巡る。その流れを追いながら、核のある方向へ意識を向けると、外から入り込んでくる魔力の一部が回路に取り込まれ、別の方向へ逸らされているのが分かった。完全に消しているわけではない。流れを変えているだけだ。
そこで、エインの中で一つの考えが形になった。
核を無力化できないなら、無効化すればいい。
核そのものを壊す必要はない。核から生じる影響が外へ届かなければ、それで目的は果たせる。
エインは立ち上がった。
今度は壁の回路を写し取ることではなく、その使い方を変えることにした。
自分が着ていたローブを脱ぎ、魔力を通す。布地の上へ直接、回路を組んでいく。岩壁に刻まれていたものと同じ形を一つ作り、そこへ魔力を流した。淡い光が布の上を走り、袖から肩へ、背中を通って反対側へ回る。
思った通りに動いた。
エインは回路を消さず、そのまま次を重ねた。
一つの回路だけでは足りない。壁にあったものも、一本だけで空間を覆っていたわけではなかった。複数の流れが互いに補い合っていた。それならば、自分の服にも同じように組み込めばいい。
胸元へ一本、背中へ一本。袖を通し、腰へ回し、裾へ繋げる。魔力が途中で滞れば流れを調整し、回路同士が干渉すれば間隔を変える。何度か組み直すうちに、服そのものが一つの回路になるように形が整っていった。
ルカが目を開けた。
エインはその視線を感じながら、最後の回路を繋いだ。
服全体に魔力が流れる。
それまで空間の中に漂っていた魔力が、エインの身体へ届く前に回路へ吸い込まれていく。壁の回路と同じだった。流れてくるものを消すのではなく、別の経路へ逃がしている。
エインは立ち上がった。
そして、ルカを連れて空間を出た。
来た道を戻り、核のある場所へ向かう。
奥へ進むほど、ルカの身体が少しずつ強張っていくのが分かった。さっきまで穏やかだった呼吸が速くなり、足取りも重くなる。核の影響が近づいている。
エインはその様子を見ながら歩いた。
自分の服を覆っている回路が、どこまで働くのかを確かめるためだった。
核の姿が見えた。
巨大な魔力の塊が、以前と変わらない光を放っている。周囲の空間には濃い魔力が満ち、空気そのものが重く感じられた。ルカの身体が震え始める。
エインは一歩前へ出た。
ルカとの間に自分の身体を入れる。
魔力が押し寄せてきた。
だが、届かない。
服に刻まれた回路が光り、流れ込んできた魔力を左右へ逃がしていく。肩を抜け、腕を通り、腰へ流れ、足元へ落ちる。その動きは、壁の回路と同じだった。
エインはもう一歩、核へ近づいた。
回路が強く光る。
それでも、身体には異常がない。
後ろを見る。
ルカの震えが止まり始めていた。
エインはそこで確信した。
この方法なら使える。
ただし、問題が一つ残っている。
今はエイン自身が回路を身につけているだけだ。このままでは、核そのものは何も変わらない。核から生まれる魔力は、依然として周囲へ流れ続けている。
ならば、その流れを外へ出さなければいい。
エインは核へ近づいた。核の表面へ手を伸ばす。触れる直前で、魔力の圧力が一段強くなった。服の回路が一斉に光る。
エインはそのまま手を伸ばした。
指先が核に触れる。
その瞬間、周囲の魔力が大きく揺れた。
エインは回路を維持したまま、核の表面に沿って魔力を広げていく。自分の服に組んだものと同じ回路を、今度は核そのものを包むように配置していく。
一本ずつでは足りない。
核の形に合わせて回路を曲げ、表面を覆い、隙間を埋める。
魔力が弾かれる。
組み直す。
別の場所から流れ込んでくる。
そこへ新しい回路を繋ぐ。
何度も失敗しながら、それでもエインは手を止めなかった。
やがて、核の周囲に淡い光の線が浮かび始めた。
壁にあったものと同じ回路。
それが幾重にも重なり、核を包んでいく。
核そのものは変わらない。
光も消えない。
けれど、そこから外へ流れていた魔力だけが、次第に弱くなっていった。
エインは流れを追った。
核から出た魔力は回路に触れると左右へ分かれ、そのまま別の回路へ流れていく。外へ向かっていたはずの流れが、核の周囲を巡っている。
核は残っている。
それでも、外へ影響を与えられなくなっていた。
エインは手を離した。
しばらく待った。
何も起きない。
核は静かに光り続けている。
そして、その後ろでルカがゆっくりと身体を起こした。呼吸は穏やかだった。
立ち上がる。
一歩。
もう一歩。
今までなら核に近づくことさえできなかったルカが、エインのすぐ隣まで歩いてきた。
エインはルカを見る。
ルカもエインを見る。
それからルカは、エインへ鼻先を寄せるようにして、しばらく動かなかった。
エインは何も言わず、その場に立っていた。
完全に解決したわけではない。
核は残っている。
ダンジョンも残っている。
なぜこんなものがここに生まれたのかも、どうしてルカたちの身体に異変が起きたのかも分からない。
ただ、今すぐ何かを壊す必要はなくなった。
それだけで十分だった。
エインは核を包む回路を最後に確認してから、ルカとともに地上へ戻った。
地上へ出るころには、ルカの歩き方もかなり安定していた。
最初にこのダンジョンへ入ったとき、そこにいた魔物たちは痩せ細り、互いを食らわなければ生きられないほど追い詰められていた。その中でルカだけが人間の言葉を覚え、助けを求めた。
そのルカが、今は自分の足で歩いている。
それを確認できただけでも、エインにとっては大きかった。
王都へ戻る道中、ルカは何度か立ち止まったが、以前のように苦しんで動けなくなることはなかった。エインの近くを歩き、ときどき周囲を見回しながら進んでいく。その姿を見ていると、少なくとも今すぐ命を心配する必要はなさそうだった。
王都へ戻ったエインを最初に迎えたのは、王立魔術研究院所属、第三級魔導士のノエン・ヴァルディスだった。
研究資料を提出するために王都へ戻っていたノエンは、エインの姿を見るなり、隣にいるルカへ視線を向けた。
それから、エインが持ち帰った記録に目を通した。
核の状態。
ルカの変化。
地下で見つかった空間。
そこに存在していた魔力回路。
そして、核を破壊せず、その影響だけを遮断したこと。
ノエンは一通り読み終えると、しばらく資料を閉じなかった。
これまでの調査で分かったことだけでも、十分に異常だった。ダンジョンが本来できるはずのない場所に現れ、内部の魔物に変化を与え、その中心に通常とは異なる核が存在している。さらに、その影響を遮るための回路まで、ダンジョンの奥に残されていた。
そして今、その核は破壊されずに残っている。
「観測を続けましょう」
ノエンが出した結論は、それだった。
破壊できるものを破壊するのではなく、残したまま変化を記録する。
そのため、王立魔術研究院と王立領務院の協力によって、ダンジョンを継続的に観測する部隊が設けられることになった。魔力の変化を測定する者、魔物の状態を確認する者、周辺の地形や水の流れを調べる者が定期的に現地へ入り、異常があればすぐに王都へ報告する。
これで、一つの危機は去った。
少なくとも、今すぐ町を脅かすものではなくなった。
ルカも王都で保護されることになった。人間の言葉を理解し、意思を伝えられる魔物が確認されたのは初めてのことだったため、研究対象として扱われることになったが、以前のように拘束される必要はなかった。
エインはその様子を見届けてから、窓の外へ目を向けた。
王都の向こうには、まだ知らない場所がいくつもある。
今回の件も、終わったわけではない。
核を包んだだけだ。
なぜあの場所にダンジョンが生まれたのか、その原因は分かっていない。核が何なのかも、なぜあの回路が存在していたのかも分からない。観測によって変化を追えるようになっただけで、根本的な答えにはまだ届いていなかった。
それでも、今はそれでよかった。
分からないものを、分からないまま壊さずに残す。
そうすれば、いつか続きを調べることができる。
エインはそう考えて、視線を窓の外へ戻した。
そのときはまだ知らなかった。
このダンジョンを包んだ回路が、後になってもう一度、自分の前に現れることになるとは。
しかも今度は、あのときとはまったく違う意味を持って。




