第10話 超過
エインは、何度目になるか分からない試行を終えた。掌の上で変質させた魔力が、淡い光を放っている。
反転術式。
そう呼ばれているものを再現するため、これまでに読んだ記録をもとに、魔力の量を調整し、流れを整え、性質を反転させる。その一つ一つを分解して、別々に確かめてきた。
けれど、うまくいかなかった。正確には、失敗しているわけではない。むしろ逆だった。
「……また、強くなった」
エインが呟く。
石の表面に触れていた魔力が一瞬で内部へ潜り込み、次の瞬間、石そのものが音もなく砕けた。破片は床へ落ちる前にさらに細かく崩れ、最後には粉のようになって消える。反転術式なら、そこまでの変化は起きない。
エインは床に残った粉を見つめた。
最初の試行では、魔力の流れを逆にした。失敗して次は流れを逆にする直前で止めた。それでも駄目だった。
魔力の量を減らし、速度を落とし、変質させる時間を短くした。それでも結果は同じだった。反転になるはずのところで、何か別のものへ変わってしまう。
しかも、そのたびに威力だけが増していく。
「量じゃない……速度でもない。変質の瞬間でもない」
エインは小さく息を吐き、もう一度、先ほどの手順を頭の中で追った。
何かが違うが、どこが違うのか分からない。分からないから、条件を変えて試す。それを繰り返してきた。しかし今回は、試せば試すほど分からなくなっていた。
反転を作ろうとしている。なのに、反転よりも強いものができてしまう。しかも、それを止める方法がない。
エインはしばらく黙っていたが、やがて立ち上がった。
「……ノエンに来てもらおう」
少し離れた場所で、拘束された魔物がこちらを見ていた。
エインはその視線に気づき、そちらへ目を向ける。
「もう少しです」
返事はない。
ただ、魔物はエインから目を逸らさなかった。
ほどなくしてノエンが呼ばれた。
エインはこれまで自分が行った手順を、最初から説明した。
魔力の量。流す速度。変質させる位置。変質の瞬間。そして、最後に魔力を維持する方法。
ノエンは一つずつ聞き終えると、しばらく考え込んだ。
「……その手順を、本当に一人で?」
「はい」
「何回ほど試しましたか」
「正確には数えていませんが……二百回は超えていると思います」
ノエンの表情がわずかに変わった。
「二百……」
反転術式は、魔力の性質そのものを反転させる高度な術式だ。理論としては知られていても、実際に扱える者は極めて少ない。まして、何も分からない状態から構造を分解し、試行錯誤だけでここまで近づくなど、ノエンにとっては聞いたことのない話だった。
「それで、これが?」
ノエンがエインの前に置かれた石の粉を見る。
「反転にはならないんです」
「……反転にならない?」
「はい。途中までは似ているんですが、最後に別の変化が起きます」
エインが手を差し出す。
「一度、同じ手順でやってみてもらえませんか」
「私が?」
「はい。僕が何か見落としている可能性があります」
ノエンは少し迷ったあと、杖を構えた。
魔力が集まる。
エインが指定した量。
指定した速度。
指定した変質の位置。
そして、変質させる瞬間。
すべて、エインがこれまで試してきたものと同じだった。
ノエンの魔力が静かに揺れる。
次の瞬間。
魔力の性質が、綺麗に裏返った。
余計な膨張もない。
暴発もない。
周囲の空気を震わせることすらない。
ただ、変質だけが起きている。
「……え?」
ノエンの声が漏れた。
自分で術式を使った本人が、一番驚いていた。
「できた……?」
ノエンは自分の手を見つめ、それからエインを見る。
「今のは……」
「反転術式ですよね」
「はい」
ノエンはしばらく言葉を失っていた。
「あなたが説明した手順だけで、成立しました」
「そうみたいですね」
「そうみたいですね、ではありません」
珍しくノエンの声が強くなる。
「反転術式は、手順を書けば誰でも使えるような術式ではありません。魔力の性質を反転させるだけでも、膨大な訓練が必要です。私だって、ここまで綺麗に制御するには……」
そこで言葉を切った。
エインはノエンの術式をじっと見ている。
「……僕がやると、こうならないんです」
「それが一番おかしいんですよ」
ノエンはそう言って、改めてエインを見た。
「あなたは何をしたんですか?」
「分かりません」
エインは即答した。
ノエンは黙った。
「分からないから、調べています」
エインは自分の手を見る。
「ただ、少なくとも僕がやると、途中から別の変化が起きるみたいです」
その言葉を聞いて、ノエンは再び考え込んだ。
反転術式を習得した。そう言ってしまえば簡単だ。
だが、目の前で起きていることは、そんな単純な話ではない。
エインは反転術式を使えない。けれど、反転術式を成立させるための過程は理解している。
そして、その過程を他者に渡せば、他者は反転術式を使える。ノエンには、それだけでも十分すぎるほどの研究成果に思えた。
「これは……」
ノエンが口を開く。
「研究所へ提出した方がいいでしょう」
「研究所に?」
「王立魔術研究所です。いえ、研究所だけではありません。術式理論に関わる部署にも共有すべきです」
エインは少し考えた。
「……そうですね」
それほど迷わなかった。
「僕一人で持っていても、同じ結果を再現できるとは限りませんから」
「再現?」
「はい。僕がどうしてこうなるのかは、まだ分かりません。でも、ノエンさんが同じ手順で反転術式を使えたなら、少なくとも手順そのものには意味がある」
エインは床に残った魔力の跡へ目を向ける。
「だったら、記録して残した方がいいと思います。僕がいなくても、誰かが試せるように」
ノエンは黙ってエインを見た。
この男は、自分が成し遂げたことの大きさを理解しているのか。
反転術式の新しい訓練法。
それだけでも十分な価値がある。
もし再現性が確認されれば、魔術師たちが何年もかけて習得してきた技術そのものを変える可能性すらある。
それなのにエインは、ただ「試せるように残しておく」と言った。
「……分かりました。私の方でも記録をまとめます」
「お願いします」
「ただし、その前に」
ノエンが核を見る。
「今は、あれですね」
「はい」
研究の価値を考えるのは後でいい。
今は目の前の問題を解決しなければならない。
二人は核の前へ向かった。
ノエンが反転術式を施すと、核の表面がわずかに揺れた。
周囲から集められていた魔力の流れが弱まる。
核を覆っていた濁った光が薄れ、内部を巡っていた魔力も少しずつ勢いを失っていく。
「効いています」
エインが呟いた。
「ですが……」
ノエンの声が止まる。
核の中心だけが、まだ動いていた。外側から順番に力を失っている。確かに、反転術式は効いている。それでも中心に残った部分だけは、何度術式を重ねても消えなかった。
「ここから先に進みません」
ノエンが言った。
エインは核へ近づき、その中心を見つめた。
壊すだけならできる。自分なら、ここに魔力を叩き込んで消し飛ばすこともできる。けれど、それでは意味がない。
核が何なのか。なぜ存在しているのか。なぜ魔物へ影響を与えているのか。そして、なぜ反転術式で完全には無力化できないのか。
まだ分からない。
エインはゆっくりと息を吐いた。
「……反転だけじゃ、足りない」
ノエンは黙って核を見た。
エインもまた、目の前に残されたものを見つめ続ける。
分からない。だからこそ、調べる必要がある。まだ、試せることは残っていた。




