探偵事務所の意義
二〇一一年三月十一日。東北地方太平洋沖地震。
福島第一原発がメルトダウンを起こしたため、1・2・4号機が全電源喪失、3・5号機が全交流電源喪失に陥り(3号機は最終的にバッテリーが枯渇し、全電源を喪失した)、非常用炉心冷却装置(ECⅭS)却水循環系のポンプも動かせなくなった。しかも、海水系冷却装置系統(RHR)は津波で破損した。核燃料は原子炉停止後も長い年月、崩壊熱を発し続けるため、長時間冷却が滞ると過熱を起こし、重大な事故に繋がる。
この事態を対処し続けた作業員の一命がのちに死亡した。
綾川 轍。四十二歳。
現場監督と原子力安全委員長との間での仕事のたらいまわしが招いた事故だった。
遺族の綾川 翔はふさぎ込んでいたのだが――無理もない、父親を亡くしたのだから――とある男との出会いが彼を変える。
甘味処で羊羹を食べていた男に翔は話しかける。
「あの……」
「ん? どうした?」
「隣に座ってもいいですか?」
「いいぞ。少年」
腰掛け台に乗せてもらい、棒キャンディを舐める。
今の時季は残暑が厳しい九月。
「……聞いてもいいか?」
「はい?」
「どうして身体が痣だらけなんだ?」
「……」
「答えたくない質問なら大丈夫だ」
翔は空を見上げる。
「二年前。地震で原発事故があったでしょ」
「あったな」
「僕、そこからの疎開で東京に来たんだ。でも、そのことを同級生はよく思っていないみたい。やれ、培菌だのなんだの言われるんだ」
「そりゃあ辛いな」
「うん……もう、死のうかな」
「……」
翔は焦ったように、「ごめん。ごめん……こんなこと急に言われても困るよね。忘れてください」
「これやるよ」
翔が物珍しそうに受け取ったのは名刺。
そこには、『姫島探偵事務所』とある。
「人生に困ってそうな奴には渡すって決めているんだ。暇だったら来い」
「ありがとうござい……ます」
翔は人の優しさに触れて泣きそうだった。
それからよく事務所に入り浸るようにもなり、姫島からの発案で一緒にクリスマスパーティーや誕生日会を催してくれた。
生きていて……本当に良かった。そう、改めて実感できた。
現在、2025年の今日、ある商社の二年目営業マンとして会社の歯車なりに頑張っている。
机に飾られている姫島との写真。それを見ると心から安心できる。
「なあ」
「はい」
会社の上司からスマホの画面を見せられる。
「これ、まずいんじゃないの」
自分の目を疑った。
スマホの画面に映されていたのは、姫島聡の指名手配写真だったからだ。
すかさず、写真立てを伏せる。
「日本も物騒な世の中になったものだね」
上司が去っていったのを確認してから、姫島にメールを送る。メアド変えてなければいいけど。
だがしかし、いくら待っても返信は来なかった。
落胆する。
姫島、あなたは世の中と決別するのか。
***
「先輩。このつくね、美味いっすよ」
「あっ、本当だ。結構いけるね」
「お客さん、次なににしましょう」
「私、麦茶ハイ」
「俺は……ビ―ルで」
深夜二時。雑多な居酒屋。猥談や上司の愚痴などが狭い室内で交錯する。
ここの座敷で天沢麗美とその後輩の北岡で飲んでいた。
「とうとうハコ立っちゃいましたね」
「そうね。公安一課長も張り切っているし」
「姫島、首根っこ出すでしょうか」
「事務所ももうガサ入れしている。でも……」麗美はつくねを食す。「――何かが足りないし、何かが不足しているのよね」
ハコとは捜査本部のこと。姫島聡逮捕のため警察も動き出したということ。
「そもそもあいつはなにしたんですか?」
「ここでも言えるようなことだと、橘湾火力発電所に対してテロ予告。『そこら辺一体の火力発電所を潰して日本を沈没させる』と」
ビ―ルと麦茶ハイが届いたのでそれをぐいっと半分ほど飲む。
「そういう犯行声明を出したんですね。信憑性は?」
「あのね。捜査情報をこんな場所では言えないよね?」
「すみません……」
しばらく会話はなく、ただ食事だけが進む。
「あの――」
「なに?」
「誰か気になる人がいるんですか?」
「口説いてんの? ならもっとムード作りなさいよ。こんな居酒屋で……」
「違いますよ」
「そんな即答しなくても……」
「その……誰かを想っていそうな顔をしていたので」
ずいっと麗美が北岡の顔に近付いた。
「あなた、多くの女を泣かせてきたでしょ」
「顔近いですって……」
また麦茶ハイを流し込む。
「そうね……幼馴染と言えば聞こえはいいのかしら。その子が今回の事件に関わっているのよ。それが気になるわ」
「天沢さんって意外とメルヘンなんですね」
すると酔いからなのか麗美は北岡に挑むような目を向けた。
「メルヘンな気持ちにさせた責任、取ってよ」




