ノイスバイン帝国6
ノイスバイン帝国領内の街道、国境から少し離れたその場所には、夥しい数の人間が倒れていた。
気がついたものたちが辺りを見渡し呆然と立ち尽くしている。整然と並んでいた天幕の姿は何処にもない。視界に映るのは瓦礫の山と、泥にまみれた大勢の兵士たち。
時間が経つにつれて兵士たちが次々と起き上がってくる。どうやら命に別状はないらしい。みな一様に何が起きたのか理解できずに呆然としていた。
一部の兵士たちは先程の有り得ない出来事を思い出し、恐怖で顔を引き攣らせながら我先にと逃げ出している。
元々、半数以上が無理やり徴兵された民間人、逃げ出すのも仕方のないことだった。
その中から一際大きい声が聞こえる。誰かを必死に捜す声、その声は周囲の近衛騎士に広がり更に大きな合唱となって響き渡った。
「陛下!何処におられますか!」
「陛下ご無事ですか!返事をしてください!」
近衛騎士の叫びに呆然と立ち尽くす一人の男が我に返る。
目を落とすと衣服や鎧は泥で汚れ、一見すると誰か分からない有様。
騎士たちが必死に叫び、自分を探していることに気付くと、声を張り上げた。
「私はここだ!ここにいるぞ!」
その声を聞いた近くの近衛騎士が数人駆け寄ってくる。オヴェールの姿を確認すると、ほっと胸を撫で下ろし即座に跪いた。
「陛下お怪我はございませんか?」
「私は大丈夫だ。それよりもどうなっている?何が起こったのだ?」
「我々は何も……上空に浮かぶ巨大な水の塊が落ちてきたのは覚えているのですが……」
何が起こっているかなど騎士たちには分かりようもない。空を覆い尽くす水の塊、それが落下し全てを飲み込むなど有り得ないことなのだから。
今こうして生きていることさえ奇跡のようなもの。波に飲み込まれた時、確かに死を覚悟したはずだった。何故生きていたのかさえ分からないのだ。
しかも、気が付けば辺は別世界のように酷い有様になっている。だが、そんな中でも騎士が目にしてきた兵士たちは全員生きていた。兵士だけではない、馬でさえも生きているのだ。
現実では起こりえないことが立て続けに起きて、何が起きたのか聞きたいのは騎士たちも同じであった。
オヴェールもまた騎士たちの様子を見て分かるわけもないかと表情に影を落とした。
手掛かりがあるとすれば国境に向かったライセルとゼファイン。そして、神核魔法と呟いていたセルゲイだけだろう。
そう考えふと思う、近くには居たはずのセルゲイはどうしたのだろうか、国境に向かったライセルとゼファインは無事なのかと。
「……他のものは?私の側にはヴェルニュー侯と宮廷魔術師のセルゲイも居たはず。それに近衛騎士団長のホフマンはどうした?国境に向かったライセル侯とゼファイン侯は?」
「ライセル侯爵とゼファイン侯爵は、まだ発見されておりません。他の方々は少し離れた場所で陛下を探しております」
「そうか……皆を集めてくれるか?何が起こったのか確かめる必要がある。それと今後の話もな……」
「畏まりました」
騎士の一人は立ち上がり深く一礼すると、踵を返し群衆の中に消えていった。
いまだ周囲には倒れているもの立ち尽くすものが数多くいる。もはや誰もが戦う気力が残っていない。
これだけの損害を出し、オヴェールでさえ戦争などする気になれないのだ。無理やり徴兵された兵士に戦う気力があろうはずがない。
もし、戦争を続けても全軍を飲み込む魔法の前では全てが無力だ。自殺行為と言ってもいい。
今後、ノイスバイン帝国はどうなるのか、そのことを思いオヴェールは悲痛で胸が痛くなった。
「陛下、ご無事でしたか」
その言葉に視線を向けると、泥だらけのヴェルニューが複雑な表情で駆け寄ってくる。
「ヴェルニュー侯、貴殿も無事でなによりだ」
「陛下、お側にいながらお守りできず申し訳ございません」
「あれから守るなど誰であっても不可能だ。気にすることはない」
「ですが……」
「よいのだ。あれはどうにもならん。それよりも今後のことを考えなくては……」
「……はい。他のものも集まりましたら、先ずは近くの川で汚れを落としましょう」
「ここが何処か分かるのか?」
「土地勘のあるものに聞きましたところ、国境から北に20Km離れた場所のようです。近くの川までは4Km程ありますが、馬も無事なようですので直ぐに行くことが出来るでしょう」
「そんなに流されたのか……」
たった一つの魔法でこれほど流されるとは……
我々は一体何を相手にしているのだ。
何故、この国にばかりに不幸が訪れるのか。
毎年起こる天候不順による食糧難。
飢えを凌ぐため戦争を仕掛ければ、得体の分からない力に軍は壊滅状態。
私はこの国を、民を救いたい。ただ、それだけなのに……
これが夢なら早く覚めてくれ……
オヴェールは悲痛に顔を歪める。この国を救うための戦争が、どうしてこうなったのかと思い悩む。
どれだけ思いつめていたのだろう。先程から繰り返し呼ぶ声にようやく気がついた。
「陛下!陛下!」
顔を上げると、そこには心配そうに声を掛けるホフマンの姿が見える。他にもヴェルニューとセルゲイが少し離れて心配そうに様子を窺っていた。
「ホフマンか、無事でなによりだ」
「ありがたきお言葉。陛下もよくぞご無事で……」
ホフマンは涙で声を詰まらせる。主君を守れなかったことへの憤りや悔しさ情けなさ、込み上げてくる様々な感情が涙という形で溢れ出る。
オヴェールもまたホフマンやセルゲイの無事を喜んだ。だが時間は待ってはくれない。これからやるべきことをやらなくてはならない。
「話は後にしよう。護衛と馬の準備を、近くの川で汚れを落とす。それと、各軍の軍団長や部隊長を探し兵をまとめよ。まとめ次第、無事な食料を見つけ近くの川で汚れを落とした後、食事を取らせるのだ」
「陛下、もう陽も傾き始めています。夜は大変危険です。馬のない兵士たちの移動は明日にした方がよいのでは?」
「そうだな、ヴェルニュー侯の意見を採用しよう。兵士たちの命には変えられん。今日一日は我慢してもらうしかないか」
「それがいいでしょう。ライセル侯とゼファイン侯は何らかの情報を持っているはず。見つけ次第、護衛共々陛下の後を追わせましょう」
「落ち合う場所が必要になるな。この近くに街はあるのか?」
「近くの川から更に5km北に行ったところに街があるようです」
「ではその街で落ち合うことにしよう」
オヴェールとヴェルニューの話がまとまると、それを聞いていたホフマンも動き出す。
「私は他の騎士たちにこのことを伝え、直ぐに馬の用意をいたします」
ホフマンの行動は早かった。近衛騎士団にオヴェールの言葉を伝えると、護衛として同行するものと、この場をまとめるものに分け、即座に人数分の馬を確保した。
オヴェールらは直ぐに川へと行き汚れを落とすと街を目指す。既に陽は落ちかけようとしている。夜は魔物が活発になり、夜に街の外を出歩くことは危険とされていた。
誰もが馬を早める中、遠くに街を囲む塀が見えてくる。それ程大きい街ではないが、街を囲む塀は頑丈な作りでしっかりしたものだ。
それだけで、この世界の魔物がいかに恐れられているかが窺える。
先行して事前に話をつけたものがいたのだろう。門の前には衛兵が並び、深く頭を下げ皇帝が通り過ぎるのを待っている。一部の衛兵は頭を下げながらも、何事かと横目で様子を窺っていた。
比較的国境に近い街とはいえ、皇帝が来るような大きな街ではない。勘のいいものは何かあったのではと、訝しげに皇帝の後ろ姿を見つめていた。
街の中でも自ずと注目が集まる。翌朝には戦争だというのに、どうして皇帝がこんな小さな街にいるのかと、大勢の人が不安な表情を浮かべている。
街で一番大きな宿、それでも皇帝が泊まるような立派な宿ではない。宿は貸し切られており、一般客は入れないようにされていた。
一番広い場所を確認すると、オヴェールが同行者を呼び集める。もう戦争などできないだろう。食糧難にドレイク王国への対応、国境に現れたものたちへの対策、悩みは増えていく一方であった。




