ノイスバイン帝国5
「あれも殺しては駄目なんて……」
ジュンは冷ややかな目でライセルを見つめ小さく呟いた。
今のジュンには目の前の人間が虫けらのように映っている。益虫ならまだいいが、こともあろうか竜王を罵る害虫だ。殺したい・・・湧き上がる殺意を必死に押さえる。
レンの命令は絶対。殺すなと言われている以上殺すわけには行かない。
遠くには夥しい数の天幕が見える。あんな奴が大勢いるかと思うと吐き気がした。
ジュンはそっと手を頭上に掲げた。
その仕草にノーヴェは一言だけ告げる「殺すなよ」と。
冷静に見えるノーヴェも内心では怒り心頭だ。殺すなと言われているから何もしないが、もしこの場で暴れられたら、どれだけすっきりすることか。
それはエイプリルも同じだった。ジュンがこれから行う事を知っている。
比較的、人間が好きなエイプリルだが、レンを罵るものが目の前にいるのは許せなかった。
だから何も言わない。
遥か上空、数kmの彼方では異変が起こりつつあった。空中から水が湧き上がり、水球が物凄い勢いで大きさを増していた。
ライセルたちも異変に気付く。空を見上げると其処にはいつの間にか、巨大な水球が浮かんでいる。しかも、その大きさはとどまる事を知らない、まだ大きくなっている。
身の危険を感じ咄嗟に叫ぶ。
「あの女だ!殺せ!」
その声と同時に魔術師から魔法が放たれた。
[炎の矢][稲妻][風の刃][氷の針][石の礫]
炎の矢が飛び、稲妻が突き抜け、風の刃が切りつける。鋭い氷の塊が飛び、石の礫がジュンを襲う。
しかし、そのどれもが届かない。ジュンは冷ややかに見ているだけだ。
「何故だ!なぜ魔法が効かない!」
「化け物め!」
魔術師たちが狂ったように叫び恐怖する。そんな中、無感情な声が聞こえてきた。
「安心なさい。誰も殺しはしないから。本来であれば飲み込むと同時に水刃でバラバラにするのだけれど……今は訳あって殺せない。だから優しく押し流してあげる。遥か彼方まで……[津波]」
僅か10秒程で上空に漂う水球は既に直径5kmを超えている。それはジュンの言葉と同時に地上に落ちた。大地を優しく包み込むように、地上のありとあらゆるものを飲み込んでいく。そして、まるで意思があるかのように、ノイスバインの兵士たちだけを凄まじい勢いで押し流した。
「くそっ!こんな……」
ライセルの悲痛な叫びは波に飲まれて消えていった。
同じ頃、丘から離れたノイスバイン帝国の陣地、幾つもの天幕が張られたその場所からも、大勢の人間が空に浮かぶ巨大な水球を見上げていた。
みな一様に恐怖で顔を歪めている。特に戦ったことのない民兵は我先にと逃げ出していた。だが、いくら逃げ出しても既に遅すぎた。もう逃げる場所など何処にもない。
オヴェールらも直ぐに異変に気付く。慌てて外に出て見れば、誰もが阿呆のように口を開けながら天を見上げている。
釣られる様に見上げると、其処には信じられない光景が映っていた。
「な、何だあれは……」
「馬鹿な……神核魔法だと……」
セルゲイの呟いた言葉にオヴェールが反応する。
この状況は普通ではない。早く教えろと声を荒げた。
「神核魔法とは何だ!どうすればいい!!」
だが、返事は返ってこない。セルゲイは一人膝をつき絶望していた。
文献で読んだことがある光景。海神リヴァイアサンの放つ神の力に酷似しているのだ。それは神核魔法と呼ばれる神々が操る魔法。人間には理解の及ばぬ神の成せる技。
戦略級魔法ですらも子供の児戯に見えてくる。
誰もが何もできず、ただ巨大な水球が落下するのを眺めていた。
水球が地上に落ちると共に轟音が響き渡る。波は直ぐに押し寄せ、誰もが逃げることも防ぐこともできずに流される。波は意思があるかのように一つの塊となってどこまでも流れていった。
波が去った後には、あれほど大勢いた人間も馬も天幕も何もない。
そこにあるのはただの平野だけ、後には何も残されていなかった。
国境の丘の上、ジュンは流される人間たちを追うように遠くを眺めていた。
暫くして全てが終わったのか晴れやかに告げる。
「すっきりしたわね」
遠くに見えた夥しい天幕も消えてなくなっている。言葉の通りすっきりしていた。
その言葉に二人も頷く。これで当分戻ってくることはないだろうと。
「ジュン、確認しますが殺してませんよね?」
「ノーヴェは心配しょうね。大丈夫よ。水を一塊りにしてるから、飲み込んで窒息することはないわ。それに、動かしたのは表層の部分のみ、内側には空気も十分取り込んでいるから問題ないわよ。中に取り込まれてしまえば呼吸もできるし穏やかなものよ」
「なら大丈夫っすね。これからどうします?」
「このまま待機でしょうね」
三人が話していると一人の竜人が飛んできた。それは見覚えのある竜人だが三人とも思い出せない。
余程、慌てて来たのだろう。肩で大きく息をしている。
「皆様、どうしてこのような場所に。それに、先程の水はいったい……」
「えっと……誰っすか?」
「何となく見覚えはあるのだけれど……」
「私も記憶力はよい方ですが思い出せませんね」
「こ、これは申し遅れました。私はヒューリ陛下を護衛する親衛隊の隊長、マルスと申します。以後お見知りおきを」
それで三人は思い出す。レンと初めて会った時、ヒューリの傍にいた竜人だと。
護衛の紹介はされていないため、名前が分かるはずもなかった。
「ってことは国王も来てるんすかね?」
「陛下はまもなく到着されます。私は一足先に様子を見に来たのです。それで、これは一体……」
マルスは遠くを見渡す。報告ではノイスバイン帝国の陣地があるはずだが、何処にも見当たらない。
その様子を見てジュンが微笑む。
「ノイスバイン帝国にはお引き取り願ったわ。この戦争をレン様は望まれていません。貴方たちも早く帰りなさい」
「えっ!?……しかし……」
「私たちが、ここに待機しますわ。安心なさい」
「……分かりました。では、天幕をご用意いたします」
「ええ、お願いしますね」
「私は一度陛下の元に戻ります。皆様もお気をつけて」
マルスは一礼すると大空に消えていった。
残された三人は退屈そうに遠くを見つめてそれぞれ思う。
逆らう者を皆殺しにすればいいだけ、その気になれば世界すら容易く支配できるのにどうして……
ジュンは逆らうもの全てを殺せばいいのにと。
力で支配しないのは明確な意図があるはず、レン様のお考えを理解しなくては。
ノーヴェはレンの考えを理解しなければと。
レン様は優しすぎる。それが命取りにならないとも限らない。もしもの時は私が……
そして……エイプリルは静かに覚悟を決める。
もし、レンの命を脅かすものがいたなら迷わず殺すと。
それが、レンの怒りを買い殺されようとも……




