* 逃 避 * 3
「辛いでしょうけど、頑張ってください」
そう言って、私を抱き上げ、廊下へ出るドアの方へと向かった。
「布団……あそこでしたっけ?」
私を抱きかかえたまま、小さな声でそう話し掛けれたので、「いえ……あっという間に……」とだけ答えた私がいた。
「ですよね……」
隊員はその後の言葉は発しなかったけれど、私を抱きながら部屋のドアの方へ向かいながら何度も後ろを振り返っていた。
「変なんです……ここ……」
そう言っただけの私に、その隊員は笑顔を向けてくれてはいたものの、何だか、顔が強張っている感も否めなかった。
「もう、大丈夫ですから」
それだけ口にしただけ。
「もう、大丈夫ですよ」というその言葉は、私たちが体験した数々のことが怪奇に満ちていることが判っているかのようにも感じられていた。
『この旅館のこと、知っているのかな』
そのようなことも思ったけれど、私もそれ以上のことは訊かなかった。
訊けなかった……!?
隊員の腕の中で、ホッとしたことは言うまでもなく、その安心からか、身体を動かされても、もどすことはなかった。
ホッとしたのも束の間。
また、恐怖が私を襲った。
廊下へ出るドアのところで、また聞こえた“あの声”。
「ココニイロ」
その声がハッキリと聞こえ、隊員の腕の間から下を見ると、あの老婆が床へ這いつくばり、隊員の足を掴もうとしている姿がはっきりと見えた。
「早く出てください!」
私は、私を抱いている隊員へ自分ではその時出すことができるありったけの声でそう叫ぶと、それきり意識を失ってしまった。
次に意識が戻ったのは、ストレッチャーに乗せられ、救急車へ乗せられるちょうどその時だった。
「大丈夫ですか?」
私を抱いてくれていた消防隊員の顔が目に入った。
「あの……っ!」
「はい?」
「……足は……」
そう言った私の言葉が不思議だったのだろう。
その隊員は自分の足元を見て、「どうかしました?」と。
私は、それ以上のことは言わずにいた。
「いきなり大きな声で叫んで、気を失ってしまわれたから、びっくりしましたけど、よかったです」
そう言うと、旅館にいた時と同じ笑顔を向けてくれた。
その笑顔からすると、特に何もなかったのだということは判ったので、やはり、必要以上の説明はしないでいた。
そして、ふと横を見ると、まだ暗い夜空の下、この旅館へ入る時と同じ景色がうっすらと目に入った。
『出られた……』
そう思った瞬間。
先輩たちのことが気になった。
消防隊員と部屋を出る時に、確かに見て聞いた老婆の姿と声。
「ココニイロ」
あの時に及んでも、まだ私を引き留めようとしていた老婆。
残って検査などをしている消防隊員と一緒といっても、それは私が部屋を出る時と同じ状況下。
無事に出ることが出来るのだろうか……。
激しい吐き気は治まっていた私は、すかさず、ストレッチャーの横にいた、私を連れ出してくれた消防隊員へ聞いた。
「先輩たちは……あの、大丈夫ですか?」
“大丈夫”という意味は、私にとっては「あの老婆から」という言葉が付属される意味だったけれど、そのことを知る由もない隊員は、当然、ガスのことかと思ったらしい。
「大丈夫ですよ。換気もしましたし、数値も下がっていましたから」
本当は、意識が戻ってからずっと部屋を出る時のことを伝えたかった私がいたけれど、やはり、その場で老婆のことを話しても仕方がないと、最後に観念した私は、「病院へは?」とだけ聞いた。
「一通りの説明を受けてから向かうと言ってましたよ」
また、ニッコリと笑って言ってくれた。
ひとりで不安そうな私に見えたのだと思う。
その気遣いには感謝したけれど、やはり、先輩たちがかなり心配であった私がいた。
『無事に来てくれますように……』
一足はやく旅館から出ることが出来た私は、ただそう祈るしかなかった。




