* 旅館 其の三 * 8
『大丈夫だから?』
私は、鈴木先輩のその言葉を不思議に思っていた。
普段は、霊感とか超常現象など何の興味もないというような先輩だったから。
私の隣に来た鈴木先輩は、私の腕を強く掴み、パタパタという奇妙な音の方をじっと見つめていた。
「……先輩?」
「大丈夫。私には近づけないから」
そう言って、まだ、“音”のする方を凝視している。
まるで、何かを威嚇するような鋭さで。
「近づけないって……あの……」
私の腕を掴んだ鈴木先輩の手の力が更に強くなっていた。
「後で話すけど……いい?香里ちゃんは、そのまま見ちゃダメだよ」
「は、はい」
私は、何が起こっているのかも理解することも出来ずに、ただ、鈴木先輩の言うことに従って、先輩が見ている方向とは逆の方を見ていた。
見ていた……といっても、ほとんど下を向いて、目をつぶっていたけれど。
たとえ反対側を見ていたとしても、いくら目が慣れて来ていたとはいえ、そこは真っ暗な空間が広がっているだけだったと思う。
何処をどう見ても、考えても、恐怖の気持ちがおさまるような光景ではなかった。
パタ・パタ・パタ・パタ
パタ・パタ・パタ・パタ
パタ・パタ・パタ・パタ
私達の方へその音が近づくにつれ、私の身体も硬直していた。
音も段々と大きくなっている
恐怖というより、金縛り状態に近かった気がする。
そのような状態の中、耳だけは鋭く働いており、その“音”が、人の足音ということが、はっきりと認識することが出来ていた。
『誰か……いるの?本物の人?……ちがうの?』
私は、恐怖で身体中が凍りつくような感覚の中、ただ、そのようなことだけを考えていた。
一瞬、私の腕を掴んでいた鈴木先輩の手の力が、物凄く強くなり、思わず、「痛っ!」と声を出した私。
その時、その音が止まった。
「香里ちゃん!行くよ!」
大きな声で、鈴木先輩はそう言うと、私の腕を強すぎるくらいの力で掴んでいた手はそのままで、私を引っ張るようにして、私達の部屋へとのぼる階段の方へ走り出した。
瞬間、目があいた私がいた。
“音”がしていた方とは逆方向。
「え?なに?」
「いいから!」
とにかく、私は鈴木先輩に引きずられるような感じで、暗い闇の中を走った。
階段もどのように上ったのかもわからない。
階段が苦手な私は、いつもは慎重すぎるくらいに足元を見ながら上がり下がりしていたのにもかかわらず、その時は足元さえ見ていなかった。
よく転ばなかったものだと、今は思う。
思ったら、私達が駆け上がった階段は、フロントの公衆電話のところまで来る時には、壁についた小さな電燈で、薄暗いものの、真っ暗ということはなかった記憶がある。
しかし、1階のフロントから逃げるように走って上った時の階段は、真っ暗だったイメージが残っている。
恐怖のせいだったのかもしれないし、夢中だったせいであったのかもしれない。
それでも、やはり、“真っ暗”というイメージは確かに残っている。
* 幻 影 其の一 *につづく




