第9話 勇者様、財布を落とす
街での買い物は、単なる日用品の調達のはずだった。石鹸と替えの下着と、あとは小腹を満たすための干し肉を少々。それだけの、他愛のない用事だった。
支払いのために懐を探った瞬間、凪の手が空を切った。
「……あれ」
何度も同じ場所を探る。ない。財布そのものが、どこにも見当たらない。
「落とした、みたいです」
店主に頭を下げ、栞と二人で来た道を戻りながら探してみたけれど、それらしいものはどこにも落ちていなかった。
大した金額が入っていたわけではない。それでも、せっかく貯めていた小遣いのようなものが、跡形もなく消えてしまったという事実が、じわじわと凪の心を削っていく。
「別に、いいですよ。また稼げば」
栞はそう言って肩をすくめたけれど、その口調にはいつもより少し、慰めるような響きが混じっていた。それでも今の凪には、うまく届かなかった。薬草採取でも、ウサギでも、審問官でもない、こんなささやかな理不尽にすら、もう抗う気力が残っていなかった。
膝から力が抜けていく。
視界が白く塗りつぶされる。
『わっしょいルーレット、スタート!』
紅白の部屋、勝手に回るルーレット、祭り囃子。もう何度目かも数えていない光景を、凪はぼんやりと眺めていた。
カラン、と音を立てて、針は「四時間」の上で止まった。
『四時間、決定でーす! それでは、良い現代生活をー!』
声とともに、視界がまた白く染まる。
次に目を開けたとき、凪は自室のベッドの上にいた。時計は土曜の夕方、五時を少し回ったところを示している。
湯船に浸かりながら、財布の中身をぼんやりと思い返してみる。大した額ではなかったはずなのに、思い出そうとするほど、なぜか惜しく感じられた。
夕食は、いつも通りの家族の食卓だった。何を話したかもよく覚えていないまま、気づけば食べ終えていた。
部屋に戻ってから、凪はふと思い立って机に向かった。異世界での出来事を、忘れないうちに書き留めておきたかった。せめて日記くらいはつけておかないと、そのうち何が本当にあったことなのか、自分でも分からなくなりそうな気がした。
けれど、日記帳などという気の利いたものは家のどこにも見当たらず、結局、学校の授業で使っている国語のノートを引っ張り出すことになった。
「土曜日。薬草採取、ウサギ、審問官、財布を落とした」
箇条書きにすると、あまりにも情けない出来事の羅列だった。それでも、ページの隅にそれを書き記していくうちに、凪は少しだけ、自分の中で何かが整理されていくのを感じた。
ノートの最後に、迷った末に一行だけ書き足す。
「栞さんに膝枕された」
書いてから、急に恥ずかしくなって、その行だけ何度も塗りつぶした。それでも、跡はうっすらと残ったままだった。
ノートを閉じて、机の隅に放り出す。日記のつもりで書いたことも、この時の凪はすっかり忘れていた。




