第10話 勇者様、公園で目覚める
ノートを閉じたあと、凪はしばらく机に向かったまま日記に書いたばかりの出来事を反芻していた。財布を落として心が折れてまた戻ってきて。そんなことを何度も繰り返しながら、この先いったいどうなっていくのだろうとふと考え込む。規格外の魔物のこと、名乗らない女性のこと、それに栞のこと。
考え事を抱えたまま、凪はベッドに移り横たわった。答えの出ない堂々巡りは天井を見つめている間も止まらなかった。
時間切れが訪れたのはそんな最中だった。
視界が白く塗り替わる感覚に、凪は抗う間もなかった。
次に目を開けたとき、視界に飛び込んできたのは見慣れない木々の緑と頭上に広がる異世界の空だった。それからすぐ近くにある人の顔。
「……起きました?」
栞の声だった。凪は自分が公園らしき場所のベンチで、栞の膝の上に頭を乗せていることに数秒遅れて気づいた。
「なんで、また」
「戻ってきたらベンチに座ったまま倒れ込んでたので」
あまりにも慣れた口調で説明され、凪は返す言葉を失う。もう何度目かのこの体勢に、驚きよりも先に妙な安心感の方が勝っている自分に気づいて、余計に落ち着かなくなった。
「ここどこですか」
「宿の近くにある小さな公園です。人が少ないので時々気分転換に来てるんです」
見上げるとこの世界の月は、記憶にあるものよりも心なしか大きく見えた。夜風が木々を揺らす音だけが、あたりに静かに響いている。栞の膝の感触と頭上に広がる知らない星の並びに、凪はしばらくぼんやりと身を委ねていた。
「また考え事してました?」
栞にそう聞かれ、凪は少し迷ってから頷いた。
「この先どうなるんだろうって」
「さあ」
栞はいつもの調子でそう答えたけれど、続けてこう付け加えた。
「でも一人じゃないので、それなりに何とかなると思います」
その一言が、堂々巡りしていた考え事をそっと押し留めてくれる気がした。
しばらくの間、二人とも何も言わずに星を眺めていた。
やがて栞がふと思い出したように口を開いた。
「そういえば明日のクエスト聞いてます?」
「いえ、まだ」
「湖の掃除だそうです」
「掃除……」
「湖に流れ着いたゴミを拾う仕事です。地味ですけど水辺は虫が多いのでそこだけ気をつけてください」
虫という単語に、凪はわずかに身構える。ウサギにすら心が折れた自分にとって、それは決して聞き流せる警告ではなかった。
「虫苦手なんですか」
「得意な人の方が珍しいと思います」
そう言い返しながらも、凪の脳裏にはすでに羽虫の大群に追いかけられる自分の姿が浮かんでいた。
「もし何か出たら」
「もし出たらわたしが何とかします」
あっさりとそう請け合われ、凪は少しだけ肩の力を抜いた。これまでの数え切れない失敗を思えば、また何かにやられて折れる可能性は十分にある。それでも隣にこの人がいる限り大丈夫な気がした。
夜風が少し強くなり、木々のざわめきが大きくなる。栞がそっと凪の頭を支えていた手の位置を直した。
「そろそろ戻りましょうか」
「……もう少しだけ」
自分でも思いがけない一言が口をついて出た。
栞はしばらく黙ったまま凪の顔を見下ろしていた。断られるかもしれないと思った矢先、栞は小さく息を吐いてまた元の姿勢に戻った。
「はい、もう少しだけ」
その声にいつもの飄々とした調子はなく、代わりに隠しきれない甘さのようなものが滲んでいた。
夜の公園に、二人分の静かな時間がもうしばらく続いていった。




