第7話 膝枕とわっしょいルーレット
案内役たちの動揺をよそに、その日のクエストはいつも通りの薬草採取だった。けれど草原を歩く間も、凪の頭からは「規格外」という言葉が離れなかった。
宿に戻り、夕食を終えて部屋に戻った頃には、張り詰めていた気持ちがどっと緩んでいた。栞と二人、静かな部屋で向かい合っていると、昼間の女性のことも、規格外の魔物のことも、急に現実味を失っていくように感じられる。
「大丈夫ですか」
栞の声に、凪はふと視界が滲むのを感じた。大丈夫だと答えようとした矢先、膝から力が抜けていく感覚が先に来る。
これは、痛みでも恥ずかしさでもなかった。ただ、抱えきれないものを一度に手放すような、静かな折れ方だった。
視界が白く塗りつぶされる。
『わっしょいルーレット、スタート』
もう何度目かも数えていない声が、間延びした調子で響いた。紅白の幕、けばけばしい提灯、勝手に回り出すルーレット。凪はぼんやりとその光景を眺めながら、今回はどうか長めに出てほしいと、柄にもなく強く願った。
カラン、と音を立てて、針は「十二時間」の上で止まった。
『十二時間、決定でーす! それでは、良い現代生活をー』
声とともに、視界がまた白く染まる。
次に目を開けたとき、凪は自室のベッドの上にいた。カーテンの隙間から差し込む光の強さからして、時刻はもう昼に近いはずだった。時計を確認すると、正午を少し過ぎたところを示している。
土曜日でよかった、と凪は心底思う。もしこれが平日だったら、と考えるだけで背筋が冷えた。
部屋を出ると、母がちょうど昼食の支度をしているところだった。
「あら、今起きたの。珍しい」
「うん、なんか、疲れてて」
適当にごまかしながら食卓につく。食卓には、母が最近始めたというぬか床から取り出したばかりのきゅうりが並んでいた。
「ねえ、これ結構いい感じに漬かってると思わない?」
「……美味しい、けど、それより二回目でこの味は早くない?」
「でしょう。ぬか床って結構すぐ育つものなのよ」
母の得意げな様子に、父が横で苦笑しながら箸を伸ばす。異世界のことなど微塵も知らない、いつも通りの食卓の光景が、今日はやけにありがたく感じられた。異世界のことは、もう誰にも話す気になれなかった。話したところで信じてもらえないというより、あの世界での出来事を、今はまだ言葉にしたくない気分だった。
昼食を終え、部屋に戻ってからも、なかなか落ち着かなかった。規格外の魔物という言葉と、あの女性の冷めた笑みが、何度も頭の中で繰り返し再生される。
ベッドに横たわったまま、天井を見上げて考え事をしているうちにも、時間は容赦なく過ぎていく。十二時間という長さを持て余しながら、凪は静かな部屋でひとり、その瞬間を待つことになった。
午後一時を回った頃、意識が再び白く塗り替わる。
次に目を開けたとき、視界の端に、見慣れない天井の代わりに人の顔があった。
「……起きました?」
栞の声だった。凪は自分が、栞の膝の上に頭を乗せていることに、数秒遅れて気づいた。
「な、なんで?」
「戻ってきたら、横になったまま倒れてたので。とりあえず、頭だけこうしておきました」
あまりにも自然な口調で説明され、凪は返す言葉を失う。心臓が急に、うるさいくらいに音を立て始めていた。
「あの、そろそろ」
「もう少し、このままで」
栞はそう言うと、凪の頭を軽く撫でた。いつもの飄々とした調子とは少し違う、どこか確かめるような手つきだった。
「昼間、怖かったですよね」
「……はい」
「戻ってこなくて、少し焦りました」
その一言に、凪の胸の奥が締め付けられる。規格外の魔物より、名乗らない女性より、今はこの人の声の方が、ずっと大きく響いていた。
しばらくの沈黙のあと、栞がぽつりと呟いた。
「あの人のこと、少しだけ調べてみました」
「……何か、分かったんですか」
「まだ、途中です」
栞はそこで言葉を切ると、凪の頭を撫でていた手を止めた。
「でも、放っておく気はないので」
いつもの飄々とした調子に戻ったその一言には、それでも隠しきれない芯の強さが滲んでいた。




