第6話 名乗らない女
栞が半歩前に出たことで、女性の視線がわずかに動いた。
「随分と過保護なんですね」
女性がそう言うと、栞は静かに問い返した。
「お名前を伺っても」
「今は、まだ」
女性はそう言ったきり、名乗ろうとしなかった。かわりに、値踏みするような視線を凪へと戻す。
「勇者様、今日はどのようなクエストをこなされたんですか」
「薬草採取と、あとは、その」
「ウサギを一匹、捕獲したそうですね」
女性の口調には、隠すつもりのない揶揄が滲んでいた。凪は顔が熱くなるのを感じながら、それでも言葉を返す。
「悪いですか」
開き直ったような一言に、女性は一瞬だけ、意外そうな顔をした。それは揶揄でも呆れでもない、何かを確かめるような目の色だった。
「いえ、別に」
女性はそう言うと、それ以上は追及せず、ただ栞の方をちらりと見た。何か言いたげな、それでいて言葉にしない視線だった。栞はその視線を、逃げるように受け流す。
「では、また伺います」
それだけを言い残して、女性は宿の前から立ち去っていく。歩き方には、これまで見てきたどの騎士や案内役とも違う、迷いのない静けさがあった。
その後ろ姿が見えなくなるまで、栞はじっと動かなかった。
「……知り合いなんですか
「いえ、面識はないです」
「じゃあ、なんで」
「噂くらいは、聞いたことがあるので」
それ以上は語ろうとしなかった。凪はそれ以上踏み込むことができず、ただ胸の奥にざらついた違和感だけが残った。
その日の夜、凪は寝台に腰掛けたまま、なかなか寝付けずにいた。隣の椅子に座る栞も、いつものように軽口を叩く様子もなく、窓の外をぼんやりと眺めている。
「……本当に、大丈夫なんですか」
「何がです」
「あの人のこと。何か、隠してますよね」
栞はしばらく黙り込んだあと、小さく肩をすくめた。
「隠してるというか、まだ確かめてないことが多いだけです」
「確かめる」
「あの人がどういう立場で、何のためにここに来たのか。それが分からないうちは、下手に動かない方がいいので」
その言い方は、いつもの飄々とした調子とは少し違っていた。凪はそれ以上聞くのをやめて、ただ小さく頷いた。
翌朝、いつも通りギルドに顔を出すと、掲示板の前が妙にざわついていた。案内役たちが顔を寄せ合い、何やら深刻そうな表情で話し込んでいる。
「どうかしたんですか」
凪が声をかけると、案内役の一人が慌てた様子で振り返った。
「勇者様、実は……北の山間部で、大型の魔物の目撃報告が」
「大型」
「詳しいことはまだ分かっていないのですが、かなりの、その、規格外の存在らしく」
言葉を濁す案内役の様子に、凪の胸の奥がざわつく。これまで薬草採取とウサギ討伐しかこなしていない自分に、規格外の魔物の話などまるで現実味がなかった。
「まさか、それを勇者様に」
栞が横から口を挟む。案内役は気まずそうに視線を逸らした。
「まだ、正式な依頼という形にはなっていないのですが……」
その歯切れの悪さが、逆に凪には嫌な予感として響いた。
案内役たちの背後、少し離れた場所に、昨日の女性が静かに立っていた。こちらの様子を、値踏みするような目でじっと見つめている。
凪と目が合うと、女性はふっと小さく口の端を上げた。それは笑みと呼ぶには、あまりにも冷めた表情だった。




