第2話 勇者様、また何かに負けたらしい
草原に着いてからは意外にも順調だった。葉の裏が白っぽいものを探しては摘み取り籠に入れていく作業を、凪は思いのほか丁寧にこなしていた。
「筋がいいですね」
少し離れた場所から栞が声をかけてくる。褒められることに慣れていない凪は、曖昧に頷きながら次の株に手を伸ばした。指先に力を込め、勢いよく引き抜いたその瞬間、葉の縁がすっと肌を撫でていく。
「痛っ……」
小さな傷だった。それでも赤い線がじわりと滲むのを見た途端、情けなさが込み上げてくる。勇者なのに。召喚されて、まだ一日と経っていないのに。
膝から力が抜けていくのを感じたと思った次の瞬間、凪はもう見知らぬ場所に立っていた。
紅白の幕がびっしりと張り巡らされた、やけに派手な部屋だった。天井からは提灯がずらりと吊り下げられ、壁という壁に金の房飾りがこれでもかと垂れ下がっている。
『わっしょいルーレット、スタート!』
「 ……え?」
目の前に巨大なルーレットが唐突に出現し、勝手に回転を始める。一時間から二十四時間までの数字が円盤いっぱいに書き込まれ、中央には「わっしょい」と大きく飾り文字で記されていた。景気のいい祭り囃子が鳴り響く中、凪はただ突っ立ったまま、針の行方を見守ることしかできない。
カラン、と間の抜けた音を立てて、針は「六時間」の上で止まった。
『六時間、決定でーす! それでは、良い現代生活をー!』
声が告げると同時に、視界がまた白く塗りつぶされる。
次に目を開けたとき、凪は放課後の教室で机に突っ伏していた。窓の外はまだ西日が差していて、さっきまでと変わらない、いつもの教室の風景がそこにある。指先には、切り傷らしきものは見当たらない。
「……夢か」
軽い調子でそう呟くと、凪は伸びをしながら帰り支度を始めた。
その日の夕飯の席で、居眠り中に見た変な夢の話をしてみたけれど、家族の反応はあくまで「よくできた話」の域を出なかった。神輿で十分揺られただけで音を上げたと言うと、父には夢でも酔うのかと笑われる始末だった。
時計の針が二十二時を回った頃、凪の意識はゆっくりと眠りの中へ沈んでいく。
次に目を開けたとき、視界に飛び込んできたのは、見慣れた自分の天井ではなかった。石造りの壁、差し込む月明かり、そして自分を見下ろす複数の人影。
「……あ」
パジャマ姿のまま、布団もなく硬い床の上に転がっている自分に気づくまで、しばらくの時間を要した。
「勇者様、お目覚めですか」
案内役の声がする。凪はパジャマの裾を押さえながら、ゆっくりと身を起こした。部屋の隅では、栞が壁に寄りかかったまま、こちらを見て小さく肩を震わせている。
「……笑ってますよね」
「笑ってません」
嘘だった。目元は、はっきりと笑っていた。
その一部始終を見ていた栞が、安堵とは違う、もっと複雑な表情を一瞬だけ浮かべたことに、凪はまだ気づいていない。
パジャマ姿のまま、再び草原へと向かうことになった。せめてもの救いは、この世界の住民たちが「勇者様の奇抜な装束」くらいにしか思っていないらしいことだった。
薬草採取そのものは意外にも順調だった。籠いっぱいの薬草を抱えて、凪はようやく肩の力を抜く。
油断していたのは、その帰り道だった。茂みの奥が小さく揺れた音に、凪はまったく気づいていなかった。だからこそ、白い毛玉のようなものが横から飛び出してきて、パジャマの裾に軽くぶつかりながら爪を立てていったとき、何が起きたのか一瞬理解できなかった。
「痛っ……」
ウサギだった。絵本に出てくるような愛らしい姿をした、明らかに危険度など皆無に見えるウサギが、凪の足首を引っかいて、あっという間に茂みの奥へと逃げていってしまった。
傷そのものは、指を切った時よりもさらに浅かった。それでも凪の中では、痛みよりも別のものが大きく膨れ上がっていく。勇者と呼ばれる自分が、よりにもよってウサギに、しかもパジャマ姿のまま、まったく無防備に傷つけられているという事実そのものが、じわじわと胸の奥を締めつけていった。
「なんで、こんな時に……」
声が震える。膝から力が抜けていく感覚に、凪はもうすっかり覚えのある予感を抱いた。
勇者が、パジャマ姿で、ウサギに。
その情けなさだけが頭の中をぐるぐると回り続けたまま、凪の心はまた静かに折れていった。
視界が白く滲み始めたと思った瞬間、凪はもうあの紅白の部屋の中に立っていた。もう二度目だというのに、この空間の悪趣味さには一向に慣れる気配がない。
『わっしょいルーレット、スタート!』
「……はいはい」
もう驚きもせず、凪はぼんやりとその場に立ち尽くしていた。目の前でルーレットが勝手に回転を始め、祭り囃子が響く中、針が数字を一つずつ跨いでいく。
カラン、と間の抜けた音を立てて、針は「三時間」の上で止まった。
『三時間、決定でーす! それでは、良い現代生活をー!』
声が告げると同時に、紅白の空間もろとも視界がまた白く塗りつぶされる。
次に目を開けたとき、凪は自室のベッドの中で、布団にくるまったまま眠っていた。夜中にふと目を覚まし、指先に触れてみる。切り傷はどこにもなく、足首にもウサギに引っかかれた痕らしきものは見当たらない。
「……またこの夢か」
凪は寝返りを打ちながら、半分眠ったままそう呟いた。今日で二度目だというのに、随分と設定の細かい夢を見たものだと、他人事のように思う。パジャマで薬草採取をして、ウサギに引っかかれて、紅白の変な部屋でルーレットを回された。よくできている、と自分の想像力に対して謎の感心すら覚えながら、凪は再び眠りの中へと戻っていった




