第1話 勇者様、御降臨
「勇者様、恐れながら、簡単な模擬戦をお願いしたい」
白髪を短く刈り込んだ、隙のない立ち姿の男が、まっすぐ凪に向き直る。王都から遣わされたという審問官の視線には、値踏みするような鋭さがあった。
「模擬戦」
「はい。相手はこちらの騎士団員から一名」
断る選択肢は、どうやら用意されていない。凪は隣に立つ栞を見る。助けを求める視線に、栞はほんの一瞬、目を伏せた。
広場の中央、凪は木剣を手渡され、相対する騎士と向き合う。合図と同時に踏み込んできた相手の一撃に、凪は反射的に剣を持ち上げた。木剣同士がぶつかり、あっさりと剣が手から弾き飛ばされる。
「これは、いささか」
審問官の目が細くなる。
「勇者様は、実戦よりも搦め手を得意とされる方でして」
割って入ったのは栞だった。声の調子はいつも通り落ち着いていたけれど、握りしめられた拳が、微かに震えている。
審問官がゆっくりと口を開きかけた、その時だった。
思えば、すべてはあの日から始まっていた。
放課後の教室は、西日でオレンジ色に染まっていた。窓際の席で、凪は机に突っ伏したまま完全に眠り込んでいる。誰もいなくなった教室でひと眠りするのは、凪にとってちょっとした習慣だった。
瞼の裏に沈んでいた暗闇が、不意に眩しいほどの白に塗り替わる。
次に目を開けたとき、そこはもう教室ではなかった。
高い天井、石造りの柱、床いっぱいに描かれた見たこともない紋様。周囲を取り囲むように立っている、白い装束の人々。誰もが息を呑んだような顔で凪を見つめている。
「勇者様の御降臨だ……!」
その一言をきっかけに、広間中がどよめきに包まれた。歓声、拍手、すすり泣くような声まで混ざっている。まだパジャマではなく制服のままでよかった、と場違いなことを考えている自分に、凪はどこか他人事のように呆れていた。
「あの、それで、私は何をすれば」
「まずは歓迎の儀を」
言い終わるより早く、周囲の人々が一斉に動き出す。誰かが凪の腕を取り、気づけば広間の外へと連れ出されていた。外に出た瞬間、太鼓の音と歓声が津波のように押し寄せてくる。
「勇者様ー! 勇者様ー!」
「わっしょい! わっしょい!」
目の前には、色とりどりの旗に飾られた神輿が用意されていた。抗う間もなく担ぎ上げられ、揺れはすぐに激しさを増していく。左右に、前後に、時には円を描くように振り回され、凪はしがみつくものを探して手すりを握りしめた。
「……あの、これ、いつまで」
隣で同じように揺られている栞に、凪は声を絞り出した。
「あと十分くらいですかね」
「十分」
その短さに、内心わずかな安堵がよぎる。けれど揺れは一向に収まらず、景色が右か左かも分からないほど回り続ける中、凪は必死に手すりにしがみつきながら込み上げてくるものを懸命に飲み下していた。
ようやく神輿から降ろされた頃には、太陽はすっかり傾いている。地面に足がついた瞬間、凪はその場にしゃがみ込みそうになるのをなんとか堪えた。
「勇者様って呼ばれるの、慣れないですね」
「そのうち慣れます、慣れなくても慣れたふりはできるようになります」
栞はそう言いながら勝手知ったる様子で宿の椅子に腰掛ける。世話係として、しばらく行動を共にすることになっているらしかった。
翌朝、凪に与えられた最初の仕事は、拍子抜けするほど地味なものだった。
「まずは足慣らしということで、こちらのクエストからお願いします」
案内役から手渡された依頼書には、達筆すぎてかえって読みにくい字で「薬草採取」とだけ書かれている。魔物退治だ聖剣だと言われるより、よほど気楽に思えた。
依頼書を受け取る凪の後ろで、案内役の一人が栞に向かって、ほんの一瞬だけ、意味ありげな視線を送っていたことに、凪はまだ気づいていない。




